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土俗のグルメ

2024年5月10日 土俗のグルメ

第27回 素晴らしき哉、メニュー! 

著者: マキタスポーツ

書を捨てよ、メシを食おう――。有名店を食べ歩くのでもなく、かといって大衆酒場ばかりを飲み歩くのでもなく、たとえ他人に「悪食」と言われようとも、あくまで自分の舌に正直に。大事なのは私が「うまい」と思うかどうか。情報や流行に背を向けて、己の「食道」を追究する――これ即ち、土俗のグルメである。自称「食にスケベ」な芸人が、「美味しい能書き」を存分に垂れるメシ論。

あり得たかもしれない「注文」

 食堂で注文をする。今回は親子丼にした。実は前の日から生姜焼きを食べたかったのだが、嫌な予感がしたので親子丼に変えてみたのだ。

 油の染みたパウチのメニュー表にある生姜焼きの写真からは、私の期待したシズル感は得られず、「普通」の二文字が脳裏に浮かんだ。ならばと、親子丼に一気に舵を切った格好である。

 まるで昭和54年の日本シリーズだ。“江夏の21球”のように、三塁側から本塁へスタートを切るランナーが見えたので、本来投げるはずだったボールの軌道を投球直前に変えたのだ。果たしてどうなるやら。

 定食なので、味噌汁やお新香なんかも付いているはずだ。小鉢にサラダか、それともきんぴらか、出来たら卯の花なんかだと嬉しい。

 注文を取った店員の後ろ姿を目で追う。そして、私の本番がこれから始まる。「なんの本番?」と思うだろうか。普通はこの場合の本番は注文した「親子丼」を指すだろう。でも違うのだ。

 私の本番、それは…、

「メニュー」をもう一度見返すこと。

 あり得たかもしれないもうひとつの人生を想像するように、あり得たかもしれないもうひとつの「注文」をシミュレーションするのである。それも「注文」をした直後に。

 すでに「親子丼」という賽は投げられた。もうその時間を巻き戻すことは出来ない。そんな時間の不可逆性に切なさを感じつつ、私はふたたびメニューを開くのである。

 実のところ、私が「食事」の中で一番大事にしているのは「メニュー見(味)」なのだ。それは、“本日の顔”を決めた後に行なう。この「後悔」と「希望」とが絶妙にブレンドされた気分の按配が、私の“生きる意味”を躍動させる。

 「食事」は食べる前と、食べ始めこそが感情の上昇曲線のピークであり、腹が満たされるにつれ、その強く濃かった光の線が薄れ、下降線を辿る。訪れる気分はまるで厭世観を薄めた“賢者タイム”のよう。「満腹」とは、食いしん坊にとってはそのようなものなのである。だから私はメニューを丹念に見るのだ。

 この日の親子丼にだって期待をしていないわけじゃない。でも、もともと頼もうと思っていた生姜焼きのことだって気になるし、「黒モツ焼き定食」なんて馴染みじゃない変わったメニューだってある。

 この状態をスポーツの試合で喩えてみよう。そこが初めて訪れる店だった場合、その「試合会場」のムードに飲まれて視野が狭まり、そうこうしているうちにメニューを隅々まで吟味する間もなく、「対戦相手」である店員に見事に注文を取られてしまうものなのだ。

 気がつくと、ホワイトボードに書かれたランチメニューや「おすすめ」という“最善策”を無難に選ぶことになる。それは「勝ち」ではあっても完全勝利とは言えず、「負けなかった(・・・・・)」に過ぎない。

 店によっては正規のメニュー表に書かれていない「おすすめ」は、実は「顧客ファースト」ではなく、「お店ファースト」のケースもあると聞く。だが、ほとんどの場合、我々にそのことはわからない。その店の「プロ」と「アマ」とでは、“知っていること”に違いがありすぎるのである。

 つまり、我々は(はな)から分が悪いのだ。ゆえにいつだって、「あの時こうしておけばよかった」とか、「ここにこんな攻め手があったか!」などの事後検証、あたかも将棋の感想戦よろしく、“頼み際”においての失敗か成功かを正確にジャッジする、VAR判定のような作業がその「メニュー見(味)」には含まれるのだ。

メニューとは宝探しの地図である

 最近はメニューがタッチパネルになっていて、そこから注文するケースも多い。中には、店のQRコードをスマホで読み込まないと注文できない店もある。だが、あれだとメニューを味わうことができなくて残念だ。やはりメニューは、紙の本と同じく「物」であることが望ましいと思う。

 経営の合理化についてとやかく言うつもりはないが、余裕があればメニューにおいても「電子」と「アナログ」の両方が欲しい(言い過ぎだろうか?)。

 タッチパネルの場合、メニューの項目やジャンルの索引がどこかそっけなく、こちらも慣れていないので、キョロキョロと視線が泳ぐばかりで、なかなか「目的地」に辿り着けない。

 メニューとは、言わば宝探しに必要な地図である。

 タブレットを使って、緻密かつ正確にトレジャーハントするのもいいが、その店の主人が手書きで書いた、独特のレタリング文字だけのメニューとか、ワープロで打ち込んだ愛想のない文字をプリントごっこで印刷したようなメニューは、「あゝ、ここの家のお婿さんが、普段店を手伝っていないことのお詫びに打ち込んだんだろう」とか想像出来て、それも楽しい。

 楽しみなのは、そんなインディなメニューだけじゃない。しっかりと写真が掲載された、パウチやラミネートされたメニューだって良い。ファミレスだと、通常のメニューに加えて、季節限定メニュー、デザートフェアなどのメニューなども加わり、全く飽きない。

 注文は野に放たれ、すでに厨房でコールされた。もう後戻りは出来ない。でも、ひょっとしたらまだお宝があるかもしれない。メニューの隅に隠れているかもしれない“来世でのベターハーフ”を探すのである。

 私が好むものは、いつだって目立つ上段にはなく周縁にある。それは「おつまみ」や「一品」コーナーで、そこに店の主が仕掛けたある種の「ニヤニヤ」が潜んでいる。例えば「鯵の南蛮漬け」的な何かである。それをピックアップした瞬間、私の心の中の主は言うのである。「よーく辿り着いたなあ」と。こちらもニヤニヤだ。

 あるいは、他には価値がなくとも自分にとって愛すべきものを見初(みそ)めるのだ。かつてみうらじゅん氏が、自治体などがプロデュースしたダメな着ぐるみを「ゆるキャラ」と命名したように、あるいは微妙な土産物に「いやげもの」というアングルを当て、それらを買い集め、新たな価値を加えたようにである。

 また、飲酒が許される時間ならば、そういった店のディテールを勝手にサンプリングして、オリジナルのおつまみにしたっていい。そういった想像が出来るのが「メニュー見(味)」の良いところなのである。

幸福な後悔

 その店の人気メニューは、言ってみれば過酷な競い合いを勝ち抜いてきた俳優のようだ。一方で「メニュー見(味)」をしている私は、それらを起用する権限を持つプロデューサーである。

 「時代はおすすめの“旬野菜のパスタ”だが、どうも違う気がする」

 「ここはあえてオールドネームなトンカツ定食で行こう!」

 すると、横槍がどこからともなく入る。

 「いや、ここは“旬”を起用して、安定的に数字を取りに行きましょう。トンカツはもう終わってます」

 確かに、パスタとご飯ものでは、作品の質や客層が全く違う。

 私は考えた。閃く。そして妥協案を提示する。

 「わかった、真ん中を取ってミックスフライ定食にしよう!」

 我ながら妙案だ。しかも付け合わせにはスパゲティも入っている。万能じゃないか。ミックスフライ定食の、なんて言えばいいだろうか、小日向文世感。それをすんでのところで選ぶ、自分のプロデュース力にうっとりした。

 デザートに抹茶アイスあたりを入れて、オーダーを固める。そして注文。

 おそらく今回も失敗はしないだろう。考えに考えたが、結局、無難なミックスフライだった。リスクを取らなければ得られる果実も小さい。早くも、「こんな展開もあったんじゃないか?」という疑問が頭をもたげてくる。

 「今回はゴハンガッツリ系だったか…」 

 「酒を飲むならどういうツマミにしようか?」

 「アスパラベーコン…白身魚フライに…レモンサワーか? いや、ホッピーがあるぞ!?」

 なんと言えばいいだろう。この後ろ向きなヴィジョンによる、“幸福な後悔”の時間がたまらなく愛おしい。下賤な嗜好だと思う人もいよう。でも、私にとっては映画の予告編を見てときめくのと同じだ。そのようにして「次の食事」という素敵なモーメントに備えてみるのはいかがか。顧客ファーストな意味で、おすすめである。

 

*次回は、6月14日金曜日更新の予定です。

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考える人とはとは

 はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
どうして自分が「考える人」なんだろう―。
手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか―手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。

「考える人」編集長
金寿煥

著者プロフィール

マキタスポーツ

1970年生まれ。山梨県出身。芸人、ミュージシャン、俳優、文筆家など、他に類型のないエンターテインメントを追求し、芸人の枠を超えた活動を行う。俳優として、映画『苦役列車』で第55回ブルーリボン賞新人賞、第22回東スポ映画大賞新人賞をダブル受賞。著書に『決定版 一億総ツッコミ時代』(講談社文庫)、『すべてのJ-POPはパクリである』(扶桑社文庫)、『越境芸人』(東京ニュース通信社)など。近刊に自伝的小説『雌伏三十年』(文藝春秋)がある。

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