シンプルな暮らし、自分の頭で考える力。
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にがにが日記―人生はにがいのだ。

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9月15日(日)

 寝室のトイレの洗面台にずーっと「私たちはジュエリー適齢期」って書いてある雑誌が置きっぱなしになっている。
 圧を感じる。
 さっき昼間にシャワーから出るときにおもいきり足の指をドアにぶつけてしまい、あまりの激痛に痛い痛い痛い痛い痛いと大声で大騒ぎしていたら、2階にいたおさい先生が「何何っ!」ってびっくりして走ってきたんだけど、大丈夫足の指をぶつけただけって言ったら「ハンっ」って笑ってそのまま帰っていった。
 実際に大丈夫なのだが、なんかちょっと納得できない。
 足の小指のほかに、「ぎっくり腰」や「二日酔い」もまた、こんなにつらいのに同情されない。
 まあぎっくり腰は多少は同情されるかな。
 でも「ぎっくり腰」っていうコミカルな名前が納得いかない。あれめっちゃつらいねんで。仕事休むときに「すみません、『ぎっくり腰』で」って電話とかメールするのがめちゃつらい。
 「急性腰部脊髄炎症候群」みたいないかつい名前にしてほしい。
 これ前にもどっかで書いたな。
 山下達郎も竹内まりやも松任谷由実もちゃんと聴いたことがないし、村上春樹も村上龍もちゃんと読んだことがないし(というかわりと最近まで区別がついてなかった)、浅田彰も柄谷行人もよく知らない。
 野球なんかルールさえ知らないし、球団がいくつあるのかもわからない。ボーリングもゴルフもテニスもしたことがない。キャバクラに行ったこともない。
 芥川賞が年2回もあることも知らなかった。自分が候補になって初めて知った。
 でも今いくよくるよ師匠の前でベース弾いたことあるで。
 あと亡くなる直前の横山やすしを千日前で見かけたことがある。べろんべろんに泥酔しておられた。
 そういう話じゃねーよ。
 ていうかよく考えたらこないだ俺自身が又吉直樹さんとトークイベントをしたりしている。
 いや、そういう話でもない。
 じゃあどういう話なんだ。
 話は変わる。
 ちょっと自分の話をしてよいですか。聞いてほしいことがあるんですが。
 俺の話を聞け。
 5分だけでもいい。
 これ「タイガー&ドラゴン」やな。
 しかし横山剣の歌詞はほんとうに凄いよな。いつかじっくりにがにがでも書きたいけど、こういうのってJASRACとか何かそういううざい手続きが要るのかな。
 話を戻して、自分の話をします。
 そういえば、おなじ横山剣の歌詞で逆に「『自分の話はやめて/あたしの話を聞いて!』/そんなこと言っていたよな/今なら聞いてやれるのに」っていうのがあって、本当に良い。本当に沁みる。ほんとうにしみじみと良い。
 女の話を「ちゃんと聞ける」男はめったにいない。
 なかなか話が戻らない。

9月16日(月)

 この夏は「平日5日間沖縄出張、金曜の夜から月曜の朝にかけて大阪の自宅」を3セットやってみたのだが、疲れた。ぶっつづけで3週間行くのもしんどいが、細切れにするとそれはそれで仕事の集中力が途切れるのでよくない。
 県内某市にて、地元の老人クラブ連合会からご協力をいただき、沖縄戦経験者の方の生活史を聞き取っている。
 いろんなことがある。
 あるガマで集団自決があり、そこで家族が全員亡くなり、ただひとり生き残った方のお話を聞いた。3時間ほど語られたあと、ご親切にも、そのガマまで語り手の方がみずから車を運転して、連れていってくれた。
 沖縄の高齢者はみんな元気だ。
 ついさきほどまで、ガマでの集団自決の話を聞いていて、その直後に、まさにその場所に一緒に行って、ここです、ここなんですと言われた。
 一家全員が亡くなった、まさにその場所が、いま目の前にある。
 私がある種の構築主義やナラティブ論や「ライフストーリー」派をしつこく批判する理由がここにある。
 語りは、切れば血が出る。多少の事実関係の間違いや、大げさな表現や、あるいは意図的な虚偽がそこに含まれていようとも、私が沖縄で聞き取っている語りはすべて、「おおまかには真」である。それは本当のことであり、実際にあったことであり、そういう意味で、それは単なる「ストーリー」ではない。
 普天間の鉄条網は、「私たちとかれら」(この場合の「私たち日本人」は、言うまでもなく基地の「内側」にいる)を分けるものだが、それは構築された概念としての「カテゴリー」ではない。触れば怪我をするし、下手をすると撃たれる。社会的なカテゴリーというものも確かに、私たちを分断させる機能をもつが、しかし沖縄で目にする「この金網」は概念ではない。物質である。

9月17日(火)

 ここを見ると、第2期ではなく第3期なのかもしれない。けっこうちょこちょこ、間が空いてます。
 なんかムラがあるんだよな。やることなすこと全部、ムラがある。勢いでうりゃーってやったり、なんか飽きちゃってほったらかしになったり。
 他人に迷惑をかけるので、こういうところは直したい。
 とか言いながら直さへん。
 今後も積極的に他人に迷惑をかけていきたい。
 ただし俺に迷惑をかけることは許さん。
 いままで一度もしたことないことって何だろうと考えてみる。えーと。
 トランポリン。
 トランポリンしたことない。
 ボーリング。
 まあボーリングはべつにしたくない。
 自分の傷口を自分で縫う。
 これはやってみたい。
 あの、映画とかで、すごい能力を持った戦場帰りの元兵士のヒーローとかが、ウォッカを口に含んでブブーって吹きかけたりするやつ。
 あと、インドとか香港の市場を車で爆走するやつ。屋台とかめっちゃ壊すやつ。なんでハリウッドのアクション映画はあんなにインドとか香港とかキューバとか中東とかの市場街を車で爆走するんやろか。屋台のひとめっちゃ迷惑やん。これ誰かも書いとったけど。
 あれを大阪の天満でやってみたい。
 「市場を爆走」から「自分で縫う」はうまくひとつながりでできそうだが、問題なのはトランポリンである。これをどのタイミングで入れるか。
 関係ないですが、「トランポリン」って、はじめてキーボードで入力したかもしれない。
 めっちゃ指がもつれる。いままでにしたことのない指の動きだ。
 ちょっとやってみてください。
 これでよいのではないか。トランポリン自体はできなくても、いま「トランポリン」という文字列を、初めて入力した。
 これをもって経験済みとみなす。
 あとは自分で縫うやつである。
 そのうちやってみたい。
 ウォッカも。ブブーって。
 でもたぶんウォッカ飲んじゃうと思う。ウォッカとかテキーラとか好きなんだよね。ロックかストレートで。
 ずっと前、まだコザでジャックナスティーズが営業中だったとき、コンディショングリーンのかっちゃん(川満勝弘さん)に「ホセ・クエルボのゴールドを、ロックでください」って注文したらめっちゃ笑顔で「わかってるねえ!」って言われたのが、ものすごく良い思い出だ。
 あれからしばらく、大阪に帰ってきてもこればっか飲んでた。
 そのときナスティーズでめちゃめちゃきれいな日本人の女のひとが二人で飲んでて、話しかけたら、マリーンの米兵を追っかけて横須賀から来たの。彼が、横須賀から嘉手納に配属になっちゃって。って言った。
 二人ともきれいなひとだった。二人とも、黒いワンピースを着ていた。
 コザ、午前2時。ゲート通り。

9月23日(月)

 見なさい鉄郎… これが、まだまだ夏休みは続くと思い込んで、ふと気がつくと9月末を迎えていた、大学教員の成れの果てよ。
 まあ別に夏休みだからといって遊んでいるわけではぜんぜんないですが。3週間ほど調査も行ったしな。
 よう働いてるな俺。
 台風が近海を通過しているせいか、気分が最低の最悪である。蒸し暑く、風がごうごうと吹き、痛そうな雨がぱらぱらと窓を叩く。雲が暗い。
 とりあえずデパスを飲む。
 こういう日は好きな文章を書いていたいが、なかなかそうもいかない。
 そうもいかないけど、書く。事務仕事なんかくそくらえ。
 いや、いいすぎた。ごめん。
 ごめんといいながら事務仕事をしない。
 あくまでもいいすぎたことにだけ謝っている。
 前もどこかで書いたけど、ひとりで完結してる表現、というものが好きで、というか、ひとりでしか何もできないから、調査もひとりでやってるし、研究もひとりでやってるんだけど。チームで何もできない。
 ひとりで完結している音楽、というものが特に好きで、グレン・グールドやセロニアス・モンク、ジャコ・パストリアス、ジョアン・ジルベルトのような、世界のなかでただひとりで、ひとりぼっちでやってるような音楽が好き。
 もちろんみんな、実際に演奏するときはたくさんのひとと一緒にやってるんだけど。
 でもやっぱり、みんなひとりで音楽してるように聴こえる。
 みんな、どうして自分がこの世界に生まれてしまったのか、どうして自分というものが独りきりで存在しているのか、どうして自分の脳のなかには誰もいないのか、そういうことを、それぞれがそれぞれの語り方で、世界にむかって独白しているように聴こえる。
 孤独、ということではない。もっと抽象的な、存在してしまっていることへの不思議さ、みたいな。
 いちばん好きなのがエイミー・マンで、ほんとうに好き。このひとの音楽も、独りきりだ。
 そしてなぜか、人生というものを感じる。普通に明るい曲を歌っていても、切ない。
 ひとはなにか切ないものに人生を感じるのである。
 こないだガルシア=マルケスの「大佐に手紙は来ない」という中編を読んで、めちゃめちゃつらい話でびっくりした。人生と同じくらいつらい。
 つらいものやせつないものをみると、そこに人生を感じる。だから文学にはハッピーエンドはない。
 知らんけど。
 しかしエイミー・マンで不思議なのは、なんで普通にギターとかピアノとかで普通のコードで普通にメロディ歌ってるのに、こんなに「せつない」んだろう、っていうことだ。
 音の配列がせつない、って、どういうことだろう。

9月24日(火)

 おさい先生が出張から帰ってくる途中で、街の中でウーバー的な何かを配達してる金髪のヤンキーのにいちゃんが、途中で自転車を停めて、スマホを空にむかってかざしたらしい。
 何だろうと思ってその方向を見ると、きれいな夕焼けだったそうだ。
 帰ってきて「今日はいいもの見たわ」って言ってた。
 家の掃除をしないといけないんだけどしたくなくてぐずぐずしている。台風も通り過ぎて今日は穏やかに涼しい。さすがに涼しくなってきたな。はやくジャケット着たいな。そしてはやく掃除しないと…
 腹減った。掃除の前に王将でも行くか。
 健康にはいつも気を使っていて、食事時にも油分・糖分・塩分をバランスよく摂るようにしてます。
 純粋に顔だけ見ると小泉進次郎はわりとタイプである。
 ところでそのおさい先生であるが、機械に異常なほど弱い。機械だけでなく、パソコンにも異常なほど弱い。
 こないだ発覚したんだけど、おさい先生、iCloudを有料版にアップグレードして、50Gまで増量したのに、そのあともずっと無料版のDropboxを使っている。そして、その無料版のDropboxが容量いっぱいになり、おさい先生はどうしたかというと、別のメアドでもうひとつDropboxの無料版のアカウントを作ったのである。いちいちログアウト&ログインしながら使ってるらしい。そして有料版のiCloud、カネを払い続けているのに、使ってない。
 どなたか、研究会や学会でおさい先生に会ったら、「iCloud使えよ」って言ってあげてください。
 たってのお願いです。

10月2日(水)

 なんかこのあいだに何かしたような記憶があるんだけど何してたっけ。
 こないだ、昼間に牛丼食べて、そのことを忘れて夜に焼肉丼食って、ああしまったと思った。まあ別にそういうことあまり気にしないタイプですが。昨日も昼間に、大阪が誇る揚子江ラーメンの麺とスープを梅田本店で買ってきてあって、自宅でそれを食べたのだが、そのあとそのことを忘れてて、むかし住んでた上新庄を散歩してて旧ダイエーのフードコートのなかに珍しくスガキヤがあったので、つい食べちゃって、昼夜ラーメンになっちゃったけど、あんまり気にしてない。
 しかし上新庄は何度も散歩してるけど、行くたびに懐かしい。ああここから俺の人生が始まったんだなと思う。大学に通うためにここにやってきたのは30年前だ。そして20年前にはこの街を出た。もちろんそのあともずっと大阪で、いまでも電車で30分ぐらいで行けるんだけど、その30分の移動は、私にとっては30年間の移動に等しい。
 こんなに近くにあるのに、私と上新庄とのあいだには、30年もの距離がある。
 なにもかも変わったのだが、なにひとつ変わってない。上新庄はまだそこにある。
 今朝、納豆ご飯(卵黄乗せ)を食べたのだが、そのあとお昼ご飯に納豆ご飯(卵黄乗せ)を食べた。
 こないだ、またAmazonプライムでジェイソン・ボーン(スプレマシー)を観てたら、おさい先生から「同じ映画何回見るねん」と言われた。
 高校のときからウィントン・ケリーの「イッツ・オールライト」というアルバムを繰り返し聴いているのだが、飽きない。
 いま使ってるウッドベースは、大学1回生のときに買った安物で、もっといい楽器買えるけど、いまだにこれを使ってる。
 ずっとおなじ沖縄というテーマで、ずっとおなじ社会学というものをしている。
 おさい先生と結婚して21年になる。
 大阪に住み続けて32年。
 あらためて考えると、おかしいな。
 ほんとうは飽きっぽいはずなのだが。
 会議も1時間超えると無理だし。ほんとは飽きっぽい。
 しかし考えてみると、いま一緒に演奏してるひとたちももう20年とか30年とかの付き合いだし。
 小説とかはどうなるんだろう。
 たぶんおなじスタイルでダラダラといつまでも書くような氣がする。
 いま「気」ってタイプしようとしたら「氣」になった。校閲さん、面白いのでこのまま置いていきますね。
 いま「本阿弥校閲」というネタを思いついたのだが、面白くないので特に続きはありません。
 校閲さんは、きょうのお昼ご飯は何でしたか。
 そういえば、せっかちなのでミスタイプが多くて、「岸政彦」って打とうとして、しょっちゅう「木島シャイ子」になる。
 これ前にもどっかで書いたけど。
 あまりにもよく出てくるので、そのうちほんとにそういうひとがいるような気になってきた。
 でも木島シャイ子はシャイなので、顔を見せてくれない。
 どんなひとなんだろう。
 という話をどこかで書いたら、おさい先生が「ムキー」と言っていた。
 いや、木島シャイ子って、実在しないどころか、もはや架空のキャラですらなく、ただの変換ミスの、無意味な記号である。
 無意味な記号に妬いているのである。

10月3日(木)

 「スローなブギにしてくれ」の続きを勝手に考えた。
 普通の鮨にしてくれ
 離島に船で来てくれ
 苦労を共にしてくれ
 宇宙の星を見てくれ
 牛蒡を塩で煮てくれ
 無謀な君でいてくれ
 このへんが俺の限界。
 なんかこうやって並べるとプロポーズしてるみたいだが、それは「してくれ」ってお願いしてるからやな。
 なんか何度も校閲さんのことを書いているうちに、そういうひとがほんとにいるような気になってきた。
 いや、ほんとにいるんだけど。
 ここでもまた実在論だ。
 なんかこう、昔から、なにかが実在するっていうことにすごい驚くんだよな。
 だから、構築主義とかの言語論的な転回にあんまりびっくりしたことない。まあ、そりゃそうやろ、ぜんぶラベリングやろ、ぐらいな感じ。
 それより、「ああ!俺って実在してるんだ!」っていうほうにびっくりする。
 あと猫とか。音楽とか。海とか。みんな実在してるんだよな。すげーよな。
 海とかほんとに好き。
 子どものころから、同じような何かが連なって、すこしずつ形を変えていくパターンみたいなものに強く惹かれる。だから海とか川の表面のさざ波を、いつまでも見てる。
 ちょっとまえに福岡県立美術館で見た草間彌生の大作はすごかった。
 30分ぐらい動けなくなった。ずっと見ていた。
 脳に直接入ってくる感じ。素手で脳を掴まれていた。
 音楽が実在してるのも相当不思議だ。
 音の配列だろ。なんでこんなに感動するんだろう。
 木島シャイ子は実在しません。

10月4日(金)

 こないだ、
 あーそれアレやろ、ナチスのアレや。最初なんも言わんかったら途中からガーくるやつや。
 ひょっとしてレーフラー?
 という会話を誰かとしたと思うんだけど、誰だったかな。
 ちなみに、いま念のためもういちど調べてみたら、レーフラーじゃなかった。ニーメラーだった。
 レーフラーはアレだ。実在しないやつだ。
 木島シャイ子と一緒だ。
 いろいろ混ざる。
 関係ないけど、さいきんサイン会というものをすることが多く、漢字がいかに書けないか、ということを痛感している。せっかくなのでお名前を入れることが多いのだが、もうさいきんはずっとひらがなにさせてもらってる。
 いちど、「大矢さん」という方(そうです、あの書店・出版業界で暗躍する大矢さん)にサインさせてもらったのだが、
 大弓様
 と書いて、横で見ていた大矢さんから
 矢!
 言われた。
 「矢! 矢です矢!」
 もう、平謝り。
 「矢ぁ!」
 言われました。
 マジックだから、ぐしゃぐしゃって消すしかない。
 こないだは、「希望の希です」って言われてるのに、「季」って書いた。
 ほんとうにごめんなさい…。
 そして一度だけ、自分の名前を間違えたことがある。でっかく堂々と、
 岸政岸
 って書いたときにはもう、ほんとにどうして俺はこうなんだろう、と、めっちゃ落ち込んだ。
 あれどうしたっけな。新しい本と替えてもらったんだっけ。
 「お尻を出した子が一等賞になる」ようなゲームがあるとすれば、どういうルールだろうかと、ずっと考えている。
 あと、「あの鐘を鳴らすのはあなた」って、めっちゃ「いや、お前の仕事だろ? やれよ」って言われてる感じがする。
 細かい話ですが、こないだダンベル買うたんですわ。さいしょ何も考えずに10kgのやつ二つ買って、「お、重い……」ってなって、こんどは5kgのやつ二つかって、結局両方使ってますけども、なかなか気持ちいい。そんなに真剣にやってないけど、朝ごはんの後とかにうりゃーって10kgのダンベル上げ下げしてると、しゃきっと目が覚めるし、事務仕事でイライラしてきたときにうりゃーってやると、肩こりが治る。
 考えてみたらスポーツらしいスポーツどれもできないし、だいたい大嫌いだし(唯一好きなのが散歩とシュノーケル)、日常生活のなかで「力を入れる」とか「すばやく動く」とか、そういうことが一切ない。でも、単純なダンベルの上げ下げだけでも、うりゃーってやるとかなり気持ちいいんだな。
 だからといってヨガとか始めたりしません。
 体がでかくて、体格が良いとよく言われて、何かスポーツやってはるんですかってしょっちゅう言われるんだけど、ほんとに何もしてないし、何もできない。走ったり投げたりということがまったくできない。
 そういえば、子どものころに、「走り方がおかしい」ってよく笑われたな。俺が走るとみんな笑った。ボールを投げたりしても笑われた。
 「スムーズに体を動かす」ということが、生まれてからいちどもできない。
 というか、そもそも、スムーズに生きていくことができない。
 まあそれはみんなそうですが。スムーズに生きてるひとなんてひとりもおらん。いるとすれば猫ぐらい。
 猫は人生も毛並みもスムーズ。

絵・齋藤直子

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 はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
どうして自分が「考える人」なんだろう―。
手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか―手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。

「考える人」編集長
金寿煥

著者プロフィール

岸政彦

1967年生まれ。社会学者。著書に『同化と他者化─戦後沖縄の本土就職者たち』『街の人生』『断片的なものの社会学』(紀伊國屋じんぶん大賞2016受賞)『愛と欲望の雑談』(雨宮まみとの共著)『質的社会調査の方法─他者の合理性の理解社会学』(石岡丈昇、丸山里美との共著)『ビニール傘』(第156回芥川賞候補作)『図書室』など。最新刊は『リリアン』(2/25発売)。

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