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村井さんちの生活

 昨年10月下旬、兄が宮城県多賀城市内のアパートで孤独死した。病死だった。宮城県塩釜警察署から連絡を受けたのは、夜遅くのことで、そろそろ寝ようとベッドに入った直後だった。「村井理子さんの携帯電話でしょうか?」と、静かな男性の声。私を極力驚かせないように、気を遣っていることがわかった。こんな時間に、こんな深刻な声でかかってくる電話が朗報なわけはなく、私が知っている誰かが、どこかで、何かをしてしまったか、あるいは突然亡くなったかどちらかだと直感した。

 私が本人だと応えると、電話の向こうの男性は呼吸を整えるようにして一瞬沈黙し、静かな声で「実はお兄様が本日多賀城市内でご遺体となって発見されました」と一気に言った。ここからの怒涛の5日間については『兄の(しま)』に書いた。

 兄と最後に直接話をしたのは、確か数年前のことだった。兄は、子育てに苦労していること、仕事がなくて生活が厳しいこと、体調がよくないことを、いつものように一方的にまくし立てるようにして話していた記憶がある。私は、いつも通り、あまり感情も込めずに「とにかく体を大切に。仕事も頑張って下さい。息子のために、踏ん張って」と兄を諭したはずだ。兄は私からそう言われると一応は安心するようで、最後はいつも「じゃあ、がんばるわ」と電話を切る人だった。ここしばらくは、ケータイのメッセージで必要最低限の連絡をしていた。しかし夏以降、兄は私のメールになかなか反応しないようになっていた。私が保証人となっていた多賀城市内の賃貸アパートの家賃を、兄が数ヶ月にわたって滞納し、管理会社から私に連絡が入るようになり、私が兄を責めていたからだ。

 私と兄の関係が、幼少期からこれまでの間ずっと悪かったかというと、そうではない。5歳上の兄は私をとてもかわいがっていた。しかし、私が小学校の高学年になったころ、兄が高校を中退したのをきっかけとして、父と兄の関係が悪化した。ほどなくして兄は家を出た。そのあたりから、姿を見るたびに荒れていく兄を私は敬遠し、避けるようになった。兄は私を見れば声をかけてきたが、私はそれが嫌でたまらなかった。表情に出さないようには気をつけていたが、兄はそんな私の気持ちに気づいていたはずだ。なんとなく、会っても話をしなくなった。父が亡くなり、お互い成人すると、連絡を取ることはよりいっそう少なくなった。それでも、私が結婚したとき、誰よりも喜んだのは兄だった。子どもが生まれると、何度も電話をかけてきて、写真を送ってくれとせがまれた。

 しかし、ここ数年、特に母が亡くなってから、私は兄を避けるようにして暮らしてきた。離婚し、生活に困窮しはじめ、同時に大病をした兄から、ことある毎に借金の申し出があったからだった。もちろん、それに応えようとした時期もあった。しかし、それまでの兄の生き方を考えれば、兄の要求に応えることは、私までもが泥沼に引きずり込まれるようなことだと私にはよくわかっていた。だから、私は兄から連絡が入っても、形だけの返信をし、ある時は返信さえせず、兄の存在自体を心の中から追い出していた。忘れた頃にかかってくる長電話には、一応は応えていたが、何かと理由をつけては電話を切っていた。

 兄を迎えに塩釜署に出向き、荼毘に付し、アパートの片付けをした。兄が数年間暮らした部屋には、大量の家財道具だけではなく、兄のすべてが詰まっていた。妹の私でさえ兄を、大酒飲みで、迷惑ばかりかける中年男だと思っていたのだが、私が兄の部屋で目撃したのは、子どものために必死に生きていたひとりの男性の、葛藤そのものだった。見渡す限り物に溢れた部屋のなかのすべてが、兄が地を這うように暮らしていた証だった。壁一面に貼られた仕事先の担当者の名刺、死ぬ数日前まで×がつけられたカレンダー、鴨居にかけられた警備員の制服。私はそのひとつひとつを手に取り、兄を思い、その苦しみを想像し、ごみ袋に入れていった。兄の元妻の加奈子ちゃんと一緒に、兄の人生を終わらせてきた。

 今でも兄が死んだことを信じられないでいる。斎場で火葬し、アパートを引き払っても、まだ兄がどこかで、あの大きな体に似合わない警備員の制服を着て、道路に立っているような気がしてならない。

兄の終い

村井理子

2020/3/31発売

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考える人とはとは

 はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
どうして自分が「考える人」なんだろう―。
手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか―手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。

「考える人」編集長
金寿煥


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