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コンフェッシオーネーーある告白

2025年7月28日 コンフェッシオーネーーある告白

2.暗夜のローマ、17歳の憂愁

著者: ヤマザキマリ

約40年前、17歳の少女はイタリアへと旅立つ。背中を押したのは、敬虔なカトリック信者にして音楽家の母。異国での生活を前に動揺する少女に、400年前、遠くヴァチカンを目指した4人の少年たち(クアトロ・ラガッツィ)の影が重なる――。科学と芸術、そして宗教が色濃く共存し続けるイタリアで培ったものとは、何だったのか。人生でもっとも貧しく苦しかった画学生としての生活と、自らの裡に沈殿していた“信仰”を告白。これまで封印していた記憶の扉をひらく、渾身のメモーリエ。

「アウェイ」の解放感

 中学生のころ、所属していたブラスバンド部でリーダー格の女子と彼女の取り巻きが、突然私と口を利いてくれなくなったことがあった。理由は、リーダーの一番の仲良しの女子と私が二人きりで映画を見に行ったから、というようなことだった。

 「無視」という制裁を受けたのは私が初めてではなかった。その前にも別の女の子が、テスト勉強はしないと約束したのにひとりだけ成績が良かったのは抜け駆けをしたからだと、その子と口を利くことを禁止された。

 私は嫌気がさして部活を辞めた。当時ブラスバンドでは、その年のコンクール用にヴェルディの「シチリア島の夕べの祈り」という楽曲を練習している最中で、私の担当だったフルートとピッコロは必要不可欠な楽器だったが、たとえ皆が困ろうと、私にはもうそれ以上その組織と関わりを持ち続けるのは無理だった。学校という小さな社会単位の中で生み出される謎のヒエラルキーと宗教的ルールには、心の底からうんざりしていた。

 前回書いたように、進路指導の教員から絵描きになりたいという希望を一方的に非難されたのも同じころだった。やさぐれて、学校へ行くのも億劫になりつつある娘を見かねた母のたくらみで、突然ひとりきり欧州へ出された14歳の私は、フランスに到着した瞬間、「アウェイ」というとてつもない解放感を知った。

 シャルル・ド・ゴール空港まで迎えに来ていたのは、母の友人の叔父にあたるポールさんという中年の男性だった。彼は背広の胸ポケットから、若かりしころの母と彼の姪である女性が肩を並べている写真を取り出して私に見せ、もう安心だからと私の肩を叩いて緊張をほぐしてくれた。フランスへようこそ。姪はリヨンであなたの到着を待ち遠しくしているよと、フランス(なま)りの英語を話すポールさんにTGVの駅まで送られたあとはひとりきりだったが、私はまったく平気だった。

 リヨンで私を迎えてくれるのは、母がかつて湘南のミッションスクールに通っていたころ、卒業まで懇意にしていたフランス人のシスターの姪でもあり、戦後から絶やさず続けている文通だけではなく、それぞれの国で実際にも会っている昔からの母の親友である。そうした背景も私が異国の地で緊張を解くことのできた理由だった。

 天正遣欧少年使節の4人にしても、2年という歳月をかけて到達したポルトガルは、故郷とは似ても似つかぬ完全な「アウェイ」であったはずだ。しかしその「アウェイ」は、少年たちの親族からも信頼を託されているイエズス会の宣教師ディオゴ・デ・メスキータの故郷でもあった。久々の帰郷で喜ぶメスキータの様子は、彼らに安心感を与えたはずだし、日本を離れる前にイエズス会が設立した「有馬セミナリヨ」(現在の長崎県南島原市)で学んだ欧州の文化や知識もまた、新天地に堂々と踏み込んで行くための、少年たちの勇気の(かて)となっていただろう。

「お前は、ローマに何をしに来たのだ?」

 そのような14歳での経験があったので、マルコという存在がいる限り、ローマという土地でも「アウェイ」という感覚は簡単に乗り切れるもののはずだった。私には幼児洗礼と洗礼証明書という通行手形もあるのだから、キリスト教国であるイタリアから拒まれることはない、という確信に(すが)れるはずだった。

 しかし、初めて足を踏み入れた“全ての道が通ずる”ローマの空気には、「アウェイ」という言葉ではあまりにも物足りなさ過ぎる、圧倒的で強烈な距離感があった。私が17年間の人生で身につけてきた経験も教養も全く何の意味をなさない、そんな気弱さばかりを覚醒させる、得体の知れない威圧感がそこにはあった。

 空港のゲートで3年ぶりにマルコと再会すると、マルコは自分の名前を記した看板を首から外して手にしていた革製のカバンにしまい、バスのチケットカウンターへ行ってローマのテルミニ駅行きのチケットを購入した。その周りでは、喧嘩をしているような抑揚のイタリア語が激しく飛び交い、傍では久々の再会を喜んでいるのか、腹の底から笑いながら大柄の男性二人が抱き合っていた。彼らのシャツの背中と脇には大きな汗染みができていた。人間と、タバコと、排気ガスが生ぬるい空気に撹拌されたような臭いにうろたえながら、マルコに案内されたバス乗り場の彼方には、日没間際の色褪せた(だいだい)色に霞む空が広がっていた。そして、その手前には日本では見たことのない、傘のような形状をした松が黒い影だけになっていくつも連なっていた。

 バスに乗り込み、縫い目が剥げてスポンジがはみ出している合皮のシートに座ると、バネの軋む音がした。その途端に心細さと後悔が積乱雲のように膨張し始めて、あっという間に私の胸の中をいっぱいにした。マルコが身につけている上品な生成りのスーツも、立派な革靴も、イタリアでの美術の勉強を目的にやって来た、大して詳しく素性を知るわけでもない赤の他人の小娘を迎え入れるにしては、いかんせん意気込み過ぎているように思えて、そんなことも私の不安を更に増長させた。

 母は、マルコのことを手紙の上に綴られた文字でしか知らない。さすがの母もマルコの素顔が気になったのか、フィレンツェで楽器制作をしている日本人の友人に頼んで、北イタリアまでマルコに会いに行ってもらったこともあった。母のその友人はイタリアに暮らして長く、イタリア人の性質というものをよく知る人だったが、マルコの博学に驚き、第二次世界大戦中インドでの捕虜時代の話に魅了され、5カ国語を自在に操る言語力を褒め、お嬢さんをぜひ彼に託すべきですとマルコを絶賛したという。クリスチャンであれば尚更、イタリアに馴染まないわけはありません、そう言われたと安堵していた。

 マルコは窓際に座る私の肩に覆い被さりながら、イタリア訛りの英語で、車窓から見える景色の説明をし始めた。あれはイタリアがファシズム政権だった頃に作られた街エウル、こっちは古代ローマ時代に建てられたガイウス・ケスティウスのピラミッド型の墓、今では数知れぬ野良猫たちの棲家となったコロッセオ、そしてイタリア統一の象徴であるヴィットリオ・エマヌエーレ2世記念堂…。

 3年前、マルコに列車の中で「全ての道はローマに通ず」という文言を強制的にノートに書かされ、その言葉の通りにローマにやって来たわけだが、問いかけてみたところ、マルコは私とそんなやりとりをしたことなど忘れていた。

 当時フィウミチーノ空港とテルミニ駅を結んでいたリムジンバスは、意図的だったのかどうかはわからないが、ローマ市内までの道々、さまざまな観光名所を目にすることのできるルートを辿っていた。次から次へと視界に飛び込んでくる紀元前時代の遺跡や建造物を見ているうちに、あらためて、自分のDNAとは全く関係のない場所に来てしまった、という自覚がずっしりとのしかかってきた。

 それは同時に、ローマという土地から「お前は一体何をしに来たのだ? そもそもここがどういう所なのか、わかっているのか?」と嘲笑(あざわら)われているような感覚でもあった。そこにマルコの着ているおしゃれなスーツや、私との出会いの詳細を思い出せないくせに馴れ馴れしく接してくる態度に不信感が入り混じり、母の何でもポジティヴに捉える性格が猛烈に恨めしく感じられた。

大聖堂と浴場

 すっかり日が落ち、「テルミニはもうすぐだ」とマルコに声をかけられた時、視界の先に大きくて(おごそ)かな佇まいの教会が見えた。今思えばそれはサンタ・マリア・マッジョーレ教会(偉大なるマリアの大聖堂)というローマを代表する大聖堂のひとつで、テルミニまでの道のりで初めて私の目に留まった教会だった。

 古代の大地神キュベレーの神殿の跡地に建てられたこの教会を天正遣欧少年使節団も訪ねている。私は咄嗟に手持ちのカバンの中に手を入れて、日本から持って来た洗礼証明書を確かめた。今更熱心な信者を装うつもりはなくても、教会さえあればなんとかなるような気がした。

 ただ、その安堵も束の間に過ぎなかった。

 テルミニ駅に到着したバスから降りた直後、私が目にした光景は今でも色褪せずに脳裏に焼き付いている。夜だというのに空気は乾いて暑く、地面には砂埃が舞い、勢い良く水が吹き出している広場の中心にある古い大理石の噴水の縁では、男女が足を絡め合いながら濃厚なキスを交わしていた。クラクションがうるさく鳴り響き、駅からは何かを告げる音声のはっきりしないアナウンスが聞こえてくる。噴水の奥には、煉瓦の崩れた古い建造物が不気味な存在感を放っていた。

 あれは今から1700年ほど前に建てられたディオクレティアヌス浴場だ、とマルコが指さした。ディオクレティアヌスはローマ帝国に蔓延(はこび)りつつあったキリスト教を弾圧した皇帝である。マルコは「ディオクレティアヌス」「クリスティアーニ(キリスト教信者)」と二つの単語を並べ、自分の喉を指先で切り裂く真似をした。

 足元を、日本では見かけない種類の痩せ細った野良犬が頭をもたげたままよろよろと通り過ぎていった。私はいったい何をしにこんな国へ来てしまったのだろう。途方もない自問自答を繰り返していると、マルコがこちらへ来いと右手で合図をした。彼は私を「マリ」ではなく英語式に「メリー」と呼んだ。これから自分の暮らす北イタリアのノーヴェまでは8時間もかかる。電車の出発にはまだ2時間あるから、その前に腹ごしらえをしようと、駅のそばにある簡素なトラットリアへ誘われた。ちっとも空腹ではなかったが、意思表示をする気力もなく、彼の言うことに従うしかなかった。

 

*次回は、8月25日月曜日更新予定です。

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考える人とはとは

 はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
 「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
 どうして自分が「考える人」なんだろう―。
 手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか―手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
 それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。

「考える人」編集長
金寿煥

著者プロフィール

ヤマザキマリ

漫画家・文筆家・画家。日本女子大学国際文化学部国際文化学科特別招聘教授、東京造形大学客員教授。1984年にイタリアに渡り、フィレンツェの国立アカデミア美術学院で美術史・油絵を専攻。97年、漫画家デビュー。2010年、『テルマエ・ロマエ』で第3回マンガ大賞、第14回手塚治虫文化賞短編賞を受賞。2015年度芸術選奨文部科学大臣新人賞受賞。2017年、イタリア共和国星勲章コメンダトーレ綬章。2024年、『プリニウス』で第28回手塚治虫文化賞マンガ大賞を受賞。著書に『プリニウス』(新潮社、とり・みきと共著)、『ヴィオラ母さん』(文藝春秋)、『パスタぎらい』(新潮社)、『扉の向う側』(マガジンハウス)など。現在「少年ジャンプ+」で、「続テルマエ・ロマエ」を連載中。撮影:ノザワヒロミチ

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