3.思考の発酵を促すAI
著者: ドミニク・チェン
情報技術には発酵の時間が足りていないのではないか――。代表作『未来をつくる言葉』(新潮文庫)で、ネット時代の「わかりあえなさ」をつなぐ新たな表現を模索したドミニク・チェンが、AIの時代にあるべき情報技術との付き合い方を問う。自身も主要なSNSを断ち、強い覚悟をもって新しい「情報技術の倫理」の可能性を探る。発酵と生成によって切り拓かれるけもの道。はたしてその先にはどんな風景が待ち受けているのか?
*バナーの画像は、人が発酵中の味噌と対話をするためのMisobot(「発酵文化芸術祭 金沢」の展示風景)
別様のSNSのかたちは?
主要SNSのアカウント削除後、新聞の取材を受けた。そこで前回に書いた理由を話した後に、どのような別のSNSのかたちが考えられるかと問われ、わたしは「発酵するSNS」というイメージについて次のように表現した(*1)。
「『パズり』という言葉が象徴するような、反射神経や一瞬の爆発で情報が広がるのではなく、じわりじわりと、継続や蓄積が価値を帯びていくイメージ」
記事が掲載された後に、この獏としたイメージに形を与えなければと思い、ある具体的なアイデアを起点に6月頭から開発を開始した。それが今も手掛けている「Pickles」というサービスだ。
Picklesは、一言でいえば、記憶という糠床のかき混ぜを促してくれる仕組みだ。具体的には、自分が書き溜めている日誌を週に一回生成AIに読み込ませて、直近の一週間の出来事について書き手が気づいていないかもしれないことを示唆したり、特定の記憶についてさらに省察するための問いを投げかけたりしてもらう。Picklesは自動実行型のサービスであり、日誌を書いている別のアプリを一度登録すれば、メールが月曜の朝に届く。それを読み、次の日誌を書いていくという流れだ。
発酵食の世界では、糠床をかき混ぜることは「天地返し」と呼ばれる。糠床の表面(天)と底部(地)をひっくり返すことによって、表面で活性化する酢酸菌などの好気性代謝菌(酸素呼吸によって繁殖する菌)と、主要な嫌気性代謝菌(酸素のない状態で発酵を通してエネルギーを得る菌)である乳酸菌との位置を入れ替えることで、過剰な発酵や不快な臭気の発生を抑えるのだ。
Pikclesは、いわば記憶の天地返しを手伝うことによって、より自然に経験を省察できるようになることを目指すものだ。これはまだSNSの形式を取っておらず、あくまで個々人の記憶と思考の発酵を情報技術が手伝うためのデザインである。しかし、この先に、現在のSNSとは異なる他者とのつながり方が見えてくるかもしれない。
現在のSNSのシステムは、個々の利用者についてせいぜいクリックしたリンクや検索ワードなどの行動履歴や、短文の投稿を基にした簡易的な分類(たとえば政治思想が右か左かとか、どの広告キーワードと合致しているか、など)といった表面的な理解しかできない。加えて、利用者もまた短文に圧縮された表現でしか他者の注意を獲得できない。
しかし、容易に分類できない複雑な思考を長期間書きつけていく過程に寄り添うAIがデザインできれば、サービス提供者や広告業者の思惑に絡め取られないかたちで利用者同士が交流を図る新しい方法が考えられる。これはまだ曖昧なイメージしかないが、追ってかたちにしていく。
「日誌」を書いて発酵させる

そもそも、なぜ日誌を対象にしたのかという背景の説明が必要だろう。わたしは2024年のはじめから、日誌を毎日書くということを始めた。その直前に親友を病で亡くした痛みと向き合う中で、彼女から受け継いだ問いを途絶させずに育てたいと思ったからだった(*2)。その友人は病気が発覚する以前から、「死者との対話」という主題を掲げており、本の編集や、展示やイベントの企画を通して意欲的に探求していた。わたしも彼女の依頼を受けて、死者との対話を巡ってテクノロジーが果たせる役割について、原稿の執筆や作品の展示というかたちで応答していたが、まだ十分に答えきれていない。友と物理的に会話することは不可能となったが、日々の生活のなかで彼女の声がふと聴こえてくる瞬間を記録して、その省察を通して対話を持続できるだろうと考えたのだった。
ところで「日誌」や「省察」という用語は「日記」と比べると見慣れないものかもしれない。日記には厳密な形式はないが、日々起こったことを時系列で書いていく記録のスタイルを採ることが多いだろう。一方で、わたしが「日誌」と呼ぶのは、英語では「ジャーナル」というものに対応している。これも日々の記録ではあるが、漫然と起こったことを書いていくのではなく、ある一つの、もしくは複数の問いを立てて、日常の経験から問いを深めるために書く行為を指す。研究者であれば研究ノートがここでいう日誌に近い。わたしの考える日誌とは、生活を日常と仕事のモードに切り分けることなく、人生のあらゆる経験を潜在的に考察の対象と捉えるものだ。
日誌を書く時は、かならず省察を行うことになる。問いに関係する、ある経験をしたとする。まず、それが何であったのかを書く。次に、その出来事によってどのような感情や思考が引き出されたのかを書く。次に、それぞれの理由を探るように言葉を連ねていく。なぜ、その出来事が起きたのか。なぜ、自分はそのように感じたり考えたりしたのか。
日誌を継続するには、コツがある。日々書きすぎると、時間が足らなくなったり、疲れが生じたりしてしまう。同時に、文量が短すぎると省察が不足してしまう。わたしは緩急をつけて、書ける時には書き、特に何もなかった日には短い記録で済ませる。大事なのは、書きたいと思えることを書くことだ。それは必ずしも自分の人生の出来事でなくてもいい。読んだ本や観た映画が面白いことを書いていれば、自ずと自分の関心のベクトルが浮かび上がってくるし、長期的に抱えている問いと呼応しはじめる。
大学で「日誌」を実践する
わたしはとても個人的な必要から、日誌を毎日書くという習慣を生活に取り込んだわけだが、大学で研究の方法論を学ぶ若い人たちにも奨めてみようと思い至った。2024年の春学期に、思い立って学部のゼミで日誌に基づいた研究の進め方を紹介したら、思った以上に好意的な反応が返ってきた。中には、子どもの頃から日記を書いているという、わたしよりずっと経験を積んでいる人も何人かいたりした。
大学生は卒業論文を執筆するにあたって、研究の問いを立てる必要がある。うまく自身の関心を言語化できる人は難なく問いを立てられるが、そもそも自分の問いが何であるかがわからない人も多い。そういう学生にとって、日誌を通した自己対話を日常的に続けることは、問いを捕まえるきっかけになるのではないかと期待したのだ。
また、自分の感情を日記などに書きつける行為が、精神の安定につながることは心理学の世界では広く研究されている。わたし自身、日誌を書き続けるなかで、親友を亡くした衝撃が和らぐように感じられた。学業に加えてアルバイトや就職活動、インターンなどに追われ、多忙な生活を過ごす学生たちの精神衛生の面での助けにもなるのではないかとも考えた。
教育の現場で日誌というものと向き合うのは初めてのことだったので、自分でもいろいろと文献を読み、学生たちに日誌を書きながら研究の問いについて教室で定期的に話し合えるようにカリキュラムを組んだ。基本的には、互いの書く日誌にはプライベートな内容も含まれうるので、テキストを互いに開示することはしない。その代わり、毎週のゼミの時間のなかで、日誌にどんなことを書いたのか、そのことによって今はどんなことに関心が向いているのかという話し合いをしたり、時々それぞれの問いを発表してもらったりする。
このようにして、たとえ互いの関心の向き先がバラバラであったとしても、それぞれの関心がその人のどのような来歴から生じているのかを互いに理解しあえる雰囲気が醸成されてきた。この年の卒業生たちの論文は、各自の生活に根ざした考察に溢れていた。書き手自身が問いの当事者であるという感覚が、より読者に伝わる文章を生んだように感じられたのだ。
自分の文化を記述する行為
文化人類学の分野に、オートエスノグラフィと呼ばれるものがある。直訳すれば、「自分の文化を記述する」という意味となるこの言葉は、人類学者が遠い文化の人たちについて調べるように、自らの経験をまだよく言語化されていない、わからないものとして捉え、観察する姿勢を含意している。オートエスノグラフィの論文には、人類学や社会学の訓練を受けた研究者が、自らが当事者である社会問題についての経験を書き、これまでの研究とつなげて論じる。
わたしは日誌を書きはじめてからオートエスノグラフィの文献を読み始めた。そこでは、トラウマ、スティグマ(社会から向けられた偏見)、人種差別や性差別を被った経験など、社会でまだあまり言説化されていない問題について、「わたし」という一人称での物語が展開される。論文によっては、エッセイや詩の形式を採るものもあるが、いずれも先行研究を引用し、それらとの関連を論じている。
わたしが実践し、教える「デザインを通じた研究(ルビ リサーチ・スルー・デザイン)」においても、オートエスノグラフィの方法論を取り込むことが増えてきた。万人の利便性を向上するための製品をデザインするのではなく、極私的な問題に対しての応答というかたちで道具や行為をデザインし、その実践を通して気付いたことを記述する。それは多くの場合、社会に広まっていない実践を生み出す。わたし自身が愛着をもって育てた糠床の喪失体験に端を発して生まれたNukabotは、まさにデザイン過程を通じて様々な知見を生み出す「リサーチ・スルー・デザイン」の研究だといえる。
オートエスノグラフィに触れたわたしの学生たちは日々、公園の土の上で転がったり、勝手に動くしっぽを身につけたり、日々の記録が印字されたレシートを水槽のなかで溶かすといった経験を日誌で省察しながら、卒業論文を書いた。その中で、公開に同意した七名の論文については一冊の本に綴じ、文学フリマで頒布した(*3)。
日誌の実践についての説明が長くなってきたので、そろそろPicklesに戻ってこよう。日誌は誰にも読ませないものとして書く。しかし、生成AIになら読ませてもいいのではないか、と考えた。
自分の抱える問いに関する気付きだけを書く場合は、研究ノートとして、自ずと整理される。しかし、まだ認識していない問いを浮上させるために言葉を連ねる場合は、どのように書けばいいのか、また書いたものとどう向き合えばいいのか、わかりづらい時がある。
研究者や書き手であれば、書いた言葉を寝かせると、そのうち新しい意味が立ち現れてくると、経験上知っている。しかし、さほど文章を書き慣れていない人にとっては、書き続けること自体がそれほど容易いことではないということが徐々にわかってきた。
論文であれば、文章を読みながら添削をしたり、指摘を伝えられる。しかし、日誌とは基本的に他者に秘するものとわたしは考えるので、それを読むことは当人の心に土足で踏み込むことになりかねない。
仮に日記を読むことになったとしても、日々増えていくテキストの総量は、30名弱という教室のサイズを考えると膨大なものになる。そもそもひとりの教員ではおよそ目を通すことができない。
日誌を書く意味とは、点と点が線になることに気づくことにある。日誌を読み直すときに、雑多な思考の断片同士が思わぬかたちで共振していると気づくと、さらに思考が駆動される感覚がある。この感覚は、書き手がみずから気付いた時に最大化されるものだろう。しかし、そのことに気が付かなければ、もしくは気づきが生じるだけの文量を書けなければ、日誌の意義はいつまでたっても実感できないままだ。
Picklesの誕生
そこで、「思考を発酵させるテクノロジー」という命題と、教育現場での問題意識が線でつながり、Picklesの基本構想が生まれた。人間には難しい細かい粒度で、人間には読ませられない日誌を読み取り、そこから気づきのヒントを返してくれる伴走者としてのAIのイメージを抱き、かたちにしようと決めた。Picklesというコードネームは、発酵つながりで適当に付けたものだが、開発を通してその名称を見るたびに「発酵」という命題が想起されることを期待した。
*1 朝日新聞「情報学研究者がX・FB・インスタをやめた理由『発酵するSNSを』」2025年5月16日 https://www.asahi.com/articles/AST5F24DJT5FULLI002M.html
*2 ここでは詳細は省くが、次の記事で過程を詳述した。「『死者が生きていく』ためのテクノロジーはいかにして可能か」(RITA MAGAZINE 2 死者とテクノロジー、ミシマ社、2025年3月、p44-61)
*3 ドミニク・チェン編『相互行為をデザインするオートエスノグラフィ―2024年度発酵メディア研究ゼミ論文集』2025年5月刊行。
*次回は、11月28日金曜日に更新の予定です。
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ドミニク・チェン
博士(学際情報学)。NTT InterCommunication Center研究員、株式会社ディヴィデュアル共同創業者を経て、現在は早稲田大学文学学術院教授。カリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)Design | Media Arts専攻を卒業後、NPOクリエイティブ・コモンズ・ジャパン(現・コモンスフィア)を仲間と立ち上げ、自由なインターネット文化の醸成に努めてきた。大学では発酵メディア研究ゼミを主宰し、「発酵」概念に基づいたテクノロジーデザインの研究を進めている。近年では21_21 DESIGN SIGHT『トランスレーションズ展―「わかりあえなさ」をわかりあおう』(2020〜2021)の展示ディレクター、『発酵文化芸術祭 金沢』(2024、金沢21世紀美術館と共催)の共同キュレーターを務めた他、人と微生物が会話できる糠床発酵ロボット『Nukabot』(Ferment Media Research)の研究開発や、不特定多数の遺言の執筆プロセスを集めたインスタレーション『Last Words / TypeTrace』(遠藤拓己とのdividual inc. 名義)の制作など、国内外で展示も行っている。著書に『未来をつくる言葉―わかりあえなさをつなぐために』(新潮文庫)、など多数。(写真:荻原楽太郎)
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とは
はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
どうして自分が「考える人」なんだろう――。
手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか――手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。
「考える人」編集長
金寿煥
著者プロフィール
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- ドミニク・チェン
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博士(学際情報学)。NTT InterCommunication Center研究員、株式会社ディヴィデュアル共同創業者を経て、現在は早稲田大学文学学術院教授。カリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)Design | Media Arts専攻を卒業後、NPOクリエイティブ・コモンズ・ジャパン(現・コモンスフィア)を仲間と立ち上げ、自由なインターネット文化の醸成に努めてきた。大学では発酵メディア研究ゼミを主宰し、「発酵」概念に基づいたテクノロジーデザインの研究を進めている。近年では21_21 DESIGN SIGHT『トランスレーションズ展―「わかりあえなさ」をわかりあおう』(2020〜2021)の展示ディレクター、『発酵文化芸術祭 金沢』(2024、金沢21世紀美術館と共催)の共同キュレーターを務めた他、人と微生物が会話できる糠床発酵ロボット『Nukabot』(Ferment Media Research)の研究開発や、不特定多数の遺言の執筆プロセスを集めたインスタレーション『Last Words / TypeTrace』(遠藤拓己とのdividual inc. 名義)の制作など、国内外で展示も行っている。著書に『未来をつくる言葉―わかりあえなさをつなぐために』(新潮文庫)、など多数。(写真:荻原楽太郎)

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