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発酵と生成の「けもの道」 情報技術のオルタナティブ

2025年11月28日 発酵と生成の「けもの道」 情報技術のオルタナティブ

4.Picklesを使いはじめるまで

著者: ドミニク・チェン

情報技術には発酵の時間が足りていないのではないか――。代表作『未来をつくる言葉』(新潮文庫)で、ネット時代の「わかりあえなさ」をつなぐ新たな表現を模索したドミニク・チェンが、AIの時代にあるべき情報技術との付き合い方を問う。自身も主要なSNSを断ち、強い覚悟をもって新しい「情報技術の倫理」の可能性を探る。発酵と生成によって切り拓かれるけもの道。はたしてその先にはどんな風景が待ち受けているのか? 

*バナーの画像は、人が発酵中の味噌と対話をするためのMisobot(「発酵文化芸術祭 金沢」の展示風景)

単純な作動原理

 日誌の執筆を支援するサービス、Picklesのアイデアの原理は、とても単純なものだ。前提として、書き手が日誌を書き溜めていく。そして週に一度、Picklesが自動実行され、一週間分の日誌を読み込む。すると、その文章の全体に対し、生成AIがプロンプト(指示内容)に従って応答文を作成し、その結果を書き手にメールで送信する。書き手はメールを受け取り、自分の日誌の分析を読んで、記憶の中から価値のある気づきを得る。

 実は、同じことは手動でも行える。日誌のテキストデータをコピーし、ChatGPTなどの入力フォームに貼り付け、予め用意したプロンプトと共に送信すれば、同様の結果が得られるのだ。しかし、日誌が長くなるに連れて、毎回自分で繰り返す作業としては手間のかかるものになる。Picklesはだから、いちいち手動で生成AIのインタフェースに文章とプロンプトをコピー&ペーストをしなくても、日誌さえ書いていれば自動的に処理が実行され、決まった曜日と時間にメールが届くという体験を提供する道具だ。週に一回という間隔はキリが良く、直感的にちょうどいい。記憶は一週間ほどで曖昧になる感覚があるからだ。一週間なら、途中で日誌を書かない日があったとしても、省察するに値する文章量が溜まるだろうとも考えた。

 日誌を振り返る作業上のメリット以外にも、Picklesを独立したソフトウェアとしてつくる重要な動機がある。それは、ジャーナリング(日誌を書き、その省察を行うことで、研究の問いを深め、発見を得る手法。連載第3回を参照)を用いる研究者としての関心だ。

 たとえば、Picklesではひとつのプロンプトを継続的に「育てる」ことになる。最初から理想的なプロンプトは書けないので、自分の書く日誌と、Picklesが返すメールの両方を読みながら、プロンプトを少しずつ修正していく。この推敲過程を通して、そもそも日誌を書き続けるということの意味について考えていくことになる。

 さらに、Picklesの使用者たちが、自分の日誌の分析結果から何を読み取るのかということも知りたい。また使用者同士が互いの経験を話し合うことで、生成AIとの適切な距離感を巡る相異点が浮き彫りになると期待する。

 また、ChatGPTのような生成AIサービスがどのようにチャット履歴を記憶し、参照するかは使用者からはブラックボックスとなっている。「思考の発酵」を標榜するPicklesでは、直近一週間のデータだけでなく、一ヶ月以上とか一年以上といった長期的なデータを参照できるようにしたい。そのためには、自前でそのデータベースを設計する必要がある。この点も、PicklesをChatGPTなどとは別のアプリケーションとして開発する重要な理由だ。

プロトタイプをつくってアイデアを検証する

 今回、生成AIを用いたヴァイブ・コーディング(実現したい機能を生成AIに文章で伝え、ソフトウェアコードを出力させる方法。連載第2回目を参照)でPicklesの開発をはじめるにあたって、エンジニアのアガちゃんこと上妻(あがつま)優生(ゆうき)さんと協働することになった。数年前に共通の友人を介して知り合ったアガちゃんは、IT企業で多数の開発プロジェクトに携わった後にフリーランスのエンジニアとして活躍、最近になってベンチャー企業に再び参画した。

 2024年の暮れに、多忙の気晴らしにヴァイブ・コーディングでスマートフォン・アプリを開発した話を彼にしたら、わたしより遥かに高度なAI型開発をしていて、衝撃を受けた。その時から、彼にAIを活用した開発を指南してほしいと考えていた。2025年に入って、ウェルビーイング概念を伝えてきた者として、使用者を中毒状態に陥らせない技術を設計したいと話し合うようになった。

 ウェルビーイングとは、人間の幸福度を生み出す様々な心理的要因についての学際的な研究分野である。直訳すれば「良い在り方」となる。大きく分けて医学的ウェルビーイング(心身の病気がないこと)と主観的ウェルビーイング(本人が精神的に充足していること)があり、後者はさらに快楽的(瞬間的)と持続的(長期的)なものに分かれている。スマートフォンやSNSといった現代のテクノロジーは個々人に快楽的ウェルビーイングをもたらすように発展してきたが、同時にスマホやゲームへの依存や若い世代の自己効力感や自尊心の低下といった問題を引き起こすことがこれまでの研究でわかってきた。

 わたしはこれまで、主にテクノロジーを介して持続的なウェルビーイングがいかに生み出せるかということを研究してきた(*1)。アガちゃんは企業の第一線でエンジニアとして活躍しながら、人々のウェルビーイングに寄与する技術開発をしたいと考えてきた。その二人がそれぞれの経験を活かして何か一緒にモノづくりをしようと意気投合したのだ。

 そこで、SNSアカウントを削除したタイミングで、彼にPicklesのアイデアを語ったところ、これを一緒につくるプロジェクトがはじまった。

 以来、プロトタイプやサービスのイメージを交わしながら、Discord(テキストやボイスのチャットができ、情報の集積が行えるWebサービス)上や対面で様々な議論を行った。二人の対話を通して徐々にPicklesが何をするものなのか、そして何をしないものなのかについての合意形成がなされていく。この議論のプロセスは、一人でヴァイブ・コーディングをしていたら得られない気づきや反省を生み出す、重要な役割を果たしている。

 まずは、つくる対象についての認識をすり合わせるために、最初の試作品(プロトタイプ)をそれぞれがつくるところからはじめようとアガちゃんが提案してくれた。6月初旬某日の夕方、授業を終えて帰宅した後に少し時間が空いたので、Picklesの基本設計を文章に書き起こし、生成AIにコード設計を命令した。出力結果のコードについて手元の実行環境で何回かテストと修正を繰り返していたら、すぐに動くプロトタイプができあがった。

 この時点ではまだメールは送信できなかったが、日誌を書き込んだNotion(メモやデータベースをひとまとめに管理できるWebサービス)のページをPicklesが読み取り、「日誌の内容を、書き手の感情と思考の点から分析し、要約をつくってください。そして、感情がどのような傾向にあるのかをレポートしてください」という短い指示内容(プロンプト)に沿うかたちで、日誌の内容に対して自動的に応答を出力した。作業端末上に表示された出力結果には、確かに直近一週間の日誌に書き込まれた感情と思考の流れが簡潔に分析されていた。

バージョン管理システムを使った共同作業

 ここでは、プログラミングの経験がない方にも、二人以上でひとつのソフトウェアをつくるときに、どんなふうに作業を進めているのかをできるだけわかりやすく説明したい。

 ソフトウェアを長期間にわたって複数の人でつくるときには、「いつ」「誰が」「どんな変更をしたか」を細かく記録しておくことが大事になる。たとえ小さな修正であっても、後で見返したり、元に戻したりできるようにするためだ。

 たとえば、ある人がPicklesのメール送信の仕組みを直しているあいだに、別の人が分析の部分を改良している、というように同時に作業することがある。このとき、二人が同じファイルを直接触ってしまうと、変更がぶつかって混乱してしまう。そこで、開発する人それぞれが手元のパソコン上にソフトウェアコードの「自分専用の作業コピー」をつくり、その中で新しい機能を試したり、修正したりする。

 新しい部分ができあがったら、「これを全体の中に取り込みたい」という形で、他のメンバーに知らせる。その際には、「どこをどう変えたのか」「何のために変えたのか」を説明し、他の人がその内容をチェックする。もし問題がなければ、チーム全体の正式なバージョンにその変更が加えられる。

 通常は、経験のある人がチェックを担当することが多いのだが、今回の開発では、わたしとアガちゃんの二人がお互いの作業を確認し合う形で進めている。お互いの工夫を知り、ミスを見つけ合いながら、少しずつ全体の品質を高めていくような協働のプロセスだ。

 イメージとしては、刀鍛冶が相鎚を打ちながら、少しずつ、着実に刀を鍛えていくのに近い。ソフトウェア開発には一定の厳密な規律が求められるが、それさえ守っていれば、複雑で巨大なコードを少しずつでもつくりあげることができるのだ。

意味づけをAIに委ねない

 最初のプロトタイプを受けて数日で、アガちゃんはわたしの粗い設計を精緻化して、長期的な開発に向けたコードの整理を行った。同時に、彼がこの最初のプロトタイプを受けて、Picklesの向かう方向を明確にするために、Picklesのアプリ画面のモックアップ(模造物)をつくってくれた。モックアップとは、議論を活性化するために、具体的な機能の実装方法をいったん脇において、可能な未来のかたちを示そうというものである。

 アガちゃんのモックアップには日誌を書き込むNotionのような単一のデータ源だけではなく、SNS、カレンダー、ヘルスケア情報、手書きのノートなど、できるだけ多くのデータを自動で収集し、分析対象に加えるという設計思想が表現されていた(図1)。

図1:統合的な分析ツールとしてのPickles像(上妻優生作成)

 Picklesとは、記憶を掘り返して日誌を書き込む行為を、糠味噌をかきまぜて野菜を漬け込む発酵食づくりに見立てたネーミングだ。そのPicklesの構想が拡張され、人生のあらゆる行動が「発酵」に供されるというアイデアは、技術的な興奮をもたらすものだった。

 そこでこの図を基にアガちゃんと二人で議論を行った。現代の様々な技術を統合すれば、総合的な分析サービスをつくれる。意識的に日誌として書かれたテキスト以外にも、SNSでの何気ない投稿であったり、スマートウォッチが計測する心拍数や歩数、睡眠時間といった自動的に生成されるデータを組み合わせるのだ。目に見えない微生物が静かに容器の奥底で発酵するように、無意識下の情動の渦から思いもよらなかった意味のパターンが発生するかもしれない。

 もちろん、日誌やSNSの投稿のように自ら記述した文章と、睡眠時間や歩数といった自動的に記録されるデータとでは、性質が大きく異なる。後者は機械が一方的に分析を行うものである。Picklesは、センサーやコンピュータが自動的に収集するデータを拾い、意味づけをソフトウェアに委ねるというよりは、人が自らテキストを書き、書いた内容の意味づけや価値の発見を行うプロセスに寄り添う役割を果たすものにしたい。

 このような議論を通して、あらためて、Picklesの向かう先が明確になった。

ドッグフーディングの開始

 その後、空き時間に少しずつ開発を進め、7月初旬に二人で一緒に1時間ほど作業をしたところで、分析結果をメールで配信する機能を追加したPicklesのバージョンが完成した。これにより、主要な機能は一旦はつくり終えたことになる(図2)。

図2:Picklesにおけるデータ処理の流れ(上妻優生作成)

 アガちゃんのエンジニアとしての経験と技量に負うところは大きいが、ヴァイブ・コーディングを用いることにより、わずかな作業時間でソフトウェアの基本的な土台が想像以上に素早くつくれたことに、あらためて驚いた。

 ソフトウェア開発では、アイデアの核の部分が機能するバージョンのことをMVP(Minimum Viable Product、実用最小限の製品のこと)と呼ぶ。生成AIに基本仕様を伝えるだけで、MVPにたどり着くまでの時間は圧倒的に速くなる。

 当然ながら、MVPをつくりあげた後に、日々の利用に耐えられるレベルに達するには、ソフトを実生活のなかで使用し続け、検証を繰り返さなくてはならない。特にPicklesのように、ソフトウェアが作動した結果について使用者が主観的に意味を見出す仕組みの場合は、ただ使用データを観察するだけでは意味がない。自分で使ってみて価値を確かめないといけないのだ。

 IT業界では、開発者がつくったものを自分自身で使用してテストすることを「ドッグフーディング」と呼ぶ(*2)。わたしとアガちゃんはひとまず、Picklesからのメールを毎朝受け取り、読んで感想を伝え合うドッグフーディングをはじめた。

 

*1 ウェルビーイングについての更なる詳細はコミュニケーション科学者の渡邊淳司さんとの以下の共著・共訳・共編書籍を参照されたい。『ウェルビーイングの設計論』(2017)、『わたしたちのウェルビーイングをつくりあうために』(2020)、『ウェルビーイングのつくりかた』(2023)、いずれもBNNより刊行。朝日新聞「情報学研究者がX・FB・インスタをやめた理由『発酵するSNSを』」2025年5月16日 https://www.asahi.com/articles/AST5F24DJT5FULLI002M.html

 *2 Wikipedia記事によれば、この用語の起源には諸説あるらしい。米国のカルカンペットフードの社長が株主総会で自社のドッグフードを食べてみせたという逸話が強烈な印象を与える。転じて、1988年にマイクロソフト社内で「Eating our own Dogfood」というタイトルのメールが出回り、自社製品を自分たちで使用するよう促したという。
https://en.wikipedia.org/wiki/Eating_your_own_dog_food

 

*次回は、12月12日金曜日に更新の予定です。

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考える人とはとは

 はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
 「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
 どうして自分が「考える人」なんだろう―。
 手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか―手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
 それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。

「考える人」編集長
金寿煥

著者プロフィール

ドミニク・チェン

博士(学際情報学)。NTT InterCommunication Center研究員、株式会社ディヴィデュアル共同創業者を経て、現在は早稲田大学文学学術院教授。カリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)Design | Media Arts専攻を卒業後、NPOクリエイティブ・コモンズ・ジャパン(現・コモンスフィア)を仲間と立ち上げ、自由なインターネット文化の醸成に努めてきた。大学では発酵メディア研究ゼミを主宰し、「発酵」概念に基づいたテクノロジーデザインの研究を進めている。近年では21_21 DESIGN SIGHT『トランスレーションズ展―「わかりあえなさ」をわかりあおう』(2020〜2021)の展示ディレクター、『発酵文化芸術祭 金沢』(2024、金沢21世紀美術館と共催)の共同キュレーターを務めた他、人と微生物が会話できる糠床発酵ロボット『Nukabot』(Ferment Media Research)の研究開発や、不特定多数の遺言の執筆プロセスを集めたインスタレーション『Last Words / TypeTrace』(遠藤拓己とのdividual inc. 名義)の制作など、国内外で展示も行っている。著書に『未来をつくる言葉―わかりあえなさをつなぐために』(新潮文庫)、など多数。(写真:荻原楽太郎)


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