全国三部会の開催
当時、ヴェルサイユは人口およそ5万5千、約60万人のパリに比べれば少ないが、アラスのほぼ3倍の人口を抱える都市だった。パリから南西へ20キロほど離れた郊外に、ルイ14世が豪華絢爛たる宮殿を建設して以降、ブルボン王朝の政治や文化の中心として栄えた。
左右対称の格子状で区切られた小径や並木道、モニュメントが整然と並ぶ街に、全国三部会の開催に合わせて議員や見物人たちがどっと押し寄せて来たのである。30歳の最後の夜、アラスから7人の第三身分代表と共にやって来たロベスピエールもその1人だった。
議員総数は約1200名、人数は一定だったわけではないが、第一身分(聖職者)が295名、第二身分(貴族)が278名、第三身分(平民)が604名だった(資格審査を終える7月時点)。
全国三部会は、会場となったヴェルサイユ宮殿のムニュ=プレジールの間の改修工事のため順延され、1789年5月5日に開幕した。第一身分と第二身分は表口から、第三身分は裏口から入った。最後に入場したルイ16世が短い演説を行って開会を宣言し、第三身分の出身で人気のあった財務長官ネッケルが最後に長々と無味乾燥な演説を行った。第三身分代表として簡素な黒い礼服に身を包んだロベスピエールもその場にいたが、彼を知るものはほとんどいなかった。
実際、ミラボーやシィエス、ムーニエらを除けば、第三身分代表のほとんどが無名だった。そのなかで異彩を放っていたのは、頭も体も大きく堂々とした物腰で声も大きいミラボー(1749-91年)である。著名な経済学者ミラボー伯爵の次男として生まれながら放蕩生活で借金をつくり逮捕され浮名を流す一方、啓蒙思想の影響を受けて文人として活躍し、第二身分の代表となることを拒んで第三身分の代表としてヴェルサイユにやって来た。その存在感は、会議を傍聴していたネッケルの娘、スタール夫人の目にも焼きついた。彼女はミラボーのうちに「人民の権利の擁護者」の化身を目撃したとのちに証言している(『フランス革命の考察』1818年)。
ロベスピエールは、ヴェルサイユ宮殿に近いエタン通り16番地に、同郷の3人の代表と共に居を構えたが、その近くにあったカフェ・アモリはブルターニュ出身の代表者の溜まり場だった。「ブルトン・クラブ」として知られるその集まりには、ミラボーやジェロム・ペティヨン、そしてシィエスらがいた。ロベスピエールは彼らと交流し、行動を共にすることになる。
三部会は冒頭から紛糾した。歓迎式典後、身分(部会)別に会議を開催するよう指示されたが、第三身分代表がこれを拒否したのである。マクシミリアンはこの様子を、アラスにいる友人ビュイサールへの手紙で詳細に報告している(5月24日)。まず、分かれた会場で議論し自らの権力を誇示しようと企む二つの特権階級代表を非難したのち、彼は次にように書く。
庶民〔平民〕(ここでは第三身分という言葉は古代の奴隷の極みだとされ使用が禁じられているので)の議員は、別の原理原則を持っていました。彼らは国民の議会は一つでなければならず、どんな身分であれ国民の議員すべてが自分たちの運命に関わる議論に同じ影響力を持つべきだと信じていました。(中略)聖職者や貴族の側が、庶民院のなかにある国民の集合体に合流することをあくまで拒むなら、庶民院はみずからを国民議会であると宣言し、行動しなければならないと確信していたのです。
第三身分の代表たちは三部会開催後すぐ、みずからの部会をイギリス議会(the Commons)に因んで「庶民院」と名乗っていた。アラスからやって来た法曹家は、特権身分や国王のやり方に強い憤りを覚えながらも、「庶民」議員たちと彼らの考え方に勇気づけられたのである。
私を慰めると同時に安心させてくれるのは、祖国のために死ぬことができる百人以上の市民が議会にいるということであり、概して庶民院の議員が知識と真っ直ぐな意志を持っていることです。
アルトワ州出身の議員も「断固とした愛国者」とみなされていると紹介した後、われわれと行動を共にするブルターニュ出身の議員の大部分は才能があり、みなが「勇気とエネルギーに溢れている」とも手紙で伝えている。
〈民衆=人民〉の登場
6月6日、ロベスピエールは事実上最初となる演説に臨んだ。それは聖職者たちに対して贅沢を止めるよう、キリスト教本来の禁欲と救貧に勤しむように説く内容で、第三身分の部会にやって来たニームの大司教が貧民のためと称して議事の開始を促した直後になされたため、内容以上の効果があった。その場にいた元司祭で著述家のエティエンヌ・レイバスは、「この若者はまだ経験がなく、あまりに冗漫で止まらないが、雄弁さと辛辣さの資質があり、それによって衆に抜きん出ることだろう」と語っている。同演説を伝えた新聞では、ロベール・ピエールやロブ・ピエール、ロベスピエンヌなど、綴りが間違って報道されたように、ロベスピエールは無名な存在だったが、この演説によってその名は注目されるようになる。
6月17日、第三身分代表はシィエスの提案に基づいて「国民議会」を名乗ることに決めた。そして、この間に幼い息子(王太子)の病死もあって意気消沈していた国王が議場の閉鎖を命じると、彼らは宮殿内の室内球戯場に集まり、決して解散しないことを誓い合った。これが、ダヴィドの絵画とともによく知られる「球戯場の誓い」である。憲法の制定を目的に掲げて国王の諮問機関であることをやめ、みずから国制を論じ設立することを目指した点で、それは一つの歴史的な転換点だった。ロベスピエールも、この誓いに45番目に署名した(下の絵画の右側で椅子の上に立つ男の目の前にロベスピエールの姿を確認することができる)。
その後、聖職者の大部分と貴族の一部が合流するに及んで、国王も特権階級に対して第三身分(国民議会)への合流を勧告せざるをえなくなる。ただ、国王は「憲法制定国民議会」と改称した合同議会の成立を傍観していただけではない。パリやヴェルサイユに軍隊を召集する一方で、7月11日に事態の打開を狙ってネッケルを罷免したのである。
しかし翌12日の日曜日、ネッケル罷免のニュースがパリに伝わると、民衆は大混乱に陥った。国王が議会を解散しパリを襲撃するのではないか、という不安が広がったのである。もともと前年からのパン価格の高騰に民衆は苦しんでいた。街には失業者が溢れ、一説によれば浮浪者が10万いたという。パリの盛り場だったパレ・ロワイヤルでは、何人かの弁士が聴衆に向かって自衛のために武器を取るように訴えかけた。すると14日朝、4、5万人の群衆が武器を求めてアンヴァリッド(廃兵院)〔当時は傷病兵の慰安施設〕に押しかけ、次に弾薬を求めてバスティーユ監獄に向かった。バスティーユは、もともと14世紀に首都防衛のために建設された要塞だったが、パリ市の境界が広がるとその役目を終え、政治犯を収容する監獄に代わっていた。もっとも、当時政治犯は1人もおらず、群衆が押し寄せたときに収容されていたのは、有価証券偽造者4名を含む7名にすぎなかったことは今ではよく知られている。
とはいえ、バスティーユ監獄がブルボン王朝の「専制」の象徴だったことに変わりなく、しかも、このとき偶然のきっかけから群衆と守備兵が発砲し合い司令官ロネーが虐殺されたことから、その襲撃は全土に大きな衝撃を与え、「革命」の発火点として記憶されることになる。
親愛なる友よ、現在起こっている革命は、人類の歴史で起こったこともないもっとも偉大な出来事をこの数日の間にわれわれに見せたのです。
このように書き始められた田舎の友人への手紙(7月23日)からは、ロベスピエールの興奮冷めやらぬ様子が伝わってくる。彼は、専制に対して「公共の自由」を擁護するために立ち上がったパリの〈民衆=人民〉、彼らに加担したフランス衛兵を含む「あらゆる階層からなる30万の愛国者の軍勢」が起こした「蜂起」を称賛しているのである。
他方で、このとき国王に軍隊の退却を上奏し、事態の沈静化を図った議員団の試みも評価している。ロベスピエールはなかでもミラボーの提案を「真に崇高で威厳溢れる仕事」として高く評価し、彼のうちに国民議会の非公式のカリスマ的なリーダーの姿を見ていた。実はビュイサールへの最初の手紙では「ミラボーは無価値だ」と断じたマクシミリアンだったが、その評価を180度変えたことになる。実際、「国民議会」に対して国王が解散を命じ、議場からの退去を命じた際も、「われわれを動かすには銃剣の力が必要だ」と迫ったのはこの貴族だった。こうして、「革命のライオン」と呼ばれたミラボーは間違いなくヴェルサイユの華(主役)となった。ロベスピエールは、ミラボーのような全国から集まった才能に多くを学んだことだろう。ただし翌年、両雄は対峙することになる。
その評価からも察せられるように、ロベスピエールが目指した変革も当初は王政を崩壊させることを企図したものではなかったはずだ。蜂起後、国王はネッケルの罷免撤回とパリの軍隊の退去を命じる一方で、ブルボン家の白とパリの都市章の青・赤を結びつけた帽章を受け取ったが、「これほど荘厳で崇高な光景は想像を絶する」とロベスピエールは手紙に書いている。
こうして、国王は和解のシンボルを受け容れることで、結果的にパリの騒擾で〈民衆(人民)〉がおかした「犯罪」を不問に付した。それもあって、バスティーユ奪取後も群衆による虐殺は終わらなかった。さらに、その噂は地方にも広がり、前年の不作に苦しむ農村地帯で農民たちを不安に駆り立て、貴族たちが自分たちに復讐をしようとしているという「大恐怖」と呼ばれる流言まで飛びかった。そこでロベスピエールも、議会で次のように訴えた。「民衆を鎮めたいのか?彼らには正義と理性の言葉を語りかければ良い。彼らの敵が法の復讐を免れられないことを信じさせること、そうすれば正義の感情が憎悪の感情に取って代わることだろう」。
立法権あるいは「代表者」という核心
8月4日の晩、「大恐怖」への対応として数名の貴族が議会で封建制の廃止を宣言した。しかし、特権身分代表の多くが反対を表明、11日に採択された封建制廃止令では地代徴収という経済的特権がそのまま残り、「庶民」議員には不満の残る内容だった。これに対して、議会で同時に作成が進められていたのが、人権宣言である。
8月26日に議会で採択された「人と市民の権利の宣言」(人権宣言)は、前文に続けて次のように宣明する。「第1条(自由・権利の平等) 人は、自由、かつ、権利において平等なものとして生まれ、生存する。社会的差別は、共同の利益に基づくものでなければ、設けられない」(樋口陽一・吉田善明編『改訂版 解説世界憲法集』)。この条文によって、封建的身分制の解体が鮮明になった。また、第3条では「すべての主権の淵源は、本質的に国民にある」として、国民主権が宣言された。この歴史的な文章は、人間の自由・平等という権利論とともに、国を統治する権限が国民にあるという統治論から構成されていた。
そこで問題となったのは、主権者である人民の代表である議会の立法権と国王の執行権の関係である。9月11日、議会は国王に法律の暫定的な拒否権を与える提案を可決するが、ロベスピエールはこれを厳しく批判、すべての拒否権に反対した。彼の演説は妨げられたが、その原稿が印刷された。それは彼の独自な国民主権の考え方を理解するうえで、貴重な資料である。
すべての人間は、その本質からして、自分の意志でみずからを統治する能力を持っている。それゆえ、一つの政治的集団、すなわち一つの国民として結集した人間は、同様な権利を持つ。個別に意志する能力の集積であるこの共通に意志する能力、すなわち立法権は、ちょうど個々の人間にとってそうだったように、社会全体において不可侵かつ至上であり、何ものにも依存しない。法とは、この一般意志をかたちにしたものにすぎないのである。
ここには、心の「師」ルソーの「一般意志」の思想の影響が見てとれる。だが、これに続く文章からは、人民の直接参加の擁護者というイメージが強いルソーとは異なる政治のヴィジョンが垣間見える。「大きな国民は全員で立法権を行使できず、小さな国民はおそらくそうすべきではないため、立法権の行使をみずからの権力の受託者である代表者に委ねるのである」。
ロベスピエールによれば、一人の人間が拒否権を持ち、その意志が暫定的であれ全体の意志に優位するとすれば、そのとき「国民は無であり、ただ一人の人間がすべてである」。よって国王の拒否権とは、「道徳的にも政治的にも考えられない怪物」だと評する。これに対して、「いかなる政府も人民によって人民のために設立されるものだということを思い出さなければならない」と言うロベスピエールは、同時に次のようにも主張するのである。
もし人民がみずから法を作ることができるのなら、もし市民全体が集合してその利点や欠点を論じることができるのなら、人民は代表者を任命する必要があるだろうか?
否、人民は立法する「代表者」を必要とする。このように、ロベスピエールの構想する政治の核心には「代表者」がいた。この点で、一見してルソーのヴィジョンとは異なる。もっとも、彼の政治観は革命という現実のなかで揉まれながら、それと交錯してゆくことになるだろう。
ヴェルサイユでは、演壇に近づくと震え出すと周囲に語ったとされるロベスピエールは、確かにヴェルサイユの主役ではなかった。だが、最初の演説後、冗漫にならぬよう事前にメモを取るように心がけるなど、全国三部会はフランス革命の指導者の自己鍛錬の場となった。そして、その力が発揮される舞台はパリに移る。10月、人権宣言の承認を拒否した国王とその一家は、女性たちによってヴェルサイユからパリに連れ戻されることになるのである。
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高山裕二
明治大学政治経済学部准教授。博士(政治学)。専攻は政治学・政治思想史。著書に『トクヴィルの憂鬱』(白水社、サントリー学芸賞受賞)、共著に『社会統合と宗教的なもの 十九世紀フランスの経験』(白水社)、『近代の変容(岩波講座 政治哲学 第3巻)』(岩波書店)などがある。
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とは
はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
どうして自分が「考える人」なんだろう――。
手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか――手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。
「考える人」編集長
金寿煥
著者プロフィール
- 高山裕二
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明治大学政治経済学部准教授。博士(政治学)。専攻は政治学・政治思想史。著書に『トクヴィルの憂鬱』(白水社、サントリー学芸賞受賞)、共著に『社会統合と宗教的なもの 十九世紀フランスの経験』(白水社)、『近代の変容(岩波講座 政治哲学 第3巻)』(岩波書店)などがある。
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