はじめてのアボカド
はじめてアボカドを食べた時のことを、今でも思い出す。
1980年代の前半だったと思う。たしか、テレビでは千代の富士が活躍、ホテルニュージャパンが燃えていた、そんな頃。
私の生家のまん前に八百屋があった。そこのご主人は戦前、家族で南米のペルーに移民していた人だった。そして戦後、日本に戻ってきて山梨の片田舎で八百屋を始める。
青年期、苦しい移民生活の中で、彼の地で食べていた“森のバター”なる謎の果物をいち早く日本に定着させようと、ご主人は、まださほど日本では流通していなかったソレを店頭に並べ、行き交う奥方たちに啓蒙、販売していたらしい。
「塩コショウを振って、食パンと一緒に食べるといいよ」
私の母は「Sさんの言う事だったら間違いない。だってあそこの息子は東大に行っているから」と、よくわからない理屈を振りかざして、私と兄にそれを食べさせようとした。
「新しい物を口に入れる」というのは、なぜ人をああも萎縮させるのだろう。母は、たしか、ソレを“果物”と言っていた。食卓に出されたソレは全く果物には見えず、それどころかジオン軍の量産型モビルスーツのような物に見え、より警戒心が芽生えた。
「いやだ、食べたくない」
私は兄と口を揃えて言った。すると母は「食べると、頭が良くなるんだから!」と言う。
「食べると頭が良くなる」という売り文句は昔からあって、しかし、それを言っている大人が、大概頭が悪く見えるという問題は未だ解消されていない。私は別に頭が良くなりたいわけじゃなく、ましてや、食べた瞬間から目覚ましい結果が得られるという“暗記パン”なら話は別だが、そんなわけはないことぐらいはもう解っている。それより何より、得体の知れない物を口に入れるのが嫌なのである。
しかし……他に食べる物が無いのだ。母はソレを私たち兄弟に食べさせるために、他の物を作らないで挑んでいた。覚悟が違うのである。それに比べ我々は所詮「上げ膳据え膳」、身体さえ卓に持っていけば何とかなると思っている木偶の坊。勝負にすらなっていなかった。結局、諦め、ソレを口に運んだ。
「ぐえ!! なんだ! これは!?」
「貴様、謀ったな!」
口にしたソレからは果物特有の甘酸っぱさや爽快感は何も感じられず、それより、草を踏んだ長靴の底を舐めたような、屈辱的な気分になったことをよく憶えている。
これが私のアボカド初体験である。
そんな、今となっては「幸福な母の兵糧攻め」から1年ぐらい経った頃だろうか、我が家の食卓にはソレが定番メニューとして登場するようになった。アボカドが本格的に流行り始めたのは、それから少し後のこと。我が家では世間よりほんのちょっと早めに定番化したのだ。
習慣と面倒臭さのあいだ
前置きが長くなったが、今回は「食と定番化」について考えたい。
1970年生まれの私の人生でも、いくつかの新種の襲来と入れ替え戦、一発屋などなど、食の新規参入的トピックが沢山あったように思う。それは“食卓”というプロレス興行にやって来た「謎のガイジンレスラー」のようで、歓待したいワクワクした記憶と、純血主義的な鎖国的気分とが混じり合った複雑な思い出である。
「人間は“習慣”と“面倒臭い”で出来ている」――。
人は習慣を死守するためだったら、人の邪魔をしたり足を引っ張ったり、なんでもする。面倒臭ければ、その面倒臭さを貫くために死ぬほど努力だってする。それほど「変える」ということに対して億劫がるのが、人間というものだ。世の中の「変えたいけど変えられない事態」のほとんどは、この「習慣」と「面倒臭い」という心理によって迎えられている。「習慣」というオートメーションがあれば思考する必要はなく、日々を安全運行出来るのだし、「面倒臭い」というフィルターがあれば、未然に「革新」という毒素を除去出来る。
件のアボカドは、母の無知と無理解(「頭が良くなる」)によって、“私の習慣”に入り込んでくるのが大分遅れたと思う。それでも、やがてそれを飛び越え定番化した。
烏龍茶はどうだったか? 「油を洗い流す」という触れ込みに、我が家では最終的に、禿頭の父親の頭皮に烏龍茶をかけるという呪いにまで発展していた。
ロッテの「雪見だいふく」のセンセーションが忘れられない。今じゃすっかり定番となっているが、大福とアイスクリームの合体なんてどうかしている。大谷翔平より40年以上早く二刀流を達成しているのだ。同じ価格帯のラクトアイスが随分と子どもっぽく思えて、買い食いのリストからホームランバーを外したほどだった。
カロリーメイト? いや、同じ大塚製薬ならポカリスエットだろう。今では大好きだが、あのなんの味だかわからない“外敵感”が、やがて“善玉感”へとターンする、その豹変ぶりが懐かしいじゃないか。
しかし、いずれも「我が家の食卓」という“保守の牙城”を切り崩すには至らなかった。それらはイベント的に“外”でいただく物で、我が家のスタメンにまではならなかった。斯様に、「世間での流行」と「家での定着」には隔たりがあるというのも、「食における定番化」の難しくも、興味深い点である。
袋麺の政権交代
食には「先端」もあるし「末端」もある。味覚や嗜好性を極めるフードテックや、禁欲的なマクロビやビーガン、快楽的で大衆的な町中華やせんべろなど、食にはその時々のトレンドがある。そういった「性急な移ろい」に左右されづらいもの、あるいは、世間の変化より、半歩も一歩も遅れているのが「家庭」だ。もちろん、それが悪いと言いたいのではない。環境保全の観点、食育、動物愛護、フードロス……、「町中華はもう古い!」とか「荻窪の立ち飲み屋は素人ばっかりだ」とか、そういう思想信条は普通の家メシの現場には不向きだし、萎える。
または、誰もが栗原はるみみたいな「キッチンのカリスマ」になれるわけではない。つまり、家庭という場所は、変えたくてもなかなか変えられない何かに支配されているのだ。その何かが、先に述べた「習慣」と「面倒臭い」だろう。
しかし、である。このテコでも変革を許さなかった場所にも、ごくたまに変化が生じることがあるのだ。我が家では、それが「インスタント麺(袋麺)」だった。
私は「常備麺」と呼んでいるが、どのご家庭でも、いざという時に備えてインスタント麺を常備しているはずだ。「インスタント麺の定番」こそが、その家の気分であり象徴で、政治的な落とし所でもあるのだ。
ちなみに私の実家ではなぜか明星食品のチャルメラが定番だった。だからか、我が家ではインスタント麺を「チャルメラ」と総称していたほどであった。
それが結婚を機に、大きく変わった。
私の妻の実家はサッポロ一番派だったのである。上京後は、様々な袋麺をお試ししては定番を作らず、独身貴族袋麺道を邁進していた私。結婚しても、次から次へと出てくる新商品に目移りしていたのだが、ある時、妻から「いい加減に落ち着け」と言われ、今更ながらサッポロ一番というド定番に落ち着くことになった。
行間を読んでほしい。日常につまらぬ争いごとを持ち込みたくなかったのである。
しかし……袋麺プレイボーイの私である。身を落ち着かせていたのもほんの10年ぐらいの間だった。サッポロ一番を定番としながら、新商品が発売されるたびにそれを我が家の常備麺棚に送り込むようになっていた。
恐ろしいものであるが、こんな浮気な私でも10年はサッポロ一番を定番にし続けていたのだから、「習慣」という磁力は恐ろしいものだ。
合間には「マルちゃん正麺」を筆頭に「凄麺」「ラ王」の本格麺決戦などもあり、世間的にも永世常備麺のサッポロ一番の牙城が崩されていくかに見えていた。それでも、我が家の定番はなかなか変わらなかった。ところが、つい最近、これが約20年ぶりに政権交代よろしく、変化したのである。マキタ家、20年体制の瓦解である。
新たな定番の座をつかんだのは、東洋水産の「ZUBAAAN!」だ。
もちろん、昔ながらのシニア袋麺たちも大事にしているし、変わらず愛し続けていくつもりだ。でも、いよいよ、そのポジションを「ZUBAAAN!」に受け渡しつつあるのだ(「ZUBAAAN!」に関しての説明は敢えて省く。各々調べてほしい)。
テコでも動かなかった習慣性を動かしたものはなんだったのか?
それは「感動」である。人間は善くも悪くも「感動」でしか変われない。家庭という「支点」に、感動という「力点」が加わり、常備麺という動かし難かった「作用点」に変化が生じたのだ。
「日常」の最大の権化である妻にプレゼンをした。
「これからもサッポロ一番を買おう。ただ、今袋麺には革命が起こっているんだ、だからZUBAAAN!も置かせてくれ!」
「本格的な麺とスープが一つの鍋で簡単に出来る!」
「余った時間でもう一つのコンロを使い野菜の調理だって出来る! 子育て世代にとってこんな時間活用術はない! 子どもの健康面にだって配慮出来る!」
「有名店に行列もせず、そのお店の味がいただけるんだ!」
途中、「健康面を気にしてインスタント麺は食べない」と、クリティカルなことを言われ、一瞬たじろいだが、熱意が伝わったのか、常備麺の座をもぎ取ることに成功した。
やがて、この「定番」も崩れる時がくるのかもしれない。でもそれまでは、次の自分の習慣を超える感動に対して諦めないでいようと思う。
そういえば、遠い昭和の、あのアボカド体験を克服したきっかけは、マヨネーズと海苔だったことを思い出した。熱々の白飯の上にアボカドとマヨネーズを載せ、それを海苔で包むのだ。言ってみればカリフォルニアロールの先取りである。感動的に美味かった。母親はそれを見て、「そんな食べ方すると、バカになるよ!」と言っていた。
かように「抵抗勢力」は身内にいる。習慣を超えようとする時の教訓にされたい。
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マキタスポーツ
1970年生まれ。山梨県出身。芸人、ミュージシャン、俳優、文筆家など、他に類型のないエンターテインメントを追求し、芸人の枠を超えた活動を行う。俳優として、映画『苦役列車』で第55回ブルーリボン賞新人賞、第22回東スポ映画大賞新人賞をダブル受賞。著書に『決定版 一億総ツッコミ時代』(講談社文庫)、『すべてのJ-POPはパクリである』(扶桑社文庫)、『越境芸人』(東京ニュース通信社)など。近刊に自伝的小説『雌伏三十年』(文藝春秋)がある。
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とは
はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
どうして自分が「考える人」なんだろう――。
手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか――手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。
「考える人」編集長
金寿煥
著者プロフィール
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1970年生まれ。山梨県出身。芸人、ミュージシャン、俳優、文筆家など、他に類型のないエンターテインメントを追求し、芸人の枠を超えた活動を行う。俳優として、映画『苦役列車』で第55回ブルーリボン賞新人賞、第22回東スポ映画大賞新人賞をダブル受賞。著書に『決定版 一億総ツッコミ時代』(講談社文庫)、『すべてのJ-POPはパクリである』(扶桑社文庫)、『越境芸人』(東京ニュース通信社)など。近刊に自伝的小説『雌伏三十年』(文藝春秋)がある。
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