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土俗のグルメ

2023年1月27日 土俗のグルメ

第2回 「10分どん兵衛」の誕生

著者: マキタスポーツ

哀しい能力

 子どもの頃から「人の言うことを聞く」のが苦手だった。これは決して自慢出来ることではない。「だから今がある」という成功譚をひけらかすつもりもない。しかも私は成功などしていない。むしろ、未だ拭えぬコンプレックスである。だって、人の話がわからないのだから。

 伝えようとしていることが額面通り伝わるという前提で世の中は出来ているし、作られている。「話の通じる相手」をより多く作ることが、あらゆる事象に必須だろう。だから義務教育がある。それはわかる。でも私のようなある種の“哀しい能力”を持っていると、そちらの世界のスタンダードから外れてしまっていることに疎外感を覚える。

 こんな私だが、人の話がわかる時もある。しかしそれは、自身で勝手に理路をこしらえて腑に落ちるパターンがほとんどだ。“哀しい能力”の使い道は、「己の必然」にしか発揮されない。例えば、セックスしたい→異性と話せるようになろう→そのためには面白くなろう→面白くなるためには…というような理路を作り上げて、そのために必要な智慧を得ていく。

 そうした深刻な“必然”は、食にこそあらわれる。

 「腹が減った→なるべく美味しく何かをいただきたい」である。とにかくこれをなんとかしなくてはいけない。

 なんと恥ずかしい「己の必然」だろうか。しかし、そうすることでしか積極的に智慧を得ようとした記憶がないのだから仕方ない。体験する、つまり己の身体を使って、ようやく智慧を得ていくのである。

 食についても、普通は本やネットでレシピを探して読むなどして、料理の智慧を獲得していくのだろう。しかし「人の話がわからない」という“哀しい能力”の持ち主である私は、一般化されたストーリーから智慧を得ることができない。しかし、多くの人が納得する合理的なストーリーをそのまま受け入れることが出来ない一方で、別の部分を凝視していたり、ぼんやりと全体を俯瞰したりする。というか、それしか出来ない時がままある。それで案外本質を掴めてしまうことがあるのだ。そんな“哀しい能力”の果てに辿り着いたのが、「10分どん兵衛」である。

「10分どん兵衛」とは?

 それは、2014〜15年にかけてネットを中心に起こった珍ブームであった。その発火点は私である。ラジオで何気なく「どん兵衛は10分ぐらいかけてふやかすと美味しい」と言ったことがきっかけだった。それが瞬く間にバズり、ついには回りまわって人から「『10分どん兵衛』って知ってる?」と聞かれるまでになった。挙句、どん兵衛の売上も急増。発売元である日清食品が公式に「そんな方法は知りませんでした」と謝罪広告(冗談広告)を打つに至り、それが評価され、カンヌのCM賞(「カンヌライオンズ2016 PR部門ブロンズ」)まで受賞した。

「どん兵衛 公式」twitterアカウント2015年12月18日の投稿より

 驚いた。何故なら、私は何もそうした現象を期待して、考え抜いた企画ではなかったからだ。誰の影響でもなく、ただパッケージに書かれた「熱湯5分」という“人の話”を聞かなかった結果なのだから。

 この発明には様々な議論や論争が未だくすぶっている。曰く、「マキタが考えたように言っているが、それは違う。そんなもの前から俺はやっていた」とか「最初にそれを言ったのはオダギリジョーだ」とか「レンジでチンするどん兵衛の方が美味い」など色々だ。それを見るだに少し安心する。私に付与されてしまった名誉のようなものを引き剥がそうとしているのかもしれないが、全国には私と同じような“人の話を聞けない人”が多くいたことに感動するのだ。だって、本当かどうか知らないが、オダギリジョーだって同類かもしれないのだから。

 その中で一番傷つくのは、「やっぱり書かれてある通り5分が良い」という意見だ。「きちんと人の話を聞けることこそが正しい」と言われたような気がして哀しくなる。

誕生の背景

 「10分どん兵衛」が生まれた背景には哀しい過去がある。

 時はバブル真っ只中の1988年。大学入学のために山梨から上京した私を待っていたのは、惨めな貧乏暮らしだった。かつては景気の良かった実家の稼業は傾いていたので、仕送りまでは援助してもらえない。当座食うには困らないようにと、母親がいっぱいに食料品を入れたダンボール箱を持たされての上京だった。「こんなもん…」と、ツッパって親の愛情を踏みにじったのも束の間、大学生活に馴染めず、5月にきちんと五月病になった。

 バイトはおろか、銭湯に行くのも、外に出ることすら嫌だった。飢えて、夜中に穴蔵のような下宿から這い出し、コンビニの廃棄弁当を漁ったり、パン屋のバックヤードにあったサンドイッチの耳屑をもらって来たりしたこともあった。

 それも窮まって、ある日のこと、母親に持たされたダンボール箱を開けると、中にあったのが袋麺だった。

 私はこれをなんとか(かさ)増しして食べようと考えた。当然、その方法は袋麺の裏側には書かれてはいない。実際、規定以上に茹で時間を延ばすと、麺がふくよかに太った感じになる。麺が水分を吸い上げ、中年の体のように少々だらしなくなるのだ。さらに、浸透圧で揚げ麺の小麦成分が溶け出し、いつも以上に汁が濁る。透明度が瀬戸内海の赤潮のように悪くなる頃が食べ頃だ。

 最初の頃は騙し騙し「1分、いや、足りない。5分、いや、もっといける。10分だ、うーんまだまだ行くぞ!」。そんなトライ&エラーを繰り返した。   

 「硬麺こそが至上」という向きには、こんな不埒なこともないだろう。腹を満たすためにそこまでするとは、なんて卑しい奴だと思うだろう。確かに止むに止まれぬ事情がそこにはあった。しかし、私はそんな哀れな事情の中でも、「美味しくあろう」という前のめりな気持ちを持って試行錯誤を繰り返した。

 ある時は、水溶き片栗粉でトロミをつけ、伸びた麺もろとも汁の全てをいただききり、またある時は、古くなった牛乳とカットチーズを細かく刻んで入れ、ふやけてエイジングされた麺をいただいたこともあった。あるいは、近くの雑草を摘んで来て、じゃがいもと味噌で煮込み、既成のスープとブレンドしていただいたところ、「む!? これはほうとうか!?」と驚嘆したこともあった。

 誰に相談するでもなく、公式がガイドする方法にも頼らず、自分なりの脱法的方法で“そこ”に辿り着いた。後ろ向きでなく、前向きに倒れる兵士のように戦ったのだ。全ては“人の言うことを聞けなかったから”である。

 その後、経済的に余裕ができてからも、嵩増しをするクセだけは残った。その延長線上に「10分どん兵衛」がある。これを「土俗のグルメ」と呼ばずしてなんと言おうか。

「ライスハック」―切実な欲望処理

 「思春期に性欲とどう向き合ったか?」という問いは深淵なものだ。

 昨今の性欲処理の健全化と合理化には目を見張るものがある。“セルフプレジャー”という呼び名まで飛び出し、皆明るくそれらを「在るもの」と認定した上で共有していこうという時代になっている。随分と性は明るくなったものだ。歓迎すべきである。しかし、それだけ“変なもの”はなくなっていくだろう。我々の青春期はその性の深刻さを誰とも共有せず、独自の解消法を編み出した“ファンタジスタ”がいたものだ。いくつか紹介しよう。

1.忍者が手裏剣を飛ばす要領でする者
2.原始人が火を(おこ)す要領でそのモノを捻り回す者
3.浴槽の四隅に手足をかけ、器用に水面にその部位のみを浸す者
4.絶頂時にベッドから飛び降りないとした気がしない者etc.

 みな他人と共有するのではなく、「彷徨(さまよ)い人」として、暗がりの中、“そこ(快い)”に辿り着いてしまった孤独な旅人じゃないだろうか。「快い」に辿り着くことが目的で、常軌を逸した方法は、そのための手段だった。エクストリームであることを目指したわけじゃないのである。「ロックンロールは目的で、手段じゃない」と喝破した甲本ヒロトと同様だ。

 音楽や、美術にも、そういったアウトサイドアートのような、人の話を聞けなかった“止むに止まれぬ作品”はある。そのようなエクストリームな孤独から生まれたものを、みな死後評価するが、それらは“哀しい能力”の産物だと思う。繰り返すが、「10分どん兵衛」はマーケティングとか、バズらせようとかスマートに考えたものじゃなかったということは理解されたい。切実な欲望がその智慧を呼び込んだのだ。

 このような独自の食の合理化を、私は「ライスハック」と呼ぶ。発生までのプロセスは一見不合理。しかし、それがあればゴキゲン。己が独自に編み出した“食のゴキゲン”の話、それはまた次回に!

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考える人とはとは

 はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
どうして自分が「考える人」なんだろう―。
手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか―手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。

「考える人」編集長
金寿煥

著者プロフィール

マキタスポーツ

1970年生まれ。山梨県出身。芸人、ミュージシャン、俳優、文筆家など、他に類型のないエンターテインメントを追求し、芸人の枠を超えた活動を行う。俳優として、映画『苦役列車』で第55回ブルーリボン賞新人賞、第22回東スポ映画大賞新人賞をダブル受賞。著書に『決定版 一億総ツッコミ時代』(講談社文庫)、『すべてのJ-POPはパクリである』(扶桑社文庫)、『越境芸人』(東京ニュース通信社)など。近刊に自伝的小説『雌伏三十年』(文藝春秋)がある。

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