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土俗のグルメ

2023年2月25日 土俗のグルメ

第4回 土俗のカレー観

著者: マキタスポーツ

 「カレーにこだわりがある人には、DV癖がある…」

 友人(女性)は虚ろな目でそんな言葉をサラッと言った。「で、最後は謝ってきて、やり直させてくれ、って言う、そしてまたカレーで仲直り…」。

 世間一般のことは知らない。その人は、自分の過去にそういった経験があったことから決めつけてそう言うのだが、私はその瞬間「ウッ」となった。断じて言うが、私には“その癖”はない。ただ、そのこじつけの考察を咄嗟に「鋭い」と感じた。カレーについて考えることは愉悦ではある、でもカレーと絡むと人は面倒臭い人間になりがちだ。

カレーと悪

 “朝食バイキングあるある”のひとつに「カレーの悲劇」がある。別の食べ物を取ろうとしていたにもかかわらず、カレーの匂いを嗅いだ途端、思わずプランの変更を余儀なくされ、結果、満腹となり、その一回のバイキングを台無しにすることだ。そもそもカレーの獰猛なオフェンス力を把握した上で、きっちりディフェンスをしなければいけないのに、ぼんやりと回遊しようとするからそんなことになる。カーナビの設定も無しに目的地に辿り着けるわけがない。

 しかし逆説的に言えば、それほどまでに人を狂わせるのがカレーということでもある。方向感覚を鈍らせ、俯瞰的な視点を奪い、主観的にしかものを見られなくさせるのがカレーの魅力。一言で言えば、それは「悪」の魅力だ。

 子どもの頃見ていたアニメによく登場した「悪」。やたら「地球征服」を唱えるのだが、あれはなんだったのだろう? 何ゆえ、ああも征服したがるのか、根拠がいまいちわからない。百歩譲って征服するのはいい、別に良かぁないが、征服したあとにどうするのかがわからない。征服して、その後の世界に付いていくと、どんなことが待っているのか。案外パラダイスだったりするのか? それともやはり辛く厳しい世界なのか? おそらく後者のイメージがあるゆえ、「そうさせてなるものか!」と防衛側は正義の鉄槌を下し、その悪者を追っ払おうとする。説明も曖昧に「そういうこと(・・・・・・)になって(・・・・)()()」から、なんとなく納得したような気にさせられていたし、「防衛側はいつも正しい!」と思わされてきたが、一体何を争っていたのだ、奴らは…。

 ある時にふと思った。ひょっとして「悪」って「ビジネス」のこと? 「征服」って「シェア率」のこと? と。自分の考えたルールで自分に金が入る仕組みって「悪」なんじゃないか? そう考えると、最近のイーロン・マスクや、古くはビル・ゲイツあたりはみんな「悪」であり、その新たなルールによって世界を征服したとは言えまいか。

まるでカレーじゃないか!

 「悪」の特徴として、世に登場した当初は違和感しかないが、最終的には馴染み出すことが挙げられる。ウイルスのようなもので、弱毒化して共生化を始める。あるいは、毒舌タレントもその過程で、存在自体が空気化し、嫌悪感がやがて好感度へと変質する。その意味ではかつてのタモリもビートたけしも「悪」だった。すなわち、タモリもたけしも「カレー」なのである(そういえば、二人ともカレーには縁がある)。

 資本主義社会から見れば共産主義社会は「悪」だし、北朝鮮から見た日本は「悪」でしかない。何が「悪」かは、それを語る主たる側からのご都合でしかないのだ。それまでの「悪」が「悪」でなくなっていく…。私がカレーに感じる魅力もそのような「悪性」なのである。

 あのスパイスのシェア力はどうだ。「空腹」というマーケットを一瞬にして占拠してしまう。しかも医食同源的で、「食べながら治す」という中長期的視野は、コスパも良い。さらに最初は刺々しく感じたスパイス感も、煮込むほどに馴染み、2日目にはちょうど良くまろやかになるのだ。ホリエモンだって、激しく世間から嫌われた時期もあったが、今や誰もなんとも思わなくなった。その意味ではホリエモンもカレーなのである。

 論理が飛躍していることはわかっている、でも、カレーが私をそうさせている。カレーが私を乗っ取り操縦しているのだからしょうがない。カレーは理屈じゃない。理屈を超えたところに存在している。しかもその本質を掴ませないカレーは、つくづく「悪」だ。そう思わないだろうか?

「カレー的な何か」

 “悪い男の危険な匂い”なんて表現がある。ピカレスクロマン(悪漢小説)にグッときてしまうように、我々は「悪」を悪として身体から切り離すことができない。それはおそらく身体的なもので、また、先に説明したように、その価値は絶対的なものでもなく、いつも動的平衡を保っている。「カレー味」はどんなスパイス的調合がエンジニアリングされていようと、いつだって大まかに「カレー味」で、しかも圧倒的だ。それを嗅いだら、もう身体が持って行かれてしまう。抗うことが極めて難しい、得体の知れない何かなのだ。

 驚くのが、それが毎日食べられている世界線もあるということ。自分で言っておいてなんだが、インドでカレーが「悪」なわけがない。

 カレー好きたちのハイ・コンテクストな言い草に「カレーは味噌汁である」というものがある。私もまさにそれは思うところで、日本人にとって味噌汁が「悪」なわけがない。季節の物や地の物を取り込み、調理され、やがて身体へと侵入して、我々にあまつさえ「生きている!」と実感させる。そんなものが「カレー的な何か」である。しかし、「カレー的な何か」を超える「カレー」を私は未だ知らない。そのぐらいカレーはカレーであり、カレーでしかない。そんなもの他にあるか? と私は言いたい。

 水滴が水面に落ちて波紋が広がるように、カレーを身体に摂取すると、やがて肢体の隅々に毛細状に張り巡らされた命の光が点灯し出す。それまでの私は「無」であり、何故生きているのかも不明で、それでいて、その生命活動を止める理由もわからずにいる。でもそれが身体に入ってきた瞬間に点る力。そして、胃腸による消化活動の果てにアウトプット(・・・・・・)されたものの色味は、摂取したものと同じ色味だったりする。「私」という存在はただの筒型生物だ。カレーを食う度に、「自分」などという存在は実に怪しいものだと考える。色即是空ならぬ“色即是食う(・・・・・)”か。否、もう締めよう。

おせちもいいけど

 冒頭の友人の言う「カレーとDV」との因果関係はわからない。少なくとも、カレーが私をこれだけ面倒臭い思考に陥らせてしまうのはおわかりいただけたと思う。同じ服を何枚も持っていて、部屋の調度品にこだわりが強く、断捨離好きで、いじる対象を見つけるのが異様に早い人間の作るカレーは美味い、ということはほぼ間違いないと思う。

 最後に日本のカレーは凄いという話も書いておこう。

 いわゆる「ルー」は本当に凄いもので、仕上げにルーを入れるだけで平均点以上が出せるのだから、日本のカレー偏差値は高いと見ていい。特別な技術を持たずとも、皆均質に可愛く撮れるカメラアプリみたいなものである。

 昨今のスパイスカレー・ブームは、その揺り戻しで、多様化への希求だ。スパイスカレーのキットで作るカレーも、自然と触れ合う気分になるキャンプ・ブームも、都会化し、均質化したことへの反動という意味では同根の現象である。

 どちらも“ホンモノ”のそれとは違い、「ルー」のバリエーションのひとつでしかない。かつて、林間学校の飯ごう炊飯でカレーを作ったものだが、まちまちな火力のせいで具材の火の通りが甘かったり、水を入れすぎたことでシャバシャバになってしまったりしていたことが懐かしい。でも、それとて、ルーのおかげでなんとかカレーになっていたわけで、「決定的なダメ」をなるべく減らす日本の学校教育と相性が良かったのは言うまでもない。

 言葉に訓読みと中国由来の音読み、外来語があり、クリスマスやヴァレンタイン・デーといった外国由来の文化的・宗教的行事も、この日本というフロアでは全てが矛盾なく存在しているように、カレーも日本風の「煮込み料理」として融合してしまう。土着的手クセに落とし込んでしまえば、それも日本料理と考える。それをさらに効率化してしまう、あの「ルー」というものに私はちょっと感動するのである。

 今この原稿を大晦日の紅白歌合戦の録画を見ながら書いている。J-POPもK-POPも演歌も何もかも「宴会」的な磁場に引きずり降ろしてしまう紅白。この「あゝどうしようもなく日本だ…」という現象を目の当たりにして、「諸法無我」を観じてしまうのも実にカレー的ではないだろうか。そんなことを考えていたら、もう口がカレーになってきた。で、正月からルーを入れた「日本カレー」を食べた。別にホンモノじゃなくても美味い。

 色々うるさいことを言って“すまなかった”。カレーについてはまた日を改めて

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考える人とはとは

 はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
どうして自分が「考える人」なんだろう―。
手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか―手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。

「考える人」編集長
金寿煥

著者プロフィール

マキタスポーツ

1970年生まれ。山梨県出身。芸人、ミュージシャン、俳優、文筆家など、他に類型のないエンターテインメントを追求し、芸人の枠を超えた活動を行う。俳優として、映画『苦役列車』で第55回ブルーリボン賞新人賞、第22回東スポ映画大賞新人賞をダブル受賞。著書に『決定版 一億総ツッコミ時代』(講談社文庫)、『すべてのJ-POPはパクリである』(扶桑社文庫)、『越境芸人』(東京ニュース通信社)など。近刊に自伝的小説『雌伏三十年』(文藝春秋)がある。

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