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コンフェッシオーネーーある告白

2025年10月27日 コンフェッシオーネーーある告白

5.虚ろな肖像画

著者: ヤマザキマリ

約40年前、17歳の少女はイタリアへと旅立つ。背中を押したのは、敬虔なカトリック信者にして音楽家の母。異国での生活を前に動揺する少女に、400年前、遠くヴァチカンを目指した4人の少年たち(ルビ クアトロ・ラガッツィ)の影が重なる――。科学と芸術、そして宗教が色濃く共存し続けるイタリアで培ったものとは、何だったのか。人生でもっとも貧しく苦しかった画学生としての生活と、自らの裡に沈殿していた“信仰”を告白。これまで封印していた記憶の扉をひらく、渾身のメモーリエ。

14歳の涙と掃除婦ヴィーチェ

 話は遡るが、イタリアに渡る3年前の14歳の冬、単身でフランスを訪れていた私は、母の友人が暮らすリヨン近郊からドイツのケルンへ向かう列車にパリで乗り換えるため、なんとか北駅まで辿り着くことはできたものの、初めて見る頭端式のホームと全く理解のできないフランス語のアナウンス、そして忙しなく(うごめ)き続ける人々の中で、文字通り途方に暮れた。広すぎる駅の構内で、自分が乗るべきケルン行きの列車をどうやって見つけたらいいのか皆目わからず、右へも左へも進めぬまま、重たいスーツケースを床に置くことも忘れて、しばらくその場に立ち尽くした。

 ふと視線の端に、柔らかな表情で老女と会話をしている、濃紺の制服に身を包んだ恰幅の良い中年の車掌の姿が目に入った。児童文学の挿絵や童話に出てくるような、いかにも温厚そうな表情のその人がひとりになったのを見計らって近寄って行き、手にした列車のチケットを彼の目の前にかざしながら、「どの列車に乗ればいいですか?」と英語で問いかけた。答えが戻ってこなかったので、もう一度ゆっくり同じことを尋ねてみた。この人であれば、きっと親切に助けてくれるはずだという思い込みは、車掌の意味不明な怒鳴り声で一気に粉砕した。何を言われているのかわからないが、さっきまで老女と対峙していた時とは大違いの怖い顔で、野良犬でも追い払うかのようなジェスチャーをすると、太々(ふてぶて)しい表情のままその場から立ち去っていった。 

 その後、私は奇跡的に自力でケルン行きの列車に乗り込むことができたのだが、胸の中は車掌への嫌悪感でいっぱいだった。リヨン近郊の田舎に暮らす、母の友人たちの優しかった人柄を思い出すと、涙が溢れてきた。黄色人種でフランス語を喋らなかったのがいけなかったのか、何が彼の(かん)(さわ)ったのかは、日本に帰って母や友人たちにこの話を何度してもわからないままだったし、今でもわからない。ただ、自分には、特定の西洋人の神経を逆撫でする何らかの要素があるのかもしれないということは、パドヴァにマルコと私を迎えにきたロセッラのあまりに露骨な態度に触れた時に、改めて感じた。

 マルコの家に、毎日通いでやってくる掃除婦がいる。「ヴィーチェ」という名の小柄な老女は、いつも突然私の部屋に現れては、しわくちゃの顔をさらに(しか)めつつ、「ショ、ショ!」と奇声を発しながら手にした箒を使って私を部屋から追い出した。「ショ、ショ!」とは、「掃除をするから出て行け」という意味だが、普段は野良犬などを追いやる時に使われる。

 ヴィーチェは私より頭ひとつ分背が低かったが、鷲鼻と甲高い声が印象的な、魔法使いを彷彿とさせるような老女だった。どんなに私が拙いイタリア語で話しかけようとしても、いつも奇妙な生き物を見るような目でこちらを見返し、刺々(とげとげ)しいイントネーションのイタリア語で(まく)し立ててきた。私はそんなヴィーチェの、皺に縁取られた口からこぼれ落ちてくる呟きを、「なんだってこんなよそ者のあんたの部屋まで掃除しなきゃならないんだろうね。迷惑なこった」「マルコは一体どこからこんな小娘を拾ってきたんだろうね」などと勝手に捉えていたが、何度も会っているうちにその呪文のような小言にも慣れてしまって、耳を貸すことも無くなった。

「私はイタリアで絵を学ぶことができるのでしょうか」

 マルコはときどき、自分の友人の家や大人数の食事会に私を連れ出すことがあった。ヴェネト州の田舎では珍しい存在の東洋人を見せびらかしたかったのか、とにかくさまざまな場所へ連れ出された。その全てを思い出すことはできないが、いくつか記憶しているもののひとつが、ヴェネチアでガラスの造形物を作っている芸術家の家を訪ねた時のことである。

 筋肉質の体にスキンヘッドという、特異な見た目をしたその老芸術家はマルコの古くからの友人で、広い中庭のある豪邸の中に(しつ)らえられた自分のアトリエに並ぶ作品を、ひとつひとつ英語で説明をしてくれた。そもそも君は何をしにイタリアへ来たのだ、と聞かれたので「絵を学びたいからです」と答えると、マルコを振り返り「そうなのか?」と問いかけ、マルコはそれに対し「これから考える」という返事をした。私にはマルコのその態度が腑に落ちなかった。なぜ「そうだ」とは答えず、「これから考える」なのか、母が言っていたように、この人は本当に私に美術学校を紹介してくれる気があるのか、絵描きになるための手伝いをしてくれるのだろうか、という疑問が胸中に芽生え、作り笑いもできないくらい不安になったのを覚えている。

 ヴェネチアからの帰路、潟の上に架けられたメストレへと続く長い橋を渡りながら、車のハンドルを握るマルコの横顔に、「私はイタリアで絵を学ぶことができるのでしょうか?」と問いかけてみた。問いかけずにはいられなかった。するとマルコは、初めてそんな話を耳にしたかのように「お前は、そんなに絵描きになりたいのか」と(たわ)けたような笑みを浮かべて私を見た。予測外のその反応に私は思わず息を詰まらせながら「そのためにイタリアへ来たのですが」と恐々(こわごわ)答えると、マルコは「わかったよ」と短い返事を返しただけだった。

ふたつの虚ろな肖像画

 それから程なくして、私が連れて行かれたのは、バッサーノ・デル・グラッパに暮らす年老いた画家の家だった。彼が所持する古い建物の一階には画塾と併用したアトリエがあって、私たちが訪れた時には数人の画塾生が、部屋の中心に置かれた石膏像のデッサンをしている最中だった。その画家が描いたというナイーヴアート調の風景画は全く自分の好みではなかったが、やっと自分がイタリアまでやってきた目的と紐づいた展開が見えてきたことは嬉しかった。

 ところが、その日私は「東洋人の顔を描いてみたい」という画塾生たちのデッサンの被写体をさせられただけだった。てっきりこれからお前もこの画塾に通いなさい、といった展開になるのだと思っていただけに、帰り際に私が描かれた数枚のデッサン用紙を生徒たちから手渡され、マルコに「それを母親に送ってあげなさい。喜ぶだろう」と言われた時は、さすがに、この人は、母が私に伝えたようなことは全く考えていないのではないか、または二人の交わしたやり取りには根本的な齟齬があったのではないか、という疑念を拭えなくなった。

 部屋に戻り、ベッドの上にデッサン紙を広げ、そこに描かれた自分の顔を並べてみると、やたらと細い吊り目に描かれていたり、低い鼻を強調したエキゾチックな様子のものばかりで、自分に似ていると思われるものは一枚もなかった。東洋人の顔を見慣れていない彼らの先入観が強調されたそれらの私の顔は、どれも焦点の定まらない虚な目を、ぼんやり宙に浮かべていた。

 つい最近、テレビ番組の取材でミラノのトリブルツィオ財団に保管されている、天正遣欧少年使節のひとりである伊東マンショの肖像画を、現地で実際に見るという機会があった。ルネサンス期のヴェネチア派の巨匠ティントレットが描いたという少年の顔には、東方の王子たちとして人前に引っ張り出され続けてきた疲労と、見せ物的な日々を送ることへの疑念と哀しさがその表情から読み取れた。思わず心の中で「お疲れ様」と労いの声を掛けずにはいられなかった。その肖像画のマンショの目は若干斜視気味に描かれているせいか焦点が定まっていない。バッサーノの画塾で描かれた私の目も、実はどことなくそれに共通するものがあった。

ティントレットによる伊東マンショの肖像画

忘れられた着物

 日本を出る時、母に託された所持品のひとつが、イタリア留学のために作らせた着物だった。薄桃色の絹地に梅の花の刺繍がところどころ散りばめられた上品な着物だったが、何か特別なことがあった時には、あれば重宝するからと、実は着付けまで教え込まれていた。マルコの家に到着してすぐに、皺にならないよう着物ハンガーに掛けて部屋の隅に吊るしていたが、正直、この先着物を着るほど気合を入れる行事があるとは思えなかったし、こんなものを身につけた日にはエキゾチックな見せ物感をさらに増長させるだけで、喜ぶのはマルコだけだろうと思うと嫌気がさした。そういえば天正遣欧少年使節の少年たちも、極東に暮らす民族もついにカトリックに改宗したのだという事実の見せしめに、イエズス会の指示で羽織袴に刀まで差して人前に連れ出されていたらしい。

 10年ほど前に、少年たちが謁見したローマ教皇グレゴリウス13世の子孫にあたるボンコンパーニ公爵の屋敷の天井に、この謁見の場面が描かれたフレスコ画が発見されたことがあった。そこに描かれている伊東マンショ、千々石(ちぢわ)ミゲル、原マルティノの三人は全員辮髪で、中国式の黄色い礼服を身に付けている。そのフレスコ画自体は19世紀に描かれたものなので髪型や服装は正確ではないのだが、かえって彼らの見せ物要素は強調されてしまうのである。

 結局マルコの家にいる間、私がその着物の袖に腕を通すことはなかった。マルコに一度くらいそれを着て人前に出て欲しいと言われたが、無視し続けた。ただ、掃除婦のヴィーチェは私の部屋に入るたびにその着物が気になっていたらしく、あまりに見入っているので、上から羽織らせてあげたことはある。ヴィーチェは全身鏡に映った自分の姿をひたすら真剣に見つめていた。見知らぬ国の民族衣装に身を包んだ自分に、どんなことを感じていたのかわからないが、ランダムに施された梅の花の刺繍を指さしては「ベイ(美しい)」と何度も呟き、脱がせてあげると、初めてヴィーチェの口から「ありがとう」という丁寧な言葉を聞いた。その着物は結局、数年後に母がイタリアへ訪れた際に持って帰ってもらうことにした。

 

*次回は、11月24日月曜日更新予定です。

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考える人とはとは

 はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
 「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
 どうして自分が「考える人」なんだろう―。
 手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか―手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
 それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。

「考える人」編集長
金寿煥

著者プロフィール

ヤマザキマリ

漫画家・文筆家・画家。日本女子大学国際文化学部国際文化学科特別招聘教授、東京造形大学客員教授。1984年にイタリアに渡り、フィレンツェの国立アカデミア美術学院で美術史・油絵を専攻。97年、漫画家デビュー。2010年、『テルマエ・ロマエ』で第3回マンガ大賞、第14回手塚治虫文化賞短編賞を受賞。2015年度芸術選奨文部科学大臣新人賞受賞。2017年、イタリア共和国星勲章コメンダトーレ綬章。2024年、『プリニウス』で第28回手塚治虫文化賞マンガ大賞を受賞。著書に『プリニウス』(新潮社、とり・みきと共著)、『ヴィオラ母さん』(文藝春秋)、『パスタぎらい』(新潮社)、『扉の向う側』(マガジンハウス)など。現在「少年ジャンプ+」で、「続テルマエ・ロマエ」を連載中。撮影:ノザワヒロミチ

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