「そこは戦場だ!」
「バーベキューは恥ずかしい」
それが私の経験に基づいた実感なのだが、世間一般では「バーベキューをきちんとこなせてこそ一人前」という評価軸があるのもまた事実。
世間のイメージはそれとして、バーベキューほど“結果”より“手段”が問われるものはないと思っている。環境設定から準備に至るまで、その一挙一動や振る舞い、仕草の全てが評価の対象となる。非常に恐ろしい“通過儀礼的”な場でもあるのだ。そのことを知らないまま無邪気にその場ではしゃいでいる人たちを見ると、不安になる。中には明らかにバーベキューに向いてない者が未だにいるのだ。信じられない。
その様子を目撃しようものならば、
「危ない! そこは戦場だ!」
そう叫び、むんずとその者の腕を掴んで防空壕へと連れ込みたくなるが、そいつはなおも呑気に海パン一丁で「ヤキソバ、美味しいね〜」とか言っている。
「おまえ! それはもう美味しくなくなっている“焦げソバ”だぞ!」
時すでに遅し、である。
しかしだからこそ、人を試す良い機会となる。例えば、娘に彼氏が出来たとしたら、私ならバーベキューに連れて行くだろう。または娘に、バーベキューでのそやつの振る舞いを見ろと言う。その様子を見たり聞いたりして、「うむ、よかろう」などと言うのだ。
あゝ……、だから「バーベキューは恥ずかしい」と言うのである。
政治的なバーベキュー
焦げてしまった、本来は不味いヤキソバでさえも、「美味い」と思ってしまうような、あるいは思わされてしまうような、そんな不思議な磁力がバーベキューの現場にはある。
普段は真面目で、人の話をよく聞くきちんとした大人が、バランスを崩し、それでもまだ「自分は大丈夫だ」と錯覚してしまう――私はそんなバーベキューを「政」のようだと考えている。否、バーベキューの現場をあたかも「集票のためのアピールの場」と考え、その場を政治利用しようと企む奴らがいるのだ。そいつらに気をつけなくてはいけない。
奴らはもう買い出しの段階から政治的に動いている。自分の支配下(支援者&ボランティアスタッフ)に置くことができそうなお人好しを、その段階から選別しているのだ。
「仕切り魔」とも呼ばれる彼らは、自分のポジションを最優先しながら、自分にとって理想的な展開を目論んでいる。やれ「水はこのぐらい必要だ」とか、「肉は外国産でいい」「女性や子どものためにスイーツだ」だの、やたらうるさい。気をつけろ、有能な昭和の政治家ほど「個人の悪徳は公共の利益」とばかりに、ちゃっかり私腹を肥やすことを忘れてなかったようにである。それは「みんなのため」を装った労働力の搾取だ。それが証拠に、気づくと奴らにいいように扱き使われているはずだ。
テントの設置場所から道具や器具の準備、料理の段取りまで、バーベキューにおける「インフラ」を瞬く間に設計し、指示を出す。こちらは言われるがまま手を動かし足を使い、奴らのために貢献しているのである。あゝ、恥ずかしい。
さらに言えば、その者は大概にして声が大きい。
「だから言ったじゃないか、肉はそんなに食えないんだよ……」
と、経験の豊富さをアピールしつつ、さも説得力があるように諭すのである。こちらが「肉だ! 肉だ!」とはしゃいだ刹那、そういう一言を宣う。
思い出すのは買い出しの時だ。肉のハナマサあたりで、カゴにどっさり肉を買い込んでいたシーン……。この時、すでに「政治」は始まっていたのだ。
「俺はバゲットを焼いて、それとサラダ、最後にはビーフシチューってコースで考えているから」
気づけば、件の「バーベキュー・マスター」はサラッとそんなことを言い放ち、民衆からの喝采を浴びている。おまけに「外国産の肉を焼いてちょっとつまんだら、俺が“個人的に買ってきた和牛”でシチューを作るから」みたいなことをサプライズ的に言うのである。
もちろんこれはたとえ話だ。が、こうやって“バーベキュー強者”は巧みに人心掌握していくことを忘れてはいけない。よ〜く見て欲しい、彼らはまめに動いているようで大して動いてはいない。舌先三寸で体良く“バーベキュー弱者”を作り出し、働かせているだけなのだ。
バーベキューからの逃走
若干妄想的ではあるが、「バーベキュー」という行為にまつわる権力構造を紐解いてみた。本来、自主的かつ能動的な行為であるはずのバーベキューが、いつの間にか何者かが作り出した「支配と被支配の構図」に絡め取られ、知らず知らずのうちに「労働力」の一端となり、「やりがい」がスポイルされてしまう。そのことを私は注意喚起したい。それはあたかも「政治」というものの原初の光景を見ているようでもある。
私はそのような「階級的バーベキュー」に与しない。むしろ、その日の王に君臨しようとする者に抵抗しようと、ささやかなレジスタンスな行為を企てるのだ。
「肉はそんなに食えない」と、あれだけ止められたのにもかかわらず、安物の外国産肉をせっせとタレに漬け込み、柔らかくする。「鉄板が焦げるよ!」とたしなめられても、すでに人々がバゲットにシチューを浸して食べていようとも、まだ「俺の漬け込み肉の需要はあるはず」とばかりに、せっせと肉を焼く。そして、こちらも定番のヤキソバへと導くのである。
何度も書くが、これはたとえ話である。疑いようもなくスマートで、皆の最大多数の最大幸福を目指す「美しいバーベキュー」もあると思う。しかし、それはまず稀だ。どうしても誰かが犠牲になり、その上に成り立っているのが、「政治的バーベキュー」の限界なのである。
知っているだろうか? 特にすることがなく、川で水切りをしている大人を。皆の輪から外れ、ポツンと川に向かって石を投げこむ姿。あれは、政争の場からの無意識な逃避である。
「あの人、石投げてるよ」と、人々が半笑いで言う時、そこには社会から脱落した人間を侮辱するようなニュアンスが含まれている。しかし、私は知っている。怠け者のように扱われているが、その者は人々の「主体無き狂騒」が嫌なのだ。
同じように、皆で作業に没頭している最中、いち早く子どもと戯れ始める人間にも目を配られたい。そいつも「役に立ちたい」という意識があるにはあるが、早々に皆と争うことを諦めた消極的逃避行動者だったりする。が、先の水切り名人より評判が良いのは、自然と接している現場での「待機児童問題」はかなり切実だからである。
しかし、こうして「託児人」が自然発生的に生まれるバーベキューのメカニズムも、いかにも「社会」ではある。だから、それが「恥ずかしい」と言うのである。
だってそうだろう、社会生活から逃れたくて遠くまでやって来たのに、そこでまた「社会」をやってどうするのだ。でも、人が複数人で行動すれば、そこには必然と秩序が生まれる。秩序が生まれれば、同時に格差も生まれる。その繰り返しだ。それに気づいた瞬間、人はいつしか「バーベキュー疲れ」をしてしまう。その負の連鎖を最小限に抑えるためにも、楽しいバーベキューの現場に水を差してまでも、私はここで耳が痛くなるような指摘をしたのだ。
やっぱり恥ずかしい……
ただ、ここで登場させている概念としての「バーベキュー・マスター」の言っていることは、理屈としては正しいのである。ただし、それを彼の私利私欲の産物としてはいけない。その上で、改めてバーベキューにおける注意事項と代案を出したい。
1.肉はそんなに食べられない
2.ウインナーはもっと食べられない
3.ゴールを設定せよ
まず1。焼いた肉というのは、飽きがくるのも早い。「肉が足りなくなったらどうしよう」という不安からつい多めに買ってしまうが、事前に“大食いの頭数”を念頭に置いて買った方が良い。自分の胃袋の不安と、周りのそれとを混同させてはいけない。
提案としては、そこに「イベント性」を持たせること。肉焼きは「イベント」を盛り上げる手段に過ぎない。イベントならば肉を焼くだけではなく、芋煮鍋でも良いし、チーズフォンデュだって良い。「ここがハイライト」というポイントを作れば盛り上がる。
ちなみに、私が過去に成功したと思える肉料理は野菜巻きだ。手間はかかったが、その手間を皆で分担したことで盛り上がった。誰が言い出したか、余った肉を肉巻きおにぎりにしたアドリブプレイは、鮮やかなファインプレイだった。
次に2。これはウインナーの立場になってよく考えて欲しい。大体において、ウインナーは余り、早々に居場所を失う。仕方なく最後のヤキソバに混ぜられていたりする。同様に余り肉もそんな憂き目に遭いがちだ。
提案としては、そのバーベキューが泊まりだった場合、ウインナーを翌日の朝食にするのがベター。バーベキューには玉ねぎも付帯することが多いが、これもヤキソバならぬ“負けソバ”の被害に遭うアイテム。ならば無理して焼くことはせず、ホットドッグの具にしたい。ドラフト2位ぐらいで入団しずっと二軍あたりにいるキャベツも、前の晩に酢漬け(酢はサラダに使える)にしておいて、即席のザワークラウトとしてウインナーと合わせる。これであなたもwinnerだ。
最後に3。
バーベキューにおけるゴールの問題だ。つまりフィニッシュをどう飾るか。これも難しい。昨今のアウトドアブームで、バーベキューの多様化が進み、実力の底上げがされたかに見えるが、未だ起こり得る問題としてくすぶっている。焼きマシュマロみたいなスイーツでフィニッシュを飾るのが平均的で間違いないわけだが、私はあえてこれを、やはり「ヤキソバ」という定番で考えてみたい。
ゴールをヤキソバに設定する場合、まず、生産調整ならぬ、購入調整から入るのが適切だ。つまり多く買い過ぎてはいけない。そしてイベントとして一番の盛り上がりとなるよう、途中で我慢も必要。他の物で満腹にならないよう、「今日は最高のヤキソバを作るぞ!」と事前に、または最中にアナウンスしておくことも必要だ。
そこで超簡単な提案だが、卵を用意して、オムソバを作るというのはどうだろうか。焼き場に鉄板があることが必須であるが、作ったヤキソバを卵で包むのをイベントにし、またそれを人にお願いするのである。人によっては派手に失敗するかもしれない。けれど、その失敗すら含み益にするのである。一人ぼっちで黄昏ている水切りおじさんが、思いの外上手に出来たら嬉しいじゃないか。
以上、バーベキューを楽しむための方策を自分なりに提案させていただいた。と、気づけば4000字書いていた。夢中になり過ぎたようだ。
やはりバーベキューは恥ずかしい。
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マキタスポーツ
1970年生まれ。山梨県出身。芸人、ミュージシャン、俳優、文筆家など、他に類型のないエンターテインメントを追求し、芸人の枠を超えた活動を行う。俳優として、映画『苦役列車』で第55回ブルーリボン賞新人賞、第22回東スポ映画大賞新人賞をダブル受賞。著書に『決定版 一億総ツッコミ時代』(講談社文庫)、『すべてのJ-POPはパクリである』(扶桑社文庫)、『越境芸人』(東京ニュース通信社)など。近刊に自伝的小説『雌伏三十年』(文藝春秋)がある。
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とは
はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
どうして自分が「考える人」なんだろう――。
手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか――手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。
「考える人」編集長
金寿煥
著者プロフィール
- マキタスポーツ
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1970年生まれ。山梨県出身。芸人、ミュージシャン、俳優、文筆家など、他に類型のないエンターテインメントを追求し、芸人の枠を超えた活動を行う。俳優として、映画『苦役列車』で第55回ブルーリボン賞新人賞、第22回東スポ映画大賞新人賞をダブル受賞。著書に『決定版 一億総ツッコミ時代』(講談社文庫)、『すべてのJ-POPはパクリである』(扶桑社文庫)、『越境芸人』(東京ニュース通信社)など。近刊に自伝的小説『雌伏三十年』(文藝春秋)がある。
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