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コンフェッシオーネーーある告白

2025年11月24日 コンフェッシオーネーーある告白

6.深まる疑念

著者: ヤマザキマリ

約40年前、17歳の少女はイタリアへと旅立つ。背中を押したのは、敬虔なカトリック信者にして音楽家の母。異国での生活を前に動揺する少女に、400年前、遠くヴァチカンを目指した4人の少年たち(ルビ クアトロ・ラガッツィ)の影が重なる――。科学と芸術、そして宗教が色濃く共存し続けるイタリアで培ったものとは、何だったのか。人生でもっとも貧しく苦しかった画学生としての生活と、自らの裡に沈殿していた“信仰”を告白。これまで封印していた記憶の扉をひらく、渾身のメモーリエ。

陶磁器の街、ノーヴェ

イタリア北部ヴェネト州にある「ノーヴェ」を描いた絵葉書(著者所蔵)

 マルコの家と工場があるノーヴェは、陶磁器の生産で知られるイタリア北部の街である。ノーヴェの街を貫くブレンタ川は、レヴィコ湖とカルドナッツオ湖を水源にアドリア海へ注ぐ全長174キロの立派な川だが、夏になると雪解け水が減り、私が初めて見た時は、いくつかの細い筋に分かれた透明な水が河原の合間を流れているような、頼りない川だった。

 しかし、ノーヴェの陶磁器産業はこのブレンタ川を流れる水の動力によって稼働し続けてきた。美しい絵付けや花などのデコレーションが特徴的なノーヴェのマヨルカ焼きは、実用性よりも装飾品として国内外で高く評価され、“ノーヴェ焼き”という商標で、1970年代をピークにヨーロッパ各地やアメリカでの需要が高まった。工場を経営する職人たちの中には、立派な屋敷を建てられるほど富を築いた人たちもいたそうだ。マルコの工場も陶磁器を生産しており、その販路をドイツとアメリカにビジネスを広げたことで、街の中でも著しい成功を遂げたという。

水車の動力を利用したノーヴェの陶器工場(著者撮影)

 しかし、私が見た限りだと、ショールームに飾られている手の込んだ大きな壺や壁掛け用の大皿はすべて埃の幕で覆われ、人の目に晒されている気配は無かった。イタリア中が一斉に夏休みに入ってしまう季節だったこともあるが、ノーヴェの街はいつ散歩をしても人影がまばらで、何するでもなく木陰のベンチで影のようにじっと座ったまま動かない老人たちがときどき目に入るだけだった。立派なお屋敷もどれくらい無人のまま放置され続けてきたのか、どの窓も鎧戸が閉ざされたまま、壁には蔦が隙間なく絡まり、とてもマルコが語るような経済的な活気は感じられなかった。

 母はマルコを、ヴァチカンにも所有されるほど素晴らしい陶器を生み出す家系の末裔であり、イタリアにおける著名な陶芸家だと解釈していたし、私もノーヴェへ来るまではそうであるとすっかり信じ込んでいた。しかし、どうやら著名な陶芸家だったのは、彼の先祖と現役で活躍する彼の弟であり、本人は陶器ビジネスの成功で得た報酬で土地や不動産を購入し、そこからの収入で生活していることがわかってきた。

 マルコの家の居間にある、皮張りの年代物の本から何かの印刷物の束に至るまで詰め込まれた巨大な書棚に、アオサギを(かたど)った立派な陶器の置物が飾られていた。ある日マルコはそれをひょいと手に取ると、台座の裏を指差しながら、自分の工場でつくられたその陶器が、世界的に有名な「カポディモンテ」の贋作であることを教えてくれた。マルコの指の先には、確かに「Capodimonte」という文字の刻印があった。カポディモンテとは18世紀のごく短い期間、ナポリ近郊にあった窯で作られていた陶磁器だそうで、オークションなどでは桁違いの高額での売買がなされているとのことだった。

「コピーだということを知っていながら、アメリカの成金たちはこれを欲しがる。我々はそんなかれらの強欲と見栄で儲かったんだ」
 マルコの顔は悪びれている様子もなく、「そもそも芸術品というのは、誰しも誰かから真似をすることによって生まれるものだ。このアオサギなど、本物よりよほど上手くできている」と自信いっぱいだった。私は「はあ、そうですか」と答えるしかなく、頭の中ではマルコという男への理解に苦しむ動揺と混乱が増すばかりだった。

ボルサート家のリアーノとミリアム

 マルコの家から歩いてほんの5分くらいの場所に、Borsatoと大きな文字が壁の上部に刻印された大きな家があった。そこもまた、マヨルカ焼きによって一時は大繁盛した工場だったそうだが、数年前に会社は倒産し、建物の正面玄関へと続く立派な鉄の門は頑丈な錠で閉ざされていた。マルコとは先々代からの古い付き合いだという、そのボルサート家の工場に連れていかれたことがあった。あらゆる場所に連れ出され、あらゆる人々に“東洋からの来客”として見せびらかされていた私にしてみれば、もうどこで誰に会おうと大した問題ではなかったが、その家の人々は少し様子が違った。

 最初に我々の前に現れた、亡くなった先代の妻という初老の女性は所作が慎ましく、私と会った時も珍しいものを目の当たりにしたような表情は全く見せなかったし、他のイタリア人たちのように日独伊三国同盟の話も振ってこなかった。女性は、優しさに満ち溢れていながら、どこか心配そうな顔で「不安になったり寂しくなったりしたら、うちにいつでもいらっしゃい」と会ったばかりの私の手をぎゅっと握った。

 間も無く、彼女の息子であるリアーノという中年の男性と、彼の娘でボッティチェリが描くような美しい金髪の少女が現れて、顔いっぱいの笑顔で初対面の私と抱擁を交わした。ミリアムというその少女は学校で学んでいるという英語を目いっぱい駆使しながら、マルコから私の話を聞いていること、そして自分が私と同じ年齢であることを教えてくれた。自分と同じ年齢でありながら、ミリアムのギリシャ彫刻のような端正で大人びた顔だちと、堂々とした大人っぽい立ち振る舞いに、私はノーヴェに来てからというもの、じっくり鏡すら見ていない自分に対し恥ずかしさを感じた。
 
 ボルサートの工場はマルコの近代的な建造物とは対極的にクラシカルで、貴族の宮殿のようなショールームにはやはりマルコのものとは趣の違う、薔薇の花や果物、そしてオリーブの実などの装飾があしらわれた、女性的な嗜好を意識しているかのような雰囲気のものが多かった。そして、陳列棚に並べられたそれらの陶器も、埃こそ払われてはいたが、やはり長い間、人の目にさらされているような様子ではなかった。

「どうぞ、好きなのがあれば、持っていってちょうだい。あなたの日本の家族へのおみやげに。いつまでノーヴェにいるの?」と夫人に言葉をかけられ、私はたどたどしいイタリア語で「絵を学ぶためにイタリアに来たので、当分日本に帰る予定はありません」と伝えた。その言葉を聞いて一番驚いたのは、リアーノだった。絵の勉強だって?とリアーノは緑色の大きな目をさらに大きく広げて、私を見た。リアーノはマルコに「そういう目的で彼女はノーヴェに来たのか? ノーヴェのような田舎でいったいどんな絵を学ぶんだ?」と問い詰めながら、強い視線で彼を見据えた。マルコは戸惑い気味に口角を(ゆが)めると、肩をすくませ「絵の勉強がしたいと言われても、学校も画塾も今はどこもかしこも夏休みで閉まっている。どうしようもない」と(たわ)けながら答えた。

 マルコのその反応から、彼がやはり最初から私の本来の目的をまったく理解していなかったことを知って、怒りとも落胆ともつかない大きな脱力感に見舞われた。そんな私の顔色に気がついたのか、夫人が突然「ブラーバ!」と声を上げた。「あなた偉いわね! まだ若いのに、芸術の勉強をするために家族から離れてひとりでこんな遠くの国まで来て。ねえミリアム! あなたと同じ年だなんて、すごい勇気じゃないの。良い先生が見つかるといいわね」などといった賛辞を矢継ぎ早に浴びせつつ、固まっている私の肩を両腕でさすった。

疑念から確信へ

 私たちは夫人が手作りしたティラミスとコーヒーをご馳走になって、ボルサート家を後にしたが、マルコは帰りの道すがら、あの家は先代が商売のために作った多額の借金を抱えたまま倒産し、リアーノは今まったく関係のない仕事をしながら家族を養っている、という説明をし始めた。そして、急に声のボリュームを下げると「実はリアーノの妻はな、金持ちの恋人を作って家を出ていってしまったんだ。あいつも哀れだな」と面白おかしそうに付け加えた。

 真夏の、まだ暑いままの斜陽を浴びながら、唾に濡れた歯を光らせながら喋るのを止めないマルコの傍で、私はローマで出会った時から、この老人に対し胸中に蓄積し続けていた拒絶感のような、嫌悪感のようなものを恐る恐る自覚した。知らない土地で、頼れる人がマルコのみという不安から封印していた自分の本心と、ついに真正面から思い切り向き合ってしまった気がした。この先どうしたらいいんだろう?という漠然とした思いが頭のてっぺんまで飽和して、マルコの言葉はもう耳まで届かなくなった。

 マルコの家を訪ねてきたリアーノが、藤棚の下でマルコと何やら激しい言い争いを起こしたのは、その翌日のことだった。

 

 

*次回は、2026年1月26日月曜日更新予定です。

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考える人とはとは

 はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
 「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
 どうして自分が「考える人」なんだろう―。
 手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか―手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
 それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。

「考える人」編集長
金寿煥

著者プロフィール

ヤマザキマリ

漫画家・文筆家・画家。日本女子大学国際文化学部国際文化学科特別招聘教授、東京造形大学客員教授。1984年にイタリアに渡り、フィレンツェの国立アカデミア美術学院で美術史・油絵を専攻。97年、漫画家デビュー。2010年、『テルマエ・ロマエ』で第3回マンガ大賞、第14回手塚治虫文化賞短編賞を受賞。2015年度芸術選奨文部科学大臣新人賞受賞。2017年、イタリア共和国星勲章コメンダトーレ綬章。2024年、『プリニウス』で第28回手塚治虫文化賞マンガ大賞を受賞。著書に『プリニウス』(新潮社、とり・みきと共著)、『ヴィオラ母さん』(文藝春秋)、『パスタぎらい』(新潮社)、『扉の向う側』(マガジンハウス)など。現在「少年ジャンプ+」で、「続テルマエ・ロマエ」を連載中。撮影:ノザワヒロミチ

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