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おかぽん先生青春記

 前回はオリンピックで始まったのに、なぜかバレンタインデーで終わってしまった。まあいいか。オリンピックも終わったし。バレンタインデーが夏だったらチョコが溶けてたいへんだろうな。かまわぬ。続けるぞ。昭和40年代、まだ義理チョコという概念が発見されていない時代において、バレンタインデーは女子からの評価が冷徹に与えられる裁判の日である。田舎の中学生男子にとって、スポーツが出来ること、人を笑わせることが出来ること、以上2点は、ほぼ素直にチョコレートの量に比例した。しかし前件なくして後件のみではだめだ。スポーツが出来ることが前提なのである。俺はこの前提を満たさないので、いかに面白いことを言っても、この競技には参加できないのであった。そう、俺はこのころからルサンチマンの固まりなのさ。

 幸か不幸か、俺は男子高校に進んだので、バレンタインデーに何ももらえない惨めさとはお別れできた。しかしそれでもモテる奴はモテるのであり、通学路途中にあった女子校を通ってくるだけで、待ち伏せ女子にチョコをもらってくるのだ。まあこれは例外的にモテる奴で、俺はまあ、世界が違ったね。そもそもそんな若いうちからモテるような奴が碌な人間になるはずはない。というのは偏見で、若い頃からモテて、今も立派な奴はいるんだよ、これが。ま、とにかく、男子校のおかげでバレンタインデーはずいぶん楽になったのだ。

 でも体育の時間の苦しさはさらに増していった。高校の体育の教師はいい加減な男で、体育の時間になるといったん生徒をあつめ、暖かい時期は晴れならばソフトボール、雨ならばバレーボールであった。寒くなると、晴れならばサッカー、雨ならばなぜかバスケットボールだった。そしてこれらのチーム分けは生徒に任された。教師は体育教員室に戻り、テレビを見ているか、ギターを弾きながらフォークソングを歌っているのであった。生徒にとっては教師はこのくらいいい加減なほうが望ましいとも言える。今の俺とどっこいだな。

 グループ分けは俺をどうするかでいつも問題となった。俺は勉強とお笑いはまあまあだったので、たとえば岡ノ谷抜きでチームを組むことなどはなかったが、俺をどこに入れるかは毎回ローテーションがあったようである。俺は仕方なく決定に従い、苦痛の時間を過ごした。たいていは級友が俺の分までカバーしてくれており、「岡ノ谷にボールを回すのは卑怯」との合意がなされていたので、つらいけど耐えられた。逆治外法権か? しかしこれが3年毎週続いたわけだ。オリンピック見てはしゃいでた諸君、この気持ちわかるかね。

 そしてまさか、大学に入ってまで体育があるとは思わなかった。幸いなことにグループ球技は少なかった。柔道をやらされたが、胴着が臭くてたまらなかった。剣道もさせられたが、面が臭くてたまらなかった。しかしこれらの個人競技はまだ耐えられた。大学の単位でつらかったのは水泳だ。俺が入学した慶応義塾大学では、1年の夏に50メートル泳げないものは、専門課程に進学できないのだ。創立者の福沢某が「塾生皆泳」と言ったそうで、だからどうした、と言いたいのだが、とにかくこの学校に入った以上50メートル泳がねばならぬのだと教師は言う。1年の夏休みの集中練習で、俺はなんとかこの課題に合格できた。いんちき平泳ぎで、10分くらいかけて泳いだような気がする。力尽きてコースロープを持ったりすると、水泳部の奴らがモップで押し返すんだよ。ひどいよな。

 大学では夏のスポーツ課題というのを1つ履修せねばならなかった。絶対に球技はさけたい俺は、以前から愛読していた本多勝一の冒険ものの影響で登山に興味があったから、登山を選んだ。慶應義塾登山部の指導で、会津の磐梯山に登ってきた。当時、同級生はみんなタバコを吸っていたので、肺がクリーンな俺は、同級生の中では持久力があるほうだった。びっくりした。荷物を担いで黙って延々と歩くのは俺の性に合っていたようだ。俺は10人用のテントを担がされ、へとへとになったが、磐梯山頂で見た天の川の美しさは忘れられない。これをきっかけに、俺は登山を始めるようになった。10年くらい前までは山に登っていたんだよ。

 今では肥満してしまって登山も高尾山以外は無理だが、たった1つだけ自分にも出来るスポーツがあってよかったと思う。俺は小中高の体育の時間、特に球技を通して劣等感と敗残感、疎外感をいやと言うほど味わった。これらが俺の芸のこやしになっていることは間違いない。芸のこやしって言ったって、あっちのほうのゲイじゃないぜ。おかげで何かが出来ない奴の気持ちを汲んでやる度量は身についたと思っている。しかしもう一度あのころの体育の時間に戻る位なら死んだ方がましだとは言わないまでも、絶対いやだ。いやだいやだ。諸君、この気持ちわかるか。

 前回、自分が出るわけでもないのに、なんでみんなオリンピックの日本人選手の活躍についてギャーギャー騒ぐのかわからん、と語った。この気持ちは今も変わらない。親族か知人以外の応援はしないでもらいたい。とはいえ、1つだけ俺が観戦するスポーツもある。格闘技だ。2002年8月、K-1とプライドの合同開催、ダイナマイトにおいて、ボブ・サップとアントニオ・ホドリゴ・ノゲイラが戦い、サップはノゲイラに腕ひしぎ逆十字固めを取られ負けたが、勝利したノゲイラはサップのパンチでぼこぼこになっており、試合後すぐ入院した。すごい試合だった。あれを一緒に観戦したのが今の妻である。吊り橋効果だな。妻も格闘技が大好きで、ダイナマイトで、猪木がパラシュートで降下してきたときには大騒ぎだった。すまん、猪木やサップが俺の親族なのではない。俺が格闘技を好きなのは、いかにルールがあるとはいえ、双方とも可能性として死を覚悟した戦いをしていること、そして双方とも戦うときにはたった1人であるからだ。だから俺は実はテニスは少し好きかもしれない。それはシャラポワが好きだからではなく(好きだが)、やはりこれも1対1の戦いだからだ。

 だから俺がやるなら格闘技かテニスだな。テニスは中学のとき部長に適性がないと言われてあきらめた。実際適性はない。却下。格闘技はできればやりたい。近くにブラジリアン柔術のジムがあるから行ってみたい。まずは10キロの減量が大事だと思うが。そしたら登山もまた再開できるかも知れないしね。幸いオリンピックは終わったが、そして実は俺も期せずして感動してしまった勝負は幾つかあったのだが、巷は早くも2020年の東京オリンピックの話題にあふれている。これから4年間、スポーツに対する注目は否応にも高まり、芸術や学問はいよいよないがしろにされるのではないか。やだなあ。俺はどうせ、運動音痴さ。

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考える人とはとは

 はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
どうして自分が「考える人」なんだろう―。
手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか―手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。

「考える人」編集長
金寿煥

著者プロフィール

岡ノ谷一夫

帝京大学先端総合研究機構教授。1959年生まれ。東京大学大学院教授を経て、2022年より現職。著書に『「つながり」の進化生物学』『さえずり言語起源論』などがある。

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