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ロベスピエール 民主主義の殉教者

「10月事件」という衝撃

 バスティーユ監獄襲撃から3ヶ月、「第2の革命」と呼ばれる事件が勃発する。

 議会では、国王の暫定的(停止的)拒否権が承認される一方で、二院制案が否決され一院制にもとづく立憲君主政が目指される。だが、ルイ16世は同意せず、議会は膠着状態に陥った。そんな中、食糧危機にあったパリの女性たちが、パンを求めて市役所前に集結、市長のバイイや国民衛兵[もともと1789年夏に諸都市で組織された民兵団]司令官のラファイエットが不在と分かると、ヴェルサイユに向けて行進を開始したのである。

ヴェルサイユ行進

 10月5日、一日かけてヴェルサイユに到着した女性たちは、議会に乱入しパンの供給を要求、彼女たちの代表が国王と面会し小麦の供給の約束を取り付けた。だが、それで話は終わらない。続いて国民衛兵が到着すると、国王は大臣の進言に従って脱出することを拒み、議会で承認された諸法令を受理する旨を通告するが、彼らは国王のパリ帰還を要求した。翌6日、群衆が宮殿に乱入、国民衛兵がそれを鎮静化させたとき、国王にはパリに帰還する以外に道は残されていなかった。午後1時頃、国王一家が兵士やパリの女性たちとともにヴェルサイユを出発、パリのチュイルリ宮殿に入ったのは夜の10時頃だった。その後、議会はパリに移り、11月9日には改造された同宮殿が議場となる。

女性たちの議会への乱入(議長はムーニエ)

 この「10月事件」は、特権身分代表はもとより第三身分代表にも大きな衝撃を与えた。すでに7月の第1の革命に対して少なからず恐怖を抱いた彼らにとって、議会に乱入し実力行使によって国王を引き摺り出した〈民衆=人民〉の再登場は警戒感を強めさせるものだった。これには彼らの出自も関係していた。「庶民」議員を名乗っていても、彼らの約3分の2は大卒で法律職に就いており、残りの3分の1も職人や中小農民は皆無で、いわゆる民衆層には属さない人々だった。また、58名の貴族が第三身分代表として選出されていたのである。同代表の著名人の一人で議長となったムーニエは、(立憲)君主派を結成していた(その後、早々に田舎に帰り、国外へ亡命した)。同身分内の階層や利害のずれが、今後さらに表面化することになる。

 同月下旬に提案されたのは、〈二つの国民〉案である。その議論を主導したのは、革命前もっとも影響力のある冊子『第三身分とは何か』を刊行していたシィエスだった。ただ、「第三身分とは何か?―すべてである」という言葉で始まる冊子は、共通の法律や代表のもとに「一つの(・・・)国民」を作り出すことを訴えたのではなかったか。しかし、彼の手になる7・8月の人権宣言草案にはすでに〈二つの国民―「能動的市民」と「受動的市民」と呼ばれる―構想が含まれており、それは多くの第三身分代表の意見を代弁するものでもあった。直前に勃発したパリの「蜂起」、民衆による市長の虐殺がその背景にあったことは明らかである。

 庶民の家に生まれながら社会的上昇を目指して聖職者となったシィエスが、同草案に記したのは「受動的市民」論であり、市民・国民の区別・分類だった。

 

 一国のすべての住民は受動的市民の権利を享受すべきである。すべての者は自己の人格、所有権、自由その他のものの保護を求める権利を有するが、すべての者が公権力の形成に能動的に参加する権利を有するわけではない。すべての者が能動的市民であるわけではない。女性―少なくとも現状においては―、子供、外国人、公的組織の維持に何の貢献もしていない者は、公の問題に能動的に影響を及ぼすべきではない。

 

 さらに、「その代表者は、公の問題に対して能力とともに関心を有するすべての市民(・・・・・・・・・・・・・・・・・・)によって、短い任期で、間接または直接に選ばれなければならない」と書かれ、教養のある有産者だけが有権者すなわち「能動」国民であると想定されていたのである(浦田一郎『シエースの憲法思想』。傍点引用者)。国民議会はシィエスの案にもとづき、3日分の労賃に相当する直接税を納めている「能動」国民に選挙権を限定した。それだけでなく、彼らが10日分の労賃を納めている者から(国民議会の議員を選ぶ)選挙人を選出という間接選挙を提案したのである。同案によれば、成人男性の3分の1が選挙権を失うことになる。

 これに対して、平民出身の聖職者グレゴワール(1750-1831年)が主張したように、それは本来の人権宣言の原理に矛盾するものであると同時に、新たに特権階級を生み出すことを意味した。とはいえ、「一つの国民」が主権を担うという建前があっても、国民の区分が何らかの形で存在するという矛盾を抱えた「民主主義」の時代がこのとき開幕したと見ることもできる。

「人権宣言」の擁護者として

 グレゴワールを支持し、まさに「人権宣言」の観点から反対弁論に立ったのは、ロベスピエールである。

 

 憲法によれば、主権は人民、すべての個々人に属するのである。それゆえ、各人はみずからが義務づけられる法や自分たちの公共の事柄の管理に携わる権利がある。そうでなければ、すべての人間は権利において平等で、すべての人間は市民であるということは真理ではないことになる。

 

 このように「納税できない貧民のために」行われた演説は途中で遮られ、続行しようとしたが断念せざるをえなかった。後日そう報道した各紙は、「人間は権利において平等である」という人権宣言の理念と矛盾する議会の決定に異を唱えたロベスピエールを持ち上げた。全国三部会の開会後、パリの新聞は数が増加するとともに、単に議会の動向を流すだけでなく出来事への解説や意見を付すようになっていた。彼の演説を賞賛する手紙が全国から届いた。

1789年の人権宣言

 しかし、ロベスピエールの立場を支持する議員は少なかった。そして議会は〈二つの国民〉案を可決、「市町村の構成に関する法令」(12月14日)においてその要件を明文化した。

 この間、ロベスピエールが翌年の市町村選挙に向けて書き進めた冊子が残されている(彼の生前には未公刊)。そこでは、国民議会がこれまで行ってきたこと、その歴史的業績を列挙した後、それを保障する憲法の必要を指摘し、それはとりわけ国民の大部分をなす、教育を受けていない貧しい人々のために制定されるべきだと述べられている。そのうえで、立法者が遵守すべき「聖なる規則」は三つあるという。

1、 社会の目的は、万人の幸福である。

2、 すべての人間は、生まれながらにして自由で権利において平等であり、そうでなくなることは許されない。

3、 主権そのものの原理は国民に属し、あらゆる権力は国民に由来し、そこからしか生まれえない。

 続いて示される行動原理を含め、ロベスピエールがここで従うべきだと訴えているのは、まさに人権宣言の諸原理だった(第1規則は人権宣言ではなく93年の憲法に反映されるものだが)。そこで謳われた人間の《平等》は、ロベスピエールの信念であっても革命の信念ではなくなっていたのである。彼は田舎の友人への手紙(11月9日)でも、〈二つの国民〉は憲法(案)の最悪の部分をなしていると書き、12月23日の議会ではプロテスタントやユダヤ教徒にも平等な市民権を要求した。ただ、女性の「政治的」権利について積極的に主張することはなかった。

 年が明けても、市町村のあり方に関する議論は続いた。1月25日の演説でロベスピエールはアルトワ州選出の議員として、同州やその周辺では―地主に納められる貢租のために―直接税はほとんど支払われておらず、「能動」国民になりうる人民がきわめて少数であることに懸念を表明した。その点で、封建制を完全に廃止し、少なくとも全国に一律の税制システムが確立されるまで、〈二つの国民〉に関する措置は凍結されるべきだと主張したのである。

 また、封建制=不平等の問題が未解決だったために各地で頻発する農民反乱の処理をめぐって、議会は紛糾した。これに対して、南部やブルターニュ地方などに軍隊を送り込む戒厳令という荒療治が提案されるが、これにもロベスピエールは中央の執行権力を行使する前に地方自治体、そして議会があらゆる措置を講じるべきだと主張、非暴力的な手段によって反乱を鎮静化させる〈和解〉の必要を強調した。「人間に対して軍事力を行使することは、それが絶対に不可欠でない場合、犯罪である」。

 「人民は長い圧政から突如解放され」たため、「みずからの不幸の記憶のために道を踏み外した人々は(しん)からの犯罪者ではないことを忘れないでいただきたい」。ロベスピエールがそう訴えたのは、「人民の自由の敵」たちがこの機会を利用して〈民衆=人民〉の運動をすべて鎮圧すべき「暴動」として排除するのではないかという猜疑心からだった。

 1790年6月19日、議会は世襲貴族制を廃止した。それに合わせてロベスピエールも、通常貴族や爵位を表す接頭辞の「ド」をつけて署名することをやめた。本連載では省略してきたが、出生証明書にも記載があった「ド・ロベスピエール」は彼の一族が代々受け継いできた姓である。それは貴族とは無関係だったが、それと混同されることを避ける意図があったのだろう。この「改名」も、彼の決意の表れと見ることもできよう。

ジャコバン・クラブ

 あくまで人権宣言の原理に忠実たらんとするロベスピエールからは、保守化する議員ばかりかアラスの支持者たちも離反し始めるが、その一方で彼が親密な関係を築き、議員活動の拠点とするようになったのが、ジャコバン・クラブである。

サン=トノレ通りにあったジャコバン・クラブ

 1789年10月19日、サン=トノレ街のジャコバン(=ドミニコ会)修道院の建物に設立された「憲法友の会」は、のちにジャコバン・クラブという名で知られるようになる。ロベスピエールがヴェルサイユに来てから出入りしていたあのブルトン・クラブの後身だが、(立憲)君主派に対する革命派(=愛国者)の拠点となった。翌月以降、ロベスピエールも議会演説の予行演習の場として同会を利用するようになる。それは、彼の「育ちの悪さ」を指摘したスタール夫人らが形成した上流階級のサロンのような洗練された作法(マナー)を必要としない、それとは異質な空間だった。

 90年3月後半からの一時期、ロベスピエールはジャコバン・クラブの会長を務めた。全国的な通信網を維持するために書簡を送ることに加えて、彼は自身の演説の写しをそれに同封した。それもあって、毎日のように全国から、特に女性たちからファンレターが届き、なかには彼に心酔したある侯爵の令嬢の書簡もあった。もちろん、熱狂したのは女性だけではない。のちに盟友となる人物、当時国民衛兵中佐だったサン=ジュストもその一人だ。サン=ジュストはロベスピエールに次のような熱狂的な手紙を送っている。

 

専制と陰謀の激発に、よろめきながら立ち向かっているこの国を支えるあなた、ちょうど数々の奇蹟を通して神を知るように、私はあなたのことを知っています(マクフィー『ロベスピエール』から重引)。

 

 他方で、王党派や聖職者の新聞を中心に多くのメディアからロベスピエールは批判を浴びせられた。こうして形成される敵対関係が助長されるなか、彼は田舎の友人への手紙(3月25日)で検閲を心配してもいる。それを一種のパラノイア(妄想)だと断じる伝記作家もいるが、ますます神経質になっていたのは確かだろう。4月の国民議会での演説で国民の区別はスキャンダルだと改めて熱弁するが、5・6月は心身ともに疲弊し、ジャコバン・クラブで演説を時々しただけだった。

 10月23日、今度はエコノミストのピエール=ルイ・ロデレール(1754–1835年)が納税の議論で、国民議会は「能動」国民の資格を得る納税の条件を決定すべきだと主張、生きるのにやっとの給料の人間は問題外で、彼らには社会の奉仕は不可能だと喝破した。これに再びロベスピエールが立ち上がった。「もはや市民ではないという境界を設定する権限は誰にもなく、立法者にもない。人間は生まれながらにして市民である」。これを新聞『人民の友』は次のように伝えた。「ロベスピエール氏、偉大な原理を教えているように見える唯一の議員、おそらく国民議会に席を持つ唯一の真の愛国者は、そのような不正義を激しく攻撃したのだ」。

 さらに12月5日夜、国民議会で可決した法案をめぐってジャコバン・クラブで激しい論争が繰り広げられた。国民衛兵から「受動」国民を排除するという同案に対して、ロベスピエールは「能動であれ非能動であれ、すべての市民には国民衛兵に加入する権利がある」と主張したのである。これに対して、当時同クラブの議長だったミラボーは、同案を批判することは誰にも許されないと言って、その場を収めたが、それはジャコバン・クラブ内にもあった対立を顕在化させることになった。そのときすでに疎遠になっていた両雄の間に信頼関係はなくなっていた。ミラボーは多忙を極め、目に見えて衰弱していったという。

クラブ内の会合、演説するミラボー(1791年)

 実際、〈二つの国民〉をめぐる論争は議会そして国民の中に軋轢を生み、革命の帰趨を占う争点となっていた。少なくともロベスピエールは重大な局面だと信じたに違いない。このとき78ページに及ぶ冊子『国民衛兵の組織に関する演説』を刊行し、広く世論に訴える手段に出たのである。そこで、同案を支持する議員を〈敵〉と認定するとともに、〈われわれ〉人民との二項対立図式を描いてみせたのだ。

 

 人間性、正義、道徳。ここにこそ政治があり、立法者の叡智がある。それ以外のものはすべて偏見、無知、陰謀、悪意でしかない。このような有害な体系の信奉者は、人民を中傷し、己の支配者を冒涜するのをやめよ。…不正義で汚れているのはあなた方である。…善良で我慢強く高潔なのは人民なのだ。われわれの革命、その敵の犯罪が、そのことを証明しているではないか。

 

 この後、ロベスピエールのなかで〈人民=民衆〉への信頼は高まる一方、大部分の同僚議員に対する不信が募ってゆく。そして、それを決定的なものにする事件が起こる。

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 はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
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手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか―手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。

「考える人」編集長
金寿煥

著者プロフィール

高山裕二

明治大学政治経済学部准教授。博士(政治学)。専攻は政治学・政治思想史。著書に『トクヴィルの憂鬱』(白水社、サントリー学芸賞受賞)、共著に『社会統合と宗教的なもの 十九世紀フランスの経験』(白水社)、『近代の変容(岩波講座 政治哲学 第3巻)』(岩波書店)などがある。

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