「ビートたけし=ラーメン」説
ミュージシャンや俳優、文筆家など肩書きを色々持つ私ではあるが、自分の表現の本籍地は「芸人」だと思っている。そんな私を「食堂」にたとえて考えてみよう。
裏路地でこっそりと商いをしている、ほんのり気むずかしい感じの店――そのようなものだろうか。しかも、一見しただけではそこはなんの店なのか、それとも普通の民家なのかもわからず、窓際には無秩序に民芸品や昔ながらの玩具が並んでいる。店内に入り、薄汚いメニューにある「コーヒーとカレー」の文字を見て、ようやく店の趣旨がわかる。そんな、ちょっと入るには勇気のいる店じゃないだろうか。
そもそも、そんな芸人になるつもりはなかった。もっと、皆に気軽に入ってもらえるようなファミレスみたいな構えでいたかったのだが、どこかで拗れた。
拗れたのは、ある芸人の影響だ。思春期に「ビートたけし」の洗礼を受けたことによって、自分の将来性が歪んだのだと思っている。
ビートたけし氏は「芸人」という概念を大きく拡張させた人物だと思う。
「浅草」という街に入植し、当時東京では年寄り以外には見向きもされなかった「漫才」というジャンルを足掛かりにして事業を拡大していった“ベンチャー起業家”――それが、たけし氏である。当時の芸人にとってのブルーオーシャンを見つけたことが、彼の一番の発明で、その場所に全額ベットするプロスペクターだったことが最大の功績と考える。
でも彼の後続たちは、私もそうだが、皆そこを見誤っていた。たけし氏に憧れ、芸人を始めた時点でもう「たけし」には成れないのである。案の定、そこはレッドオーシャン化し、飽和点を迎えていた。その意味では、ビートたけし氏の出現は「ラーメン」と似ていると思う。
たけし氏が芸人修行を始めた年は、1972年あたりと言われている。その前年に日清のカップヌードルが発売され、翌73年には「つけ麺大王」がチェーン展開し始めている。
それまでも「ラーメン」は庶民のための外食として定着していたが、あくまで外食限定で、「家庭」にまでは侵蝕していなかった。飲んだ帰りに駅前の屋台に寄る、というシーンに象徴されるように、“大人の娯楽”に付随した食べ物のイメージがあり、さらに言えば「男」の食べ物だった。
芸人の世界でも、「第一次演芸ブーム」と呼ばれる昭和30〜40年代に落語家や漫才師といった芸人たちがテレビで活躍し始めたが、まだまだ彼らの主戦場は舞台であり、彼らはストリップ劇場やキャバレーといった場でその芸を育んだ。たけし氏もストリップ劇場出身ではあったが、そこで埋没することなく、テレビという新時代の大衆娯楽のど真ん中を目指し、女性やファミリー層を巻き込んで大きく商いを成功させている。その軌跡が、ラーメンの普及と同時代性を感じさせるのだ。
ラーメンをカップ容器に入れて売り出す、という既成概念に囚われない斬新な企画力も、たけし氏がそれまでの固定観念に挑戦し、前時代の覇者だった萩本欽一モデルの笑いや、ドリフターズの作り込みスタイルを否定し、お手軽な楽屋オチや下ネタ、ブラックな時事ネタをすぐに盛り込むやり方と重なるようである。
と、ここまで語っておいてなんだが、当のたけし氏は「食」に関してのイメージが薄い人物。おそらく「食」の根底に潜む「エロス」に対して距離を取りたいからで、禁欲的で、どこか「生の謳歌」に対して懐疑的なところが興味深い。
その昔、食事をご一緒する機会が何度かあったが、その度にウインナーを食べていた気がする。ウインナーとかハンバーグとか、子どもが好きなような物が、「好き」とは言わずとも明らかに好きだったのがおかしかった。
そして「ビートたけし」と来れば、次は「タモリ」だろう。
「タモリ」という記号
タモリ氏は、言わずと知れた「食の人」である。これまでも氏の産んだ料理レシピ(カレーや生姜焼きなど)は巷で評判になり、そのお手軽さと芯を食う方法論が、いくつも話題になっている。
そんなタモリ氏を「食」でたとえると、食品サンプルだろうか。
お昼の顔だった頃の「タモリ」は、まるで商店街の食堂のショーケース内にある天ぷらやオムライスのサンプル。つまり、本物っぽい偽物――。その原料は塩化ビニールやシリコン、樹脂石膏だけれども、表面上は食品の“貌”をしている。つまり、記号に過ぎないのである。
タモリ氏ほどラディカルに「無意味」に向かった芸人はいない。サングラスで素顔を隠しているのが象徴的だが、その言動を見ていると、「芸人」という意味すらからも距離を取っていたのではないか、と思うのである。タモリ氏本人も生き物感を発することにはおそらく抵抗があるはずで、人間としての実態や実存なんてどうでもいいもの、という諦観が根深くありそうだ。
だから、故赤塚不二夫氏の葬儀の弔辞で「私がお笑いの世界を目指して、九州から上京して~」というくだりを聞いた時、皆「ざわっ!」としたわけである。「え!? タモリさん、目指してなったの? 芸人に!?」と。かように「タモリ」とは、人間性と非人間性の双方に引き裂かれた存在なのである。
お昼の顔だった頃のタモリ氏は、飽きもせず毎日同じようなことを30年間繰り返すことが出来た人である。当初は「ミュージカル嫌い」「小田和正嫌い」とか、ライバルと目されていた「ビートたけし批判」をするなど、人間っぽい一面を見せていたが、やがて“日本の空気”にまで自己を無化させた。
その一方で、タモリ氏はミュージシャンでもある。音楽と食は精神領域的に近いところにあり、タモリ氏も料理に施されるいくつものレイヤーと楽曲の重層性との相性の良さにただならぬ「意味」を感じているはずなのである。その面には、とても人間っぽいものがあると推察する。
例えば、音の一打/一音は、それだけでは意味を成さない。まるで一個だけしかないレゴブロックだ。しかし、それが一定の規律を伴って組織されたり、逸脱したりすると「意味」が発生し、「形」が出来、音楽となる。
「タモリ」という記号もバラバラにすれば、「森田一義」「地方出身」「隻眼」など様々な要素によって成り立っていることがわかる。そこに「サングラス」「撫で付けた頭髪」「暑いね〜」→「そうですね!」のようなお決まりのパターン――などといったように線を引いていけば、簡単に「タモリ」という記号が立ち上がる。私は「タモリ」という存在の持つ音楽性には、そのようなものを感じる。
音楽という現象内にある音階やテンポやリズムといった「具象性」は、再現や複製に役立つ。それは食品サンプルを作る時に必要な化学物質の配合や質感と、似たような「具象性」である。一方、そうして出来上がった「形」というのは、具象とは逆の「抽象性」を帯びたものである。それはあくまで点と線が一時的に集積した「形」でしかなく、イメージに過ぎない。私の中で、タモリ氏と食品サンプルが重なるのも、その意味である。まるで本物のように見えてしまうということであり、「美味しそうな天ぷら」「本物さながらのオムライス」は、タモリ氏の本質そのものではないだろうか。
ところで今日、坂道や地形を見て興奮し、料理を作っては食べ、「これがンマイんだよ」と言っているタモリ氏は、記号から少しだけはみ出ていて、本物っぽい。その姿が、変な話だがなにやら美味そうだ。
松本人志とお笑いのフランチャイズ化
「お笑い芸人」と「食」について考えていたら、たけしとタモリだけで制限文字数に近づいてしまった。
近頃人気の芸人についても何かしらの見立ては出来なくはないが、もう少し寝かせても良いだろう。“霜降り”も“千鳥”も、もっともっと美味しくなるはずだ。残る「ビッグ3」の明石家さんま氏をたとえると、「さんま」とオチを付けたいところだが、さんま氏はカレーだと思う。カレーだから全部を覆ってしまう。
最後に「お笑い総合商社」と言われる吉本興業について、あるいは、現代の「笑いの法王」とも言える松本人志氏について考えたい。
先ごろ、オリエンタルラジオ中田敦彦氏の動画配信「松本人志氏への提言」が話題になった。内容は「お笑いの価値が松本人志氏によって決められすぎている」というもので、各方面で物議を醸している。この論法に準えて書くわけではないが、確かに、ダウンタウンを擁した吉本興業の隆盛ぶりは昔から気になっていたところであり、吉本内革命児であった前会長の大﨑洋氏、そして、徒弟制度ではなく学校制度(NSC)内から出てきた異端児ダウンタウンという存在を、どうにかして「食」に置き換えられないものかと考えていた。
松本人志氏は、カーネル・サンダースである――。
これが現時点での私の見立てである。
ケンタッキーフライドチキンが、最初にフランチャイズのシステムを導入したと言われているらしく、思い切ってそう見立ててみた。
中田氏の発言を待たずとも、現代は松本人志氏の考える「お笑い観」や「ルール」「フォーミュラ」に従っていることは明らかだ。意識的にも無意識的にもそれをベースに番組が作られたり、後進たちもそれに倣ってお笑いを生んでいたりするのである。その意味で彼は「フランチャイザー」であり、お笑いに関わる芸人のほとんどがそのブランドに肖って商売をしていることを考えれば、その者らは「フランチャイジー」なのである。
さらに私は、松本人志氏、及び、大﨑前会長の推し進めてきたお笑いの理念が「民主的」かつ「機会均等的」なものだと考えている。
学校(養成所)という機関で一律の教育を経てから、劇場で市場調査と顧客開拓をし、テレビで名を売る。「フリップ大喜利」という統一ルールで均等に力比べする発想ゲームを開発し、「きっつい」「寒い」「噛み」「怖い怖い怖い」「逆ギレ」などのテクニカルタームを皆に共有させつつ、笑いのパースペクティブ(視点)を啓発した。「IPPONグランプリ」「すべらない話」「笑ってはいけないシリーズ」「ドキュメンタル」といった番組は、参加者が横並びになって共通のレギュレーションで戦い合えるのである。お笑いに競技性を持ち込んだ功罪は、最近よく語られる切り口だが、その原点にあったものは、ある種の「平等性」である。
かくして松本氏の「技術開発」と、大﨑氏が主導した吉本の「企業戦略」は、大きな達成を得た。それはひとえに、誰しもがわかる民主的な「ルール」を作ってきたからに他ならない。これにて日本国内における「吉本グローバル」が完成したのではないか。それに比べて、それまでのお笑い商売は、テキ屋が綿菓子を売るような“シノギ”のレベルにすぎないのである。
それがあたかもケンタッキーやセブン‐イレブンに代表されるような「フランチャイズ」のようだと言うのである。二人はお笑いのビジネスモデルごと、アップデートしたことになる。
ケンタッキーも吉本も、旧時代に美学として尊ばれていた「師匠の技を盗む」という形での技術継承では、ここまで世界に普及しなかったことだろう。フランチャイズ化を可能にした功績は計り知れず、だからこそ私は、松本人志氏を「カーネル・サンダース」と言うのである。
ちなみに松本氏の好物は「ペヤングの焼きそば」だそう。お笑い界の生けるレジェンドにしてこの郷愁感。一番の成功者がここに固執することの意味は大きい。彼の決して裕福じゃなかったであろう少年期と重なり、それが彼とフォロワーたちの最大の差ということを忘れてはいけない。そして、そこだけは門外不出の秘伝スパイスな感じがする。
*次回は、7月14日金曜日更新の予定です。
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マキタスポーツ
1970年生まれ。山梨県出身。芸人、ミュージシャン、俳優、文筆家など、他に類型のないエンターテインメントを追求し、芸人の枠を超えた活動を行う。俳優として、映画『苦役列車』で第55回ブルーリボン賞新人賞、第22回東スポ映画大賞新人賞をダブル受賞。著書に『決定版 一億総ツッコミ時代』(講談社文庫)、『すべてのJ-POPはパクリである』(扶桑社文庫)、『越境芸人』(東京ニュース通信社)など。近刊に自伝的小説『雌伏三十年』(文藝春秋)がある。
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とは
はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
どうして自分が「考える人」なんだろう――。
手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか――手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。
「考える人」編集長
金寿煥
著者プロフィール
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