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土俗のグルメ

2023年3月24日 土俗のグルメ

第6回 「納豆チャーハン」の最適解

著者: マキタスポーツ

手強いぞ、納豆は

 「納豆チャーハン」について明確な「答え」を知ってる人を私は知らない。あるいは「知っている」と言い張る向きもあろうが、私は「あー、思考をやめたのだな」と訝しく思う。

 今回は「納豆チャーハン」という、各論から展開する。この連載では、私の独特な食癖を総論として書いてきたが、そんな理屈より、もっと瑣末なポイントから全体を見渡すような取り組みが出来ないかと考えてみたのである。

 そもそも「納豆」は手強い。その昔は西日本ではあまり食べられる習慣がなく、「好き」「嫌い」の面のみで語られることが多い食品だった。それが今や全国ほぼ満遍なくいただける健康食品として、国民の胃袋のベースを担うポジションについている。だが、そのポジションを確保してから、まだ日が浅い。本来はもうとっくに“ナショナルフード”であって、皆もなんとなくそう認知しているはずなのだが、なんと言おうか、“あまり考えてもらっていない食べ物”の代表格ではないかと思うのである。

 「あの子はしっかり者だから、全然手がかからない」

 と言われて育ってきた人間の苦しみを想像してみたことがあるだろうか? 大家族の中で、いつの間にかそうなってしまっているポジションに周りが甘えて、まともに考えてもらっていない兄弟、まるで大家族の中の“四番目感”、そのようなものを納豆には感じてしまうのだ。

 特にナショナルフードにその傾向がある。長男の「米飯」を皮切りに、「寿司」「天ぷら」「味噌汁」「うどん」「蕎麦」「梅干し」といった兄弟たち。これに、別のお母さんとの間に出来た「ラーメン姉さん」や「カレー兄さん」なんかも入ってくれば、相当な量だ。その中にあっての「納豆」である。だからいつも「結局、ネギとカラシと鰹節でよーく混ぜたのが一番!」なんて、将来の可能性まで考えてもらえず、「すくすくと育てばいい」で終わってしまう。

「納豆チャーハン」は完成しない

 そんな「納豆」に一筋の光が見えたのが、「納豆チャーハン」である。

 ずっと冷蔵庫でスタンバイしていた日々、来る日も来る日も、飯の上に載せられ、「白飯と合うのは納豆だな〜」と、あくまでメインを引き立てるスーパーサブ的に言われてきた存在。それが「メイン」として同等に扱われるチャンスが巡ってきたわけだ。ところが…これが彼にとっての新たな苦悩の始まりだった。

 私が最初にそれをいただいたのは、確か中学生の頃。作ったお袋は得意げにこう言っていた。

 「私は閃いた! 古くなったご飯と納豆を油で炒めれば良いと!」

 嫌な予感しかしなかった。結果は案の定。それはお互いの良さをぶっ殺しあったものでしかなく、ただただ古くなった物同士がよんどころなく寄り添い合っているような、まるで、誰も望んでいないバンドの復活コンサート的代物だった。

 さらに悲劇だったのは、それでもそこそこ美味しくいただいてしまったことである。納豆問題は宙に浮いたままとなった。

 「納豆チャーハン」以外にも、優れた創作納豆料理はある。それはそうだ、どれも美味いし、よくよく考えられている。納豆に代わってお礼を言いたい、ありがとう。しかし問題は、どちらもメイン級の「飯」と「納豆」を良い形で融合させたものがなかなか見つからないということじゃないだろうか。

 ある時は「あのぬめりが問題なのでは?」と思いついた人が、洗ってぬめりを無くしてから使用するレシピを考案。私は「よく考えたものだな」と感心して、すぐに自分でもやってみることにした。確かに、チャーハンのチャーハンたる部分は損なわれず、融合し合ってはいたが…ダイナミクスが足りないのだった。

 パラパラ感か、それともネバネバ感か、どちらを前傾させるか―それに対する解答として、納豆のダイナミクスを構成する「ネバネバ」を取るという決断を私は否定しない。これはエンジニアリングである。「味響(あじきょう)」をHighとLowに振った位相を作ることで、「味像(あじぞう)」を構成した試みや良しである。この場合は、「ご飯との混ざり」をゴールにして、「豆」と「ネバネバ」とを因数分解していったということじゃないだろうか。その試みや良し。

納豆にまつわる根深い問題

 こんな取り組みをしたことがある。

 一度かき混ぜた納豆を玉にして、冷凍庫に保存。翌日、冷蔵庫でゆっくり解凍したものに片栗粉をまぶし、コロッケの要領で高温で揚げ、それとは別に作った普通のチャーハンの上に載せるという工夫をしてみたことがあった。それなりに美味しかった。でも、食べ終わった後のキッチンを見て愕然とした。飛び散った片栗粉に、はねた油、割れた卵の殻などなど、核戦争後の地球のような荒廃さで、しみじみと「これは違う」と思ったものだ。そこまで手間をかけてどうするのだ。

 また、こういうことも。上物の薬味でこれを突破しようとしてみたのだ。

 洗った納豆を炊飯器に入れて米と一緒に炊き込み、まずは「納豆ピラフ」を作る。そこにどっさり刻んだ薬味、青ネギ、カイワレ大根、ミョウガ、パクチー、青唐辛子などなどを載せてみた。しかし、私は驚いた。

 「炒めてないじゃないか!」

 “炒飯”を指向していたのに、根本の「炒め」を忘れてどうするのか。しかも出来上がった物があたかも“そういうもの”であるかのようなレベルになっていたのだから堪らない。その上美味しい。やれやれ。

 さらに困ったのは、電気釜に付着したあの匂いであった。炊き込んでいた時から、何やら不審な者が中に籠城しているような気配はしていた。たとえるなら、一週間風呂に入っていない探検家が大汗をかいて踊っているような、とでも言おうか、とにかくその後、釜を洗っても匂いがしばらく取れなかった。

 そもそも匂いについての問題は最初からあった。

 「納豆チャーハン」は、火を入れない状態から炒めた時に発生する「匂いの変化」が問題だ。納豆独特のあの素晴らしい発酵臭が、ものぐさな若者の部屋干ししたTシャツというか、そいつが地下アイドルのライブに行った後の靴下というか、その靴下のまま炬燵に足を入れてきたような、そんな匂いへと変質してしまうことが問題だった。

 私はこれを解決しようと、二つの物を投入した。一つはラード、もう一つはキムチである。

 キムチと納豆の相性はよく知られている。今では「キムチ納豆チャーハン」も居酒屋メニューに見られるようになった。要するに、納豆の香りをキムチの香りで覆ってしまおうと、さらに、豚肉の強めで香ばしい香りで二重にコーティングするのである。完璧だ。しかし

 匂い問題は解消したかに見えた。でも、これだとことの本質に向かい合った気がしないのである。美味いと不味いの中間にあったモヤモヤがそのままになっている。私はこれを「スキンヘッドのジレンマ」と呼んでいる。

 「禿頭」を「スキンヘッド」という別カテゴリーにスライドすることで、大事な何かを誤魔化すことと同じと思ってしまったのだ。禿頭を隠すためには、より強い“禿げ”でそれを覆う。つまり「スキンヘッド」という“ヅラ”を被ることで、大事な何かを先送りしているのだと。あたかも内角攻めに苦しんだバッターが左右の打席をスイッチするようにである。右バッターが左打ちにスイッチしたとして、「内角」という苦手意識は本来的には消えないのである。

 日々、胸を痛めるほどではないにせよ、私は適当に悩み続けた。より良い「納豆チャーハン」を作るにはどうすべきかと。より手軽に、これがベスト!ということもなく、でも確実で、簡単で、納豆と飯とが共存し合い、そのどちらもwin-winになるにはどうしたものかと。

到達した現在地

 紆余曲折を経て到達した、今の私の現在地を記しておきたい。 

 豚バラをカリカリになるまで炒める。ここでたっぷりとラードをこさえる。ローストした豚バラを別皿に取っておく。次に、卵黄と卵白を分け、先に卵白を炒め、温めた飯と溶けるチーズを入れて焼飯を作る。他、調味類は普通のチャーハンと同様で良い。最後に取り分けておいた豚バラを焼飯に混ぜる。同時にネギ入り納豆と胡麻油少々を香りづけに入れて混ぜておく。そして、盛り付け。皿に焼飯を盛ったら、納豆と取っておいた卵黄を中央に乗せ、焼き海苔をパラパラと撒く。完成である。

 中央の卵黄と納豆を崩しながら、焼飯とを混ぜつついただく。納豆を一緒に炒めることで出る臭みは大分軽減され、新鮮なネギの食感、遅れてやってくる胡麻油の香ばしさが豚焼飯をもっと引き立てる。納豆本来の美味さも損なわれず、飯のふくよかさも担保されたままだ。どうだろう、これが私の納豆チャーハンの現在地である。

 でも…これも何やら違う気がしてきている。そんなことを考えながら私は今ドライ納豆を食べつつ、「む? これは使えるかも…」と思索するのだ。きっとまだ先があるはずと。納豆チャーハンは終わらない、否、終わらせてなるものかである。

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 はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
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それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。

「考える人」編集長
金寿煥

著者プロフィール

マキタスポーツ

1970年生まれ。山梨県出身。芸人、ミュージシャン、俳優、文筆家など、他に類型のないエンターテインメントを追求し、芸人の枠を超えた活動を行う。俳優として、映画『苦役列車』で第55回ブルーリボン賞新人賞、第22回東スポ映画大賞新人賞をダブル受賞。著書に『決定版 一億総ツッコミ時代』(講談社文庫)、『すべてのJ-POPはパクリである』(扶桑社文庫)、『越境芸人』(東京ニュース通信社)など。近刊に自伝的小説『雌伏三十年』(文藝春秋)がある。

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