「包むもの」と「包まれるもの」の神秘
餃子の季節である。というか、一年を通して、ずーっと餃子の季節だと私は思っている。
「令和」の改元の際には、私の実力不足によりそこまでは至らなかったが、次の改元までには林真理子氏ぐらいのポジションに辿り着き、元号を「餃子」に改めてみせようじゃないか。
つまり、そのぐらい私は餃子が好きなのである。
まず、あの形が可愛らしい。白くて、フワッとしていて、クチュクチュッと縮こまっていて、かと思えばプリンッと、どこかふてぶてしい風態。チグハグだし、非対称だし、バランスも悪い。もう少しで不細工に転んでしまいそうなところを、ギリギリのラインで踏みとどまり、「可愛い」に持っていっている。奇跡のバランスが秀逸だ。
かてて加えて、その構造である。捏ねて伸ばした小麦粉で、具材を包み込む――このシンプルすぎる構造にときめくのである。
そもそも私は、包状のものを前にすると、そこに何かを入れずにはいられなくなる人間だ。入れられそうなものと、入りそうなものがあったとき、「いや、俺は入れないよ」と言えるほど私は理性的な人間じゃない。
餃子の構造とは、何かが入りそうな形のものと、いかにも何かに入れるよりほかないようなもの同士の結合である。その結果があのような独特な形であり、そこに「神秘」が包まれるのだ。人が餃子を見て「美味そう!」と言う裏には、実は、そういった原初的な興奮とトキメキがまさに内包されていると思うのである。
さらにその構造は、「中に何があるのかを知りたい」という好奇心を誘い出す。中に隠されているであろう「神秘」を、口腔という人体の入り口で暴露し、その正体を覗き見てやろうという、そんなサディスティックな感情に気づかされるのである。それもまた、あの構造ゆえのものなのだ。
具材にフォーカスしてみよう。
炭水化物に野菜に肉。完璧だ。全てが揃っている。もっと細かく分解すれば、五大栄養素の炭水化物(皮)、タンパク質(豚ひき肉)、ビタミン(野菜類)、脂質(油)、ミネラル(豚肉や野菜など)の全てが網羅されている。しかもあのひとつの中にである。巷間よく言われているように、餃子はオールインワンの完全食なのである。この簡便性も、私のようなものぐさな人間にはたまらない。
私がバラエティ番組のプロデューサーならば、間違いなく餃子を起用するだろう。突っ込んで、回せて、人の話が聞ける。さらに視聴者が望むものを瞬時に察知することに長けている餃子は、番組の座長を務めるのに必要な五大要素を持っている。
「おや? 四要素になってるぞ?」
そう思っただろう。残りのひとつは、もっとも重要な「イジれる」という要素だ。
実は餃子は、エッジーなところもある。ニンニクやニラ、ショウガがそうだろう。それらは老若男女、全方位に好かれるものじゃない。その使い方や量を間違えたら大変なことになる。しかし餡のメインとなるのは、誰にでも好かれる豚のひき肉である。つまり、エッジーな部分と誰の口にも合うような平等性を兼ね備えているのである。
この包容力こそが餃子の魅力である。つまり「イジれる」という要素である。
それが餃子にはあるのだ。餃子のあの完璧な構造があれば、どうイジっても、つまり中に何を放り込んでも餃子として成立させてしまう。器が違うのである。
基本のフォーマットさえしっかりしていれば、紫蘇を入れるもよし、納豆を入れるもよし、手羽先を餃子の皮に見立てて中に餡を入れたっていい。それだって、立派な「餃子」となる。「手羽餃子」なんて、手羽側にイジらせすぎじゃないかと、一瞬ヒヤッとしたものだが、いやいやどうして、出来てみたらちゃんと餃子だったし、美味かったのだから驚いた。
不味い餃子が美味しい
その餃子であるが、私は「美味すぎる餃子」が苦手なのである。否、嫌いということは当然なく、その存在を全否定するつもりもない。
では、「美味すぎる餃子」とはなんぞや? まずはそれについて説明をしなければいけない。
例えば、餡がギューギューで肉汁たっぷり、あるいは、本場中華料理で供される海老がたっぷりと入った蒸し餃子の類が、私の言う「美味すぎる餃子」である。アレがなんとも私には重たく感じるのだ。みっちみちに詰め込まれた餡は質量たっぷりで、「さぁ! 食え! どうだ? 美味いだろう?」と迫られているようで若干照れる。
あなたの身の回りにもいないだろうか? 人望があって信頼を集めている非の打ちどころのない人間が。私はそういう人間の眩しさが苦手なのである。もちろん、その者の存在価値もわかっているし、実際に接してみたら面白いこともわかる。でも、距離を置きたい。その感覚と「美味すぎる餃子」は近い。
それを意識したのは「不味くて美味い」という概念を、餃子を通じて知ったからである。「不味い餃子が美味い」という屈折を知ってから、食の新たな地平が出現したのだ。
あれは30年ほど前、確かタモリ氏のインタビューだったか。
「安い食堂の不味い餃子が美味いんだよね」
そのような記事を読んで、目から鱗が落ちたのである。
それまでは、せっせと「美味しすぎる餃子」を求めて食べ歩いてきた。上京後初めて心臓を射抜かれた餃子は、世田谷の某所にあったラーメン店のそれだったと思う。分厚く、サイズが大きい餃子は肉汁たっぷりで、「こんなものがあったのか!?」と感動したものだ。そのときの私は、餡がたっぷりで、肉汁が滴り、野菜なんかあまり入っていないようなものを追い求めていたのだと思う。むしろ、肉をケチって野菜で嵩増ししているものをインチキ扱いしていた。「余計なものを入れないで勝負せよ!」と。
またあるときは、高級中華飯店系の蒸し餃子を追い求め、「本来はこういうものだったのだな」と独りごちた。あるいは「餃子は美しくなきゃいけないんだよ!」と、蒸し餃子のあの半透明でファンシーなビジュアルを褒め称え、「日本の焼き餃子は見すぼらしくてダメだ!」と貶してみたりもした。
「マズウマ」の黄金比率
ところがある日のこと、肉がみっちりと詰まった餃子を食べているときに気がついたのである。
「これ、シュウマイじゃないか」
もちろん餃子はシュウマイではない。それはわかっている。だが、その当時の自分が求めていたマッチングの方向性を突き詰めると、餃子とシュウマイに大差がなくなってしまうのだ。そのことに愕然としたのである。
一方向に物事が集中してしまうと、渋滞が起こるのは当然のこと。「美味さ」はもっと広義で多角的なものであるべきで、そこには必ず死角や盲点が付随する。自分で広げた“美味さ地図”を眺めながら、その死角や盲点に至る抜け道を探るもなかなか見つからない。そんな矢先に出会ったのが、タモリ氏の「不味い餃子は美味い」という言葉だった。
繰り返すが、餃子は完全食である。そして、包容力がある。しかし、なんでも受け入れてしまうがゆえ、先の「餃子≒シウマイ化」のような事態まで引き起こしてしまう。包容力があり過ぎるがゆえ、肉でも何でも包み込み、何でも完成させてしまうのだ。
そこで貴重となるのが、「不味さ成分」ではないかと私は思っている。「不味さ」というと誤解を招く表現だが、餃子の完全な包容力(バランス)をあえて崩す、味のフックになる要素のことである。
その「不味さ成分」は、嵩増しのための余分な野菜類だったり、町の中華料理屋の小汚い環境だったり、いろいろな要素が考えられる。その「不味さ」さえも包み込んで、どこかで「これでよしとする」と外界との結界を引く。その潔さがあの餃子の構造にはある。
以前、最高級のコロッケ蕎麦などありえないと書いたように(「第9回 『実存』としての焼き鳥」)、上等な餃子などないのである。否、あっても、それは全体の中の一部にしか過ぎないのだ。美味しさに向けたさまざまな試行錯誤や小狡いコスト計算が相まって、その「マズウマ」という黄金比率がいつの間にか出来上がっていた。そんなエレメントが餃子には詰まっている。
この複雑にして奇妙な心理を得たことで、私のその後の感性は決定づけられたと言っていい。それにはブルーハーツの『リンダリンダ』の一節「ドブネズミみたいに美しくなりたい」と同等の価値がある。
そういえば、「餃子」の語源は「子を授かる」というものらしい。まさしく、私は餃子により、かけがえのない感覚を「受胎」した。さらに餃子は、よく見れば勾玉にも見える。「マズウマ」の同居は、まるで「陰&陽」じゃないか。これは慶事である。今夜も餃子で決まりだ。
*次回は、11月10日金曜日更新の予定です。
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マキタスポーツ
1970年生まれ。山梨県出身。芸人、ミュージシャン、俳優、文筆家など、他に類型のないエンターテインメントを追求し、芸人の枠を超えた活動を行う。俳優として、映画『苦役列車』で第55回ブルーリボン賞新人賞、第22回東スポ映画大賞新人賞をダブル受賞。著書に『決定版 一億総ツッコミ時代』(講談社文庫)、『すべてのJ-POPはパクリである』(扶桑社文庫)、『越境芸人』(東京ニュース通信社)など。近刊に自伝的小説『雌伏三十年』(文藝春秋)がある。
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とは
はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
どうして自分が「考える人」なんだろう――。
手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか――手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。
「考える人」編集長
金寿煥
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