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土俗のグルメ

2023年9月22日 土俗のグルメ

第17回 土俗のラーメン論(3)――私のラーメン物語

著者: マキタスポーツ

 人生とは未練のことである。とりわけ、ラーメンに対する未練。未練は「ラーメン食い人生」には最高の出汁となる。そう、私はなんだかんだ言いつつラーメンが大好物なのである。

 これまで2回にわたってラーメン論を展開してきたが、今回で一区切りとしたい。

 ラーメン論と言っても、決して前向きなものや、建設的なものではなく、現状に対する嘆きのようなものが主体であったように思う。しかし、後ろ向きなものをあえて書くことで、現状の狂騒を沈静化させたいという意図もあるにはある。それほど、現在はラーメンに対する国民の意識は飽和しているのである。

一般化の毒

 ラーメンも動画配信の時代になり、そして“もの言う店主”が出現し始めた。ラーメンに限ったことではないが、その道のプロがそこまで降りて来てしまう(・・・・・・・・)のである。お笑いで言えば、過去のコンテストのファイナリストがややうっとりと“お笑い語り”を始めている状況と同じだし、野球だと、ダルビッシュが最新で最強なベースボールの最前線から投球術についてのメッセージをポストすることで、市井の愚民らの“草議論”が強制終了するような、あの感じにも似ている。

 これは、これまで勝手なラーメン語りをしていた自称ラーメン評論家やインフルエンサーでは、受信側も送信側も満足出来なくなった結果である。しかし、これも「飽和」の“症状”の一つだと思う。

 また、YouTubeのような場では「〇〇系最強ラーメン10選!!」とか「鯖缶でお店の味に!? マル秘スープが完成!?」とか、店紹介や作り方動画も花盛り。おまけに「ラーメン店をコンサル」など、ビジネス的なことまで言及するコンテンツも出てきて、分析やテクニック面の共有化、解決法も進歩している(その萌芽はもうブログの時代から始まっていて、それらが動画配信などで共有されやすくなったにすぎない)。

 レコード盤の大きさという“規格”が、ロックンロールミュージックの曲の長さを規定したように、VHSの普及がアダルトビデオの作品内容に影響したように、高速大容量通信の時代に「見るラーメン」「語るラーメン」が人々に与えた影響は計り知れないと思うのだ。ラーメンを作る技術や美味しく食べるための方法ではなく、テクノロジーの大転換により、ラーメンに変化が生まれているのである。

 皆で、なんと言おうか、頑張った結果、

 「ラーメンがみんな美味くなってしまった…」

 のである。

 それが前回の主旨である。全体の満足度が上がり、それと引き換えに何かを失ったのだ。これを私は【一般化の毒】と呼ぶ。

ラーメンの「私化」

 「では、どうするのか?」が、今回の肝だ。 

 一般化されすぎて効力が無くなったもの、あるいは、意味合いが変化してしまったものや現象をどうやって捉え直すか? 「答えはない」と個人的に考えている。しかし、そこから逃げる方法はある。それが前回から申し上げている「ラーメンの物語化」だ。

 調べると、客が店を選ぶ時代はとっくに終わっているのだそう。1990年代以降多く出現したラーメンオタクの自然淘汰は勝手に進み、時代の流れとは関係なく、研究に邁進していく者は邁進していく。一方で、多くの「浮動層」はどうしているのか? 

 「浮動層」をターゲットにした、現在のラーメン・ビジネスの最適解は「利便性」だと言う。「わかりやすい外観」「すっと入れる店内」「駐車場がある」「すぐに食べられる」といった、大型チェーン店的な所に流れ込んでいるらしい。

 ギョッとした。

 「わ、私のことじゃないか!」

 「気難しい店」や「誰かが作った人気店は面倒臭い」という気分から逃れて、「どうせみんなそこそこ美味いんだから、郊外の◯高屋に行こう」という自分の気持ちを見透かされたようだ。

 しかし、そのままでは終わらせない。ただただ大型チェーン店に吸い込まれていくだけでは、単なるマーケティングの餌食である。しかしそうはいかない。だから「ラーメンの物語化」が必要なのである。

 先に【一般化の毒】のことは書いた。

 「一般化」の対義語を調べると、「特殊化」とある。私はこれを更に進めて「私化(わたくしか)」と翻案したい。自分個人の行動にラーメン体験を深く記憶させることで、かけがえのない極私的ラーメンを作るのだ。これが「ラーメンの物語化」である。

 難しいことじゃない。SNSでラーメン写真をアップして終わるのではなく、そこから思考を一歩進める。日記を書くように、行動と記憶にラーメンを近づけるだけでいいのだ。当連載では何度も書いてきているが、食べるのは自分であり、主役はあなたなのだから。

極私的ラーメン物語

 やり方はこうだ。一例として、私の極私的ラーメン体験を記そう。

 その店は、中野区の野方という所にあった。

 当時の私は大して仕事もなく、うだつの上がらぬ一芸人。なのにもかかわらず、生意気にも家族を持ち、悶々とした毎日を過ごしていた。ライブに行っては、ウケた、スベッたに一喜一憂、自分が売れないでいることを直視しようともせず、気がつかない世間のせいにしていた典型的なダメ人間。「仕事」と言うにはあまりにお粗末なライブ後、妻の迷惑も顧みず、予告もなしに仲間を家に連れて帰り、打ち上げと称して朝までオダを上げているのがパターンだった。

 翌昼過ぎ、どんよりした二日酔いの頭で、昨晩の詫びのようなつもりで家族と連れ立っていくのがその店だった。

 テレビがあって、競馬帰りだろうか安物のジャンパーを着た土鳩色の男性客が多く、カウンターでは店の子どもが宿題をやっているような、そんな店。でも、こういった食堂にありがちな漫画雑誌などはおいてはおらず、店のトイレも綺麗にしてある。どこか凛とした態度も、その店からは感じられていた。

 まだ小さい娘には、妻の頼む半チャンラーメンを少しだけ取り分け、ラーメンを水で薄めて、それでもまだフーフーして食べさせた。調子が良いと餃子も注文して、迎え酒にビールを頼んで妻に怒られたりもした。娘はすぐに食事に飽きるのが厄介で、いまいちメシに集中出来ないでいると、店の奥さんがカウンターで暇そうにしていた自分の子どもと娘を遊ばせるように手配してくれる。そういう気遣いも、さりげなくて好きだった。

 私はこの店の「辛麺(からめん)」が大好きだった。坦々麺とも違うし、どこかの辛いラーメンに似ているようで似ていないラーメンで、これで二日酔いの気だるさを飛ばすのである。

 子どもを相手にしてくれたり、夫婦喧嘩にも余計な口を挟まなかったり、そもそもこちらを無駄に詮索しないところがちょうど良かった。何せ私は売れていない芸人、それだけで後ろめたいのである。

 その後、我々家族は更に食い詰め、東京の23区外へと引っ越さざるを得なくなった。

 「またすぐに戻ってきてやる」と静かに闘志を燃やした。

 その店と離れることに特段の感傷はなかった。もっと言うと、「ずっとそこにあってくれるだろう」とすら思っていなかった。そのぐらい「地域の店」だったからだ。それよりも、「都落ちする自分」という悲劇的な気持ちが圧倒的。だからすぐにその店のことは忘れた。

 数年後、たまたま立ち寄った野方。「そう言えば…」と思い立ち、あの店へと行ってみた。ところが驚いた。なんと無くなっていたのである。居抜きで、別のラーメン店が入っていた。

 「なんで!?」

 行列店とはいかないまでも、常に客が入っていたあの店。謎だった。「店主が病気にでもなったのかも…」と勝手に考えてみたりもしたが、またすぐに忘れてしまった。

 忙しくなったからだ。

 またしばらく経つ。

 私は自分のラジオ番組を持てるようになっていた。そこで「思い出グルメ」の話になる。

 「もう10年ぐらい前になるんだけど、野方に〇〇っていう店があって、久々に行ってみたら無くなっててショックだった、いつも混んでたのになんで無くなったのか…あの店を知ってる人がいたら教えてほしい」

 電波の私物化も甚だしい職権濫用である。しかし、これが功を奏した。なんとリスナーから情報が寄せられたのだ。

 「その店は今、杉並区の〇〇戸にあります。移転したようです」

 嬉しかった。移転はしていたが、現存はしていたのである。

 過日、妻にそのことを話し、日を決めて家族で行ってみることにした。

 ドキドキしながら行ってみた。前より店は古く、店内も狭い。一体どういう理由でこんな店に移転したのか? 謎だった。

 こちらに気づくだろうか? 子どもは4人に増えて、なかなかの大所帯(計6人)の家族だ。

 「あの頃のアイツだ」とはとても気づくまい。でも、うっすらとした期待もあった。それは自分の有名人ぶりの調査。「あ!? マキタスポーツ!」とか。

 期待はしたが何にもなかった。それより、店の混雑を更に強めてしまったことを申し訳ないと感じていた。

 辛麺を注文。妻は醤油ラーメン。もう半チャンラーメンを小分けにしないでよいぐらい成長した長女は味噌ラーメン。代わりに次女が半チャンラーメン。それを取り分けて「水割り」にするのを下の双子が食べた。ついでに餃子も二人前つけた。

 満足だった。辛麺はそのままで、何もかもが変わらない味だったように思う。

 まだまだ思い出に浸りたい気持ちもあったが会計を急ぐ。お会計はあの奥さんがやってくれた。あの頃とあまり変わりはない。でも、もみあげの辺りに僅かな苦労を感じ、グッとなった。

 会計を済ませ、「ご馳走様です」と言って表へ出ようとした時だった。

 「娘さん、大きくなりましたねぇ」

 なんと、奥さんは覚えてくれていたのである。

 「家族も増えたね〜。有名になって、凄いね!」

 胸に熱いものが込みあげた。

 ご主人に聞いたところ、店を移転したのは、師匠からの引き継ぎのためだったという。ここは元々自分が修行した店舗で、師の引退につき、託されたと。適当なことを穿ってみたが、全くの見当違いだった。立派な人生の決断だったのだ。

 その店の名は「東軒」という。私の大切な店である。

 こういった極私的ラーメンの物語化を、生きているうちにあと何回出来るか? 少し盛った部分があるが、話がラーメンなだけに許してほしい。ほんのサービスだ。

 

*次回は、10月13日金曜日更新の予定です。

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 はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
どうして自分が「考える人」なんだろう―。
手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか―手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。

「考える人」編集長
金寿煥

著者プロフィール

マキタスポーツ

1970年生まれ。山梨県出身。芸人、ミュージシャン、俳優、文筆家など、他に類型のないエンターテインメントを追求し、芸人の枠を超えた活動を行う。俳優として、映画『苦役列車』で第55回ブルーリボン賞新人賞、第22回東スポ映画大賞新人賞をダブル受賞。著書に『決定版 一億総ツッコミ時代』(講談社文庫)、『すべてのJ-POPはパクリである』(扶桑社文庫)、『越境芸人』(東京ニュース通信社)など。近刊に自伝的小説『雌伏三十年』(文藝春秋)がある。

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