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コンフェッシオーネーーある告白

2026年6月22日 コンフェッシオーネーーある告白

11.「素晴らしい画家になってください」と司祭は言った

著者: ヤマザキマリ

約40年前、17歳の少女はイタリアへと旅立つ。背中を押したのは、敬虔なカトリック信者にして音楽家の母。異国での生活を前に動揺する少女に、400年前、遠くヴァチカンを目指した4人の少年たち(クアトロ・ラガッツィ)影が重なる――。科学と芸術、そして宗教が色濃く共存し続けるイタリアで培ったものとは、何だったのか。人生でもっとも貧しく苦しかった画学生としての生活と、自らの裡に沈殿していた“信仰”を告白。これまで封印していた記憶の扉をひらく、渾身のメモーリエ。

フレッド家での日々

 フレッドの家で私が寝泊まりしていた部屋は東向きに窓があり、(さん)が壊れていたために鎧戸をしっかり閉め切ることができず、どんなに夜更かしをしても朝はその窓から差し込む強烈な太陽の光と共に目覚めるしかなかった。アルプスに程近いイタリア北部とはいえ、夏の強い日差しは朝日であろうと攻撃的で、一度起きてしまうと二度寝などとてもできたものではなかった。活動開始の合図のような鳥たちの(さえず)りを聞きながらベッドから出ると、サンドラのチャックが開いたままになっている化粧ポーチやジョージの脱ぎ捨てたシャツが壁のタオルかけにだらしなくぶら下がっている、狭くて汚い洗面台で顔を洗った。古い水道からの水の出は悪く、頼りなくうねりながら出てくる細い水の柱を手のひらに溜めてから、歯を磨いた。

 彼らは鎧戸の閉まる部屋に寝ていたので、午前中遅くまで起きてくることはなく、私は台所のシンクに積み重なっているグラスを洗い、足元に転がるビールやワインの空になったボトルを片付けて、古びたエスプレッソマシーンでコーヒーを沸かし、ひとり中庭の椅子に腰掛けて朝食を取った。朝食といっても、通常はスーパーマーケットで売っているような、なんの変哲もないありきたりのビスケットを数枚だけで済ます。マルコの家にいる時からこのシンプル過ぎるイタリア式の朝食には慣れていたが、フレッドの家はともするとビスケットの買い置きもなく、そんな時は数日前の硬く乾いた小鳥の餌にするしかないようなパンか、ジョージがロンドンから持ってきたポテトチップスで(しの)いだ。

 イギリスではポテトチップスを“クリスプス”と称することも、この家での滞在中に知った。ジョージから私の“クリスプス”という英語の発音がおかしいと指摘され、笑われながら何度も練習させられたことがあった。フレッドの家にいるのは全員イギリス人だから会話も英語になるわけだが、ジョージからはいちいち私の発音がおかしい、イギリスではそんな言い方はしない、と笑われ、その都度悔しい思いを強いられた。フレッドの家ではどんな状況であろうと、何をしていようと、自分の無知や稚拙さと向き合わされてばかりで、マルコの家にいた時とはまた違う意味で精神的な苦痛を感じていた。リアーノも家族と一緒にどこかへ避暑に出掛けているとかで姿を現すことは無かったし、私は仕方なく次なるフェーズを待ちながら、酔っ払ったフレッドとうっかり宗教の話にならないよう気をつけたり、ジョージから英語の発音を笑われないよう、こっそり練習をしたりするような毎日を送っていた。

彫刻家アントニオ・カノーヴァ

 それでもフレッドには、私がイタリアへ来たのはそもそも美術を学ぶためだという認識はあったし、いい加減なようで赤の他人である私のこれからのことをいつも気にかけてくれているようだった。ナポレオンの彫像を手がけるなど、18世紀後半から19世紀初頭にかけて活躍した新古典派の彫刻家アントニオ・カノーヴァを知ったのも、フレッドのおかげだった(連載第9回参照)。トレヴィーゾから1時間もかからずに行けるからと面倒くさがるジョージを説得し、なぜかジョージの彼女も連れて四人でカノーヴァの生誕地であるポッサーニョへ赴き、いくつものカノーヴァの作品が陳列してある美術館を案内してくれたときのフレッドは、自分の家で酔っ払っている時とは打って変わって、その筋に詳しい学芸員か評論家のような様子だった。

 カノーヴァが工房として使っていた展示室に並ぶ、幾つもの真っ白な彫像を前に、フレッドは何の知識もなさそうな私に向かって、今にも目玉が転がり落ちるのではないかと思うくらい大きく目を見開いた嬉しそうな表情で、カノーヴァがナポレオンのお抱えだったことや、そもそもこの時期になぜ古代ローマやギリシャ美術を模倣する新古典主義というムーブメントが生まれたのか、という話をしてくれた。美術に全く関心のないジョージは相変わらずモデルのような彼女とベタベタいちゃつきながら、作品の表面に(のみ)を入れるアタリとして打たれているたくさんの釘を見て、疫病の発疹のようだと気持ち悪がっていたが、代表作である三美神の前ではふたりとも急に黙り込んで、美しい裸体をしげしげと眺めていた。

アントニオ・カノーヴァの代表作「三美神」をカバーにした作品集(著者撮影)

 私はといえば、そこから遡ること3年前、ひとりで訪れたパリのルーヴル美術館で、迷った末に行き着いたギリシャ・ローマ時代の彫刻が立ち並ぶセクションで、2000年以上も前に生み出された美術品の迫力と美しさに、驚いて放心状態になった時のことを思い出していた。カノーヴァの作品は、それから1800年も経過してから作られただけあって、ルーヴルに並ぶ彫刻の内側に宿っていたような時間の重厚さを感じることはなかった。カノーヴァの古代ローマ文化に対する強い思い入れはその突出した技術力に昇華されていたし、さすがナポレオンに気に入られた彫刻家だけあって、顔や体の造形を美しく表現するテクニックにはブレが無かった。カノーヴァの作品には、商業的にも大成功を収めた表現者らしい、安定感があった。どうだ、ここにある彫刻を見て何を感じる、とフレッドに聞かれた時は、確かそんなような感想を答えたはずだ。するとフレッドは、やればできるじゃないかと言わんばかりの感心した様子で私の頭を撫でてきた。家の中では英語の発音の悪さを指摘されたり、無学を笑われてばかりいたから、ここでは舐められてたまるものかと、美術の勉強を志す気合いを示すのに、私も頑張ったのだと思う。

はじめての激励

 家にいる時と比べて活発になる私に気を良くしたのか、次にフレッドと訪れたのは彼の敬愛するジョルジオーネの故郷、カステルフランコ・ヴェネトの大聖堂だった。この時はジョージではなくサンドラが一緒だった。もういったいあなたと一緒に何度ここへ足を運んだかしらと呟きながらも、大聖堂の脇に設けられた展示室に飾られている、夭折の天才画家の描いた作品の前でサンドラは嬉しそうだった。フレッドはこれまで何百回繰り返してきたか知れぬジョルジオーネの生涯や、寡作だった画家の代表作の一つであるその祭壇画について、周囲に人がいようといまいと構わぬといった様子で延々解説を続けていた。

カステルフランコ・ヴェネト大聖堂(著者撮影)

 そのうちジョルジオーネ目当ての観光客と思しき人たちが展示室の周りに集まってきたので、フレッドの説明も自ずとイタリア語になった。ついに教会の司祭まで姿を現し、フレッドと勝手知ったる友人同士のように親しげに挨拶を交わすと、フレッドは指先を私に向け「この日本人は画家を目指してイタリアに来た」と紹介をした。神の存在を否定するフレッドだったが、神職者と親しくすることと思想信条は関係がないらしかった。司祭は「そうですか」と優しい笑顔を浮かべると、私の目をじっと見つめながら「ジョルジオーネは短命でしたが、あなたも頑張って素晴らしい画家になってください」と言った。「絵描きの道は厳しいでしょうね。でも、絵を描く道を選んだことを後悔しないよう、力を尽くしてたくさん勉強してください」と司祭は重ねた。

 私はその時、イタリアに来て初めて、誰かから絵の勉強を頑張ってくださいと励まされたことに気がついた。正確には、絵描きを目指すことを非難するでもなく、むしろ前向きな力強い言葉ではっきりと励ましてくれた人は、人生でその司祭が初めてだった。

 彼の言葉には、小さな地方都市の、何の変哲もない教会が国内外で有名になったのも、ジョルジオーネという450年もむかしに生きた画家の力と、残された素晴らしい絵画のおかげであるという理解が感じ取れたし、人々の神への信仰があったからこそこうした芸術が生まれたのだと思うと、フレッドの無神論など跳ね除けられそうな安堵もあった。あまりに高揚して、やっとカトリック教会の司祭に出会えたにもかかわらず、鞄のポケットにしまってある洗礼証明書のことも、自分は日本人だがカトリックだと伝えることも脳裏を(よぎ)らなかった。それくらい、司祭に励まされたことが嬉しかった。

ジョルジオーネの代表作「カステルフランコ祭壇画」(著者撮影)

 フレッドやサンドラには、私のその喜び―イタリアまで来たことをようやく自分でも肯定することのできた喜びなど知る由もなかっただろう。ただ、カステルフランコからの帰路、車中で、そろそろ画材を調達したい、と私が口にしたのを耳にした時は、ふたりとも少し驚いてから、サンドラが「そうよ、あなたはそのためにイタリアに来たのだもの」とこちらを振り向き、「私たちはあなたがどんな絵を描くのかまだ知らないし、是非滞在中に何か描いてほしいわ」と声を昂らせた。そうだ、フレッドやジョージにバカにされないための一番の手段は絵を描くことだ、と私は確信した。決して自分の画力が突出して優れているという自負があったわけではない。でも、少なくともフレッドに指摘されるような教養や経験の不足、そしてイギリス英語で“クリスプス”と発音するよりは、絵を描く方がまだ自信はあった。カステルフランコ大聖堂の司祭が応援してくれたばかりだったこともあり、私はかなり強気だった。

「だけど画材屋も夏休みだから閉まってるだろう」とフレッドが指摘したとおり、その翌週に出かけたヴィチェンツァの画材店の入り口にはシャッターが降り、開店日は9月1日と記されていた。せっかく汚名返上の機会が訪れたと思っていたのに、意欲を()がれた気がして黙り込んでしまった私に、フレッドが「残念だったな。そのかわり、面白いところに連れていってやろう」と提案をした。面白いところというのは、アントニオ・カノーヴァから200年ほど遡るが、やはりギリシャ・ローマ時代の建築に触発された建築家アンドレア・パッラーディオによる、古代ローマの野外劇場を模した世界で初めての屋内劇場のことだった。そして私は、その劇場で自分より400年も前に同じ場所を訪れていた日本人たちの存在を知ることになる。

 

 

*次回は、7月27日月曜日更新予定です。

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考える人とはとは

 はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
 「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
 どうして自分が「考える人」なんだろう―。
 手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか―手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
 それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。

「考える人」編集長
金寿煥

著者プロフィール

ヤマザキマリ

漫画家・文筆家・画家。日本女子大学国際文化学部国際文化学科特別招聘教授、東京造形大学客員教授。1984年にイタリアに渡り、フィレンツェの国立アカデミア美術学院で美術史・油絵を専攻。97年、漫画家デビュー。2010年、『テルマエ・ロマエ』で第3回マンガ大賞、第14回手塚治虫文化賞短編賞を受賞。2015年度芸術選奨文部科学大臣新人賞受賞。2017年、イタリア共和国星勲章コメンダトーレ綬章。2024年、『プリニウス』で第28回手塚治虫文化賞マンガ大賞を受賞。著書に『プリニウス』(新潮社、とり・みきと共著)、『ヴィオラ母さん』(文藝春秋)、『パスタぎらい』(新潮社)、『扉の向う側』(マガジンハウス)など。現在「少年ジャンプ+」で、「続テルマエ・ロマエ」を連載中。撮影:ノザワヒロミチ

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