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コンフェッシオーネーーある告白

2025年8月25日 コンフェッシオーネーーある告白

3.終着駅のミネストローネ

著者: ヤマザキマリ

約40年前、17歳の少女はイタリアへと旅立つ。背中を押したのは、敬虔なカトリック信者にして音楽家の母。異国での生活を前に動揺する少女に、400年前、遠くヴァチカンを目指した4人の少年たち(クアトロ・ラガッツィ)の影が重なる――。科学と芸術、そして宗教が色濃く共存し続けるイタリアで培ったものとは、何だったのか。人生でもっとも貧しく苦しかった画学生としての生活と、自らの裡に沈殿していた“信仰”を告白。これまで封印していた記憶の扉をひらく、渾身のメモーリエ。

胃腸の拒絶

 ヤギ肉の串焼きに塩漬けの豚肉、中東産の珍しい香辛料を(まぶ)して調理された猪肉、鶏肉や兎の肉にバターと蜂蜜―。16世紀後半、天正遣欧少年使節の4人がイタリア北部の都市フェラーラを来訪した時に振る舞われたとされる料理の記録は、これだけにおさまらない。東洋から長い歳月をかけて遥々やってきた、自分たちと同じ神への信仰を持つうら若き“Principi(王子たち)”は、豪華な宴によって盛大にもてなされた。

 ポルトガルやスペインを訪れていた間も、貴族や富豪の屋敷に招かれては豪華な料理による歓迎を受けてきた天正遣欧少年使節の4人だが、そうした日々を送り続けていた彼らの胃腸は果たしてどんな具合だったのか、想像に(かた)くない。2年間にわたる欧州での滞在中、この4人はかわるがわる体調を崩しては医者の世話になっていたというが、外交のために慣れないメニューの食事を頑張り過ぎたこともその要因になっていたはずだ。

 たとえばマントヴァ公の報告によると「少年たちはほとんど食事をせず、水ばかりのんでいた」とある。少年たちが少食だったのは、主賓たちが捉えていたような礼節を踏まえた品行というより、連日睡眠時間が3、4時間程度という、人気アイドルグループ並みのハードスケジュールによるストレスの影響と、バターとオリーブオイルがふんだんに使われているような、ヨーロッパ式の食事の消化に体力が追いついていなかったためだろう。イエズス会の名のもとに使節団という立場を弁え、快く接待の数々を受け、それらに応えてきた彼らも、胃腸の拒絶だけは己の意志で操作できなかったはずである。

 14歳での欧州一人旅の際、最初に訪れたフランスのヴァランスに暮らす母の友人の家では、私を歓迎するためにたくさんのご馳走が用意されていた。クリームソースがたっぷりかかった肉料理に、じゃがいものグラタン。「サンマルスラン」という強烈な匂いのするチーズを、この地域の名物だから是非食べて欲しいと勧められるがまま、心を無にして口にしては満面の作り笑いで喜びを表す。これから数日間、このひとたちの世話になるのだから嫌われてはいけないと、好意と適応を表すために必死になる。「セ・ボン」「トレ・ボン」と覚えたてのフランス語をひたすら繰り返し、チーズに合うからとグラスに注がれるワインも、同じテーブルで席を並べていた同世代の子供たちを真似しながら、ちびちびと飲んだ。

 そしてその夜に、私はそれまで経験をしたこともない、激しい食あたりにみまわれた。腹痛だけではなく、発熱までして寝込んでしまった。長旅の疲れが出たのだと解釈され、「これを飲みなさい。どんな薬よりも効果があるから」と家主に差し出されたアニスの香りのする強い酒を一気に飲んだが、体調は良くなるどころか酷くなるばかりだった。医者に来てもらってようやく回復したのは3日後のことだった。そして、その3年後、私はローマで同じような危機感を覚えることになる。

トラットリアの憂鬱

 北イタリア行きの列車を待つ間に腹ごしらえをしておこうと、マルコから強引にテルミニ駅のそばにある小さなトラットリアへ誘われるも、動揺と困惑と不安が入り混じった精神状態が起因してか、お腹は全く空いていなかった。しかしマルコはそんな私を慮る気配もなく、テーブルに着くやいなや、他の客の接待に忙しい年老いた給仕の白いスモッグの裾をわしと掴んで引き留め、一方的に何品か注文をした。テーブルの上にメニューはあったが、手に取ることもなかった。

 間も無く年老いた給仕がおぼつかない手つきで最初に運んできたのは、深皿に並々と盛られたミネストローネだった。テーブルワインが注がれたガラスのコップ(ワイングラスではない)を片方の手で雑に押し退()けてスペースを作り、そこに勢いよく皿を置いた。トマトの赤い汁が白いクロスの上に小さく飛び散った。どう見ても一人で食べ切れるような量ではなかったが、同じ皿がマルコの前にも置かれたのを見て呆然となった。マルコは私に向かって嬉々とした表情で「マンジャ!」と大声を発した。「マンジャ」はイタリア語で“食べる”という動詞の命令形になるが、イタリア語をまったく知らなかった私が、イタリアに来て最初に覚えた言葉となった。「メリー、マンジャ!」とマルコは繰り返した。
 
 トラットリアの天井には古びた扇風機が(まぶ)んだ音を立てながら、開け放たれた窓から入ってくる排気ガスの臭いと埃っぽく乾いた空気をゆっくりと攪拌(かくはん)していた。閉店が近いのか、客は我々の他にもうひと組いる程度で、片付けられていないままのテーブルがいくつか目に入った。マルコはナフキンの端を襟元に指先で詰めると、長めの白髪の何本かを扇風機の風に(なび)かせながら、美味しそうにミネストローネを食べ始めた。自分は無類のトマト好きで、毎年わざわざソレントにある知人の農園まで採れたてのトマトを食べに行くのだと語りながら、(せわ)しげにスプーンを口に運ぶ。イタリアはトマトが美味い。さあ、何をしているんだ、早く食べなさいとマルコは料理に手をつけられないでいる私を煽った。

 私は子供の頃から酸味のある果実や野菜、特にトマトが苦手だった。食べ物の嗜好からして、そもそも私はイタリア向きではなかったのかもしれない―そんな自覚をした途端、食欲はますます萎縮した。イタリアという国に馴染むための意欲が、果てしない時間と文明が築いた歴史の強烈な圧力からだけではなく、食べ物からも消失させられつつあった。

 だからといって、今すぐ日本に帰りますというわけにはいかない。なんとか自らを奮い起こし、皿の半分ほどまで食べたところで、次の料理がテーブルに置かれた。またしても赤い色をした肉の煮込み料理だった。涙が出そうになった。

 マルコは腕時計を指差し、「早めに食べないと列車に遅れる」と私を促すと、手際良くナイフとフォークで刻んだ肉を次々に口の中へと運んだ。「その料理はローマの名物で、あまりに美味しいので、 “サルティンボッカ(口の中へ飛び込んでくる)”という名前がついた料理だ。いいセンスのネーミングだろう」と説明してくれた。それを耳にした老給仕が前歯の足りない口を開けて大笑いをした。何がおかしいのかさっぱりわからないが、愛想笑いをする気力も無かった。

パドヴァへ

 テルミニ、とは「ターミナル」の語源であり、「終点・終端・端末」を意味する単語だ。頭端式のホームはパリの北駅でも体験していたが、テルミニはそれに比べるとどこか殺伐としており、発車時刻を知らせる電光掲示板は壊れて稼働しておらず、低い男の声のアナウンスしばかりがひっきりなしに響いていて(せわ)しかった。

 切符を買ってくるからあそこに座っていなさいと促され、チケット売り場の前に並んでいる椅子に腰掛けた。隣に座っていた大きな荷物を両手で抱えた老女からいきなり「チネーゼ?」「チーナ?」と顔を覗き込まれる。中国人かと問われているのがわかったので、英語で「日本人です」と答えたが、理解できたのかどうかはわからない。口をもごもごさせながら、私に据えた視線を逸らそうとしなかった。向かい側には手鏡を持って口紅を塗り直している大柄な女性が座っていた。その隣には中年の無精髭を生やした男が膝を忙しなく揺らし続けていたが、口紅の女に荒々しい口調で何か言われたとたん、ぴたりと動かなくなった。チケットを調達したマルコが戻ってきたので立ち上がると、老女は私に向かって何かを言いかけたが、マルコの大きな声が被ってきたので、それきりになってしまった。

 ホームに向かって進みながら、マルコは私に「この駅が舞台になった有名な映画をお前は見たことがあるか」と問いかけてきた。知りません、と答えたまま黙っていると、皺でたるんだ瞼の向こうから青い目を私に向け、「知らないのか。とても有名なんだがな。お前の母親なら知っているだろう」と答えた。視線は私の目に据えたまま、翳りを帯びたその表情には、微かな軽蔑が浮かんでいるような気がした。おそらく彼は、私がその映画について何か問いかけてきたり、会話を繋いでくるものと思っていたのかもしれないが、無骨な態度を改めようともしない無知な小娘に愛想を尽かしたのか、しばらくの間黙り込んでいた。

 ベネチア、という表示のある列車に乗り込むと、マルコは誰もいないコンパートメントを見つけて私の荷物を荷台に上げた。そして対面式になっている6人がけの、古びた皮のシートを荒々しい手つきで引っ張ってフラットに(なら)すと、靴を履いたまま窓側の位置で横になった。

「会話もできないくらい疲れているんだったら、早くここに横になって寝なさい。パドヴァに着くのは8時間後だ」と自分の隣のシートを手の平で数回打ちつけたが、私は横にはならなかった。窓の向こうには、首をうなだれて泣いているように見える女とそれを大仰な仕草で慰めている男の姿があった。恋人なのか、家族なのか。別れを惜しんでいるのだろうか。さしずめ「終着駅」とかいう映画もそのような内容なのだろう、などということをシートの上に体育座りをしながら考えていると、いきなり地鳴りのような大きな寝息が聞こえてきた。マルコもよほど疲れていたらしい。

 マルコの寝顔を見ながら、この人は、このイタリア人の赤の他人は、なぜ私をイタリアへ招こうと思ったのだろう、という本質的過ぎる疑問とそこで初めて向き合った。空港を出てから堰を切ったように私の中になだれ込み続けていた様々な動揺と不安が、いつの間にか一つの大きな塊となって私の呼吸を圧迫した。

 列車はアナウンスも無いまま静かに真夜中のテルミニ駅を発車した。
 

*次回は、9月29日月曜日更新予定です。

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考える人とはとは

 はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
 「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
 どうして自分が「考える人」なんだろう―。
 手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか―手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
 それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。

「考える人」編集長
金寿煥

著者プロフィール

ヤマザキマリ

漫画家・文筆家・画家。日本女子大学国際文化学部国際文化学科特別招聘教授、東京造形大学客員教授。1984年にイタリアに渡り、フィレンツェの国立アカデミア美術学院で美術史・油絵を専攻。97年、漫画家デビュー。2010年、『テルマエ・ロマエ』で第3回マンガ大賞、第14回手塚治虫文化賞短編賞を受賞。2015年度芸術選奨文部科学大臣新人賞受賞。2017年、イタリア共和国星勲章コメンダトーレ綬章。2024年、『プリニウス』で第28回手塚治虫文化賞マンガ大賞を受賞。著書に『プリニウス』(新潮社、とり・みきと共著)、『ヴィオラ母さん』(文藝春秋)、『パスタぎらい』(新潮社)、『扉の向う側』(マガジンハウス)など。現在「少年ジャンプ+」で、「続テルマエ・ロマエ」を連載中。撮影:ノザワヒロミチ

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