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コンフェッシオーネーーある告白

2025年9月29日 コンフェッシオーネーーある告白

4.ロセッラはご機嫌ななめ

著者: ヤマザキマリ

約40年前、17歳の少女はイタリアへと旅立つ。背中を押したのは、敬虔なカトリック信者にして音楽家の母。異国での生活を前に動揺する少女に、400年前、遠くヴァチカンを目指した4人の少年たち(ルビ クアトロ・ラガッツィ)の影が重なる――。科学と芸術、そして宗教が色濃く共存し続けるイタリアで培ったものとは、何だったのか。人生でもっとも貧しく苦しかった画学生としての生活と、自らの裡に沈殿していた“信仰”を告白。これまで封印していた記憶の扉をひらく、渾身のメモーリエ。

「異端の私」に戻る場所はない

 当時のイタリアには、まだ高速鉄道というものは存在しておらず、ローマから530キロ離れたヴェネチアまで列車で移動するのに8時間は必要だった。マルコが(いびき)を立てながら、平たく広げたコンパートメントのシートの上に横になって寝ているその傍らで、私は両膝を腕で抱え込んだ体勢のまま、横になることも目を閉じることもなく長い移動時間を過ごしていた。それにしても、親族でもなければ友人でもない70歳の男と17歳の少女が、真っ暗なコンパートメントの中で二人きりというのは、いかがなものなのか。一般的な解釈であればまず許されてはならない状況だろう。

 もし、あの時代に携帯電話が存在していたら、コンパートメント内の有り様を撮影し、母に「今こんな状況だけど、どう思う?」と一言添えて送りつけていたところだが、あの人のことだから、そんなメッセージを受け取ったところで「いいから我慢しなさい、わざわざローマまであなたを迎えに来てくれたのよ、いい人じゃない」などと、いつも通りの肯定的な反応で片付けてしまっていただろう。マルコの鼾を聞いていると、熾烈な人生経験を積んできたにもかかわらず、人間と社会の知性や良識を過信し、夢想し続けているお嬢様の母に対し、やるせない思いが込み上げてくるばかりだった。

 母によれば、途中で辞めることになった高校は、もし私が日本に戻ってきたとしても、学年を繰り下げることにはなるが、復帰を受け入れると言っていたらしい。しかしそれは彼らの真意なのだろうか。古くから母と交流のあった学長の、その場の空気を取り繕うための言いのがれだったのではないだろうか。なぜなら、あの学校にしてみれば、聖女のような女性になるための教育を受けている少女たちに悪影響を及ぼしかねない異端の私がいなくなったことは、むしろ喜ばしいことでしかなかったはずだ。

 日本を出発する前に、黙って別れてきたクラスメートの何人かから「どうして学校を辞めることを一言も相談してくれなかったのですか。友情を信じていたのに残念です」という手紙が届いたけれど、正直そんな手紙をよこす彼女たちとまた元通りに付き合えるとも思えなかった。だとしたら、いっそ違う学校に最初から入り直す手はあったかもしれない。イタリア行きが決まった時、サンフランシスコの近郊に暮らす母の親戚が、ヨーロッパなどやめて潰しが効くアメリカの高校に入りなさい、と勧めてきたことがあったが、そういう選択肢もないわけではない。ただアメリカへ行って私は何を目指せばいいのだろうか。いや、そもそも無理やり目標を持たされたところで、その通りにならなかった時の責任は誰が取るのか。それ以前に、なぜ人間だけが生きることにいちいち意味を見出そうと躍起になるのか。

 北へと向かう列車に乗った直後は、答えに辿り着くあてもないそんなことを執拗に考え続けていたが、虚しい疲労感が増すだけだった。あとはレールの繋ぎ目を通過する時のゴトトンという音の数を黙々と数えながら、ひたすら朝の訪れを待った。何時間かが経過し、窓を覆うブラインドの、両脇の隙間から明け方の白みはじめた光が漏れ始めた頃、私はコンパートメントの扉を少しだけ開けて、マルコを起こさないよう静かに通路へと滑り出た。体を思い切り伸ばしたかった。

 徐々に朝の光に照らし出されていく窓の外には、いつの間にか広大な畑や丘が広がっていて、ローマで見た威圧的で巨大な建造物や遺跡も、大きな傘を広げた雲のような松の木も見当たらなかった。松の木の代わりに田園の端々には北海道でよく見かけるような、背の高いポプラの木々が整然と並んでいて、朝日に輝く葉をひらひらと軽快に翻していた。

 田園地帯を通過すると、屋根の色を赤茶で統一した家屋の集落が一つ、また一つと目の前を過ぎ去っていった。それらのどの集落にも、重なり合う屋根の合間からは教会の鐘楼が(そび)えていた。ああいった街にある小さな教会には、きっと古いイタリア映画に出てくるような親切で世話焼きの神父様がいて、街の人から家族のように慕われているにちがいない。信者たちの日々の悩みであればどんな些細なものも真摯に聞き入れ、親身になって寄り添ってくれるような頼もしい神父であれば、ある日とつぜん日本からやってきた少女が洗礼証明書を持って現れても、笑顔で「遠くからはるばるよく来たね」と労ってくれるはずだ。

 窓の外を見つめながら、そんな妄想を巡らせていると、突然背後のコンパートメントの扉が勢いよく開き、マルコがこちらを睨みながら立っていた。髪の毛は寝癖で跳ね上がり、麻のスーツは皺だらけだった。ローマの空港で出会った時とは一転し、ひどく見窄(みすぼ)らしい様子に見えた。もうそろそろパドヴァに着く頃だ、と(かす)れた声で呟くと、私のスーツケースを荷物棚から力任せに引きずり下ろし、横たわるために広げたシートは足で蹴り付けるような動作で無理やり元に戻した。不機嫌なのかと思ったが、そういうことではなさそうだった。マルコの動作はその喋り方と同じく横柄かつ高圧的で、迷いがなかった。   

ロセッラと銀のフィアット

 イタリアの列車は出発も無言だったが、到着も無言だった。眠っていたりぼんやりしたりしていれば乗り過ごしは必至だが、皆しっかり景色を見ながら待機していたのか、何両にも連なる列車のドアからは少なくない数の乗客が慌てる様子もなくすいすいとホームに降り立ち、駅の構内へと流れていった。空には雲一つない真っ青な大空が広がり、ホームは隈なく掃除がなされていて、テルミニ駅のような乾いた埃っぽさは全く感じられなかった。

 私たちも列車から降りると駅の構内へと続く人の流れとともに歩き出したが、前方から乗客たちの群れに逆らうように、大きなサングラスをかけたいかつい骨格の女性が、大股歩きでこちらへ向かって突き進んで来るのが見えた。それに気がついたマルコはいきなり片手を上げ、その女性に向かって声をかけた。しかし女性はそれに応じず、黙ったままマルコの前まで来て立ち止まると、太々(ふてぶて)しさ全開でマルコが手にしていた私のスーツケースを横取りし、再びもと来た方へと踵を返して歩き出した。女性がマルコの知り合いだったという驚きのあとに、強い違和感が残った。女性は私にひとことの挨拶もしなかったし、マルコも彼女を私に紹介しようとすらしなかった。ただ、女性がマルコの前まで来て立ち止まった瞬間、サングラス越しではあったが、とんでもなく無愛想な目つきでこちらを一瞥したのがはっきりわかった。

 女性は“ロセッラ”とマルコから呼ばれていた。ロセッラは駅の駐車場に停めてあるシルバーのフィアットの前で立ち止まると、トランクを開けて私たちの荷物を乱暴な手つきで押し込んだ。膝丈のスカートを太ももあたりまで捲り上げて運転席に座ると、ガチャガチャと手荒い動作でキーを左右に捻り、3度目でやっとエンジンが音を立てて稼働した。発進するやいなや、ロセッラと助手席のマルコは何やら激しい口調で言い争いを始め、ロセッラは口調を強めるたびにハンドルから右手を離して宙で振り回し、そのたびに車が左右に大きくぶれた。

 ロセッラは一体何者なのか、70歳のマルコの奥さんにしては年齢が若い。マルコはだいぶむかしに離婚をしたきり、その後も独り者だと母が言っていたから、奥さんというわけではなさそうだが、マルコに対するヒステリックとも言える態度は、よほど近しい関係の人間でなければありえないように思えた。ならば娘だろうか。娘がいるとしたら、ちょうどこのくらいの年齢のはずだ。早朝にパドヴァの駅まで迎えに来させられたことに腹が立っているのか、車がポンコツなことにイラついているのか、何に対していきり立っているのか見当もつかなかったが、ロセッラが前を向きながら激しくなにかを訴え続けている最中に、突然マルコがリアシートの私を振り返った。そしていきなり皺だらけの瞼でウインクをして見せた。ウインク、という人間の仕草を初めて目の当たりにした私はひどく狼狽し、ショッキングなものを見てしまったような気がしてすぐに目を逸らした。手のひらに嫌な汗が滲んだ。

 ロセッラの運転する車は列車から見えたような小さな集落を抜け、開けた農地の傍を通過し、さらにまたいくつかの小さな集落を越えて走り続けた。マルコの不気味なウインクによって、ロセッラの不機嫌がどうやら自分にあるらしいことを感じ取った私は、視界を横切っていく車窓の景色に帰り道の道標(みちしるべ)を探すことに懸命になっていた。そんなことをしたところでどうしようもないのはわかっていたが、そうせずにはいられなかった。

キリスト昇天の版画

 標高の高そうな山々が連なる方向に向かってまっすぐ進んでいた車は、川幅の広い大きな川を跨ぎ、いくつかの民家や商店の前を通過したあと、その通りでひときわ大きな家の門の前に停車した。マルコが門の鉄柵を開くとロセッラはその中へと車を移動させ、エンジンを切った。車から降り立って最初に目に入ったのは、中庭に渡されたアーチから頭の上へ降りかかるように垂れ下がっている、いくつもの紫色の藤の花だった。マルコは藤を見上げたままでいる私に「どうだ、この見事なグリーチネ(藤)は。まるで日本のようだろう? 日本をいつでも思い出せるぞ」と言って笑った。

 ロセッラは私たちと荷物を下ろすと、一言も言葉を発さぬまま再びフィアットに乗って去っていった。私は無造作に地面に放置された自分の荷物を手にすると、マルコに促され、2階にある大きな部屋へ通された。「ここがお前の部屋だ」とだけ言ってマルコは去っていった。部屋に置かれたベッドのヘッドボードには見事な彫刻が施され、その上にはキリストの昇天を描いた版画の額が飾ってあった。手の込んだ刺繍のほどこされたベッドカバーに窓からの日差しがあたり、そこから日本では嗅いだことのない洗剤の匂いが放出していた。イタリアの人々が癒される安寧の香りは、私にとっては異臭だった。

 日差しを遮断する鎧戸を開け、眩しい光に溢れた窓の外を見ると、それほど離れてもいなさそうな場所に、レンガで作られた高くて立派な鐘楼が見えた。小さな街の教会だから、神父はマルコとも親しいかもしれない。できるだけ早いうちに洗礼証明書を持っていって、教会に通う人たちと親睦を深め、マルコ以外の人とも交流を持とうと心に決める。いつのまにか、来た道をどう戻るかという模索が、マルコに頼らなくてもイタリアで何とかやっていくための模索に切り替わっていた。

 母から託されたマルコへの土産物を取り出さねばと思いながらも荷物を開く気力は残っておらず、ベッドの角に腰掛けると、そのまま立ち上がることができなくなった。日本の家を出てから30時間ちかくが経過しようとしていた。

 天井は高く、四隅に漆喰の装飾が施されていた。どのくらい古い家なのかはわからないが、その空間のなかでヘッドボードの上にあるキリストの昇天の版画だけが、私とこのアウェイの環境を繋ぐ接点だった。ただ、上を向いたまま、両手を肘から上に立てて天に召されようとするキリストのやせ細った姿はひどく頼りなく、私の心細さの支えになってくれるとはとても思えなかった。気を抜くと泣きそうになるが、泣き出すにはまだ時期が早すぎる気がした。

 

*次回は、10月27日月曜日に更新の予定です。

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 はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
 「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
 どうして自分が「考える人」なんだろう―。
 手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか―手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
 それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。

「考える人」編集長
金寿煥

著者プロフィール

ヤマザキマリ

漫画家・文筆家・画家。日本女子大学国際文化学部国際文化学科特別招聘教授、東京造形大学客員教授。1984年にイタリアに渡り、フィレンツェの国立アカデミア美術学院で美術史・油絵を専攻。97年、漫画家デビュー。2010年、『テルマエ・ロマエ』で第3回マンガ大賞、第14回手塚治虫文化賞短編賞を受賞。2015年度芸術選奨文部科学大臣新人賞受賞。2017年、イタリア共和国星勲章コメンダトーレ綬章。2024年、『プリニウス』で第28回手塚治虫文化賞マンガ大賞を受賞。著書に『プリニウス』(新潮社、とり・みきと共著)、『ヴィオラ母さん』(文藝春秋)、『パスタぎらい』(新潮社)、『扉の向う側』(マガジンハウス)など。現在「少年ジャンプ+」で、「続テルマエ・ロマエ」を連載中。撮影:ノザワヒロミチ

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