12.見世物小屋の奇人
著者: ヤマザキマリ
約40年前、17歳の少女はイタリアへと旅立つ。背中を押したのは、敬虔なカトリック信者にして音楽家の母。異国での生活を前に動揺する少女に、400年前、遠くヴァチカンを目指した4人の少年たち影が重なる――。科学と芸術、そして宗教が色濃く共存し続けるイタリアで培ったものとは、何だったのか。人生でもっとも貧しく苦しかった画学生としての生活と、自らの裡に沈殿していた“信仰”を告白。これまで封印していた記憶の扉をひらく、渾身のメモーリエ。
世界最古の屋内劇場
世界最古の屋内劇場とされるテアトロ・オリンピコは、今でこそ世界遺産に登録されて知名度も上がったが、私がフレッド・パイに初めて連れて行かれた1984年は、夏休みの最中であるにもかかわらず観光客の姿もまばらだったし、劇場のエントランスでは夜に開催されるコンサートのために職員たちが忙しなく動き回っていて、歴史的遺産というよりは古くから使われている公共施設という雰囲気が強かった。しかも我々は立派な門のある正面玄関からではなく、通り沿いにある何の変哲もない裏口から中へ入ったので、劇場のスケール感もわからなかったし、フレッドが言うほど面白そうな場所だとも思えなかった。
フレッドは裏口にいた職員に自分がイギリスのサン紙のジャーナリストであることを告げ、しばらくすると、奥から恰幅の良いイタリア人の中年男性が現れた。館長だったか副館長だったか忘れてしまったが、付き合いがある人らしく、楽しそうに笑いながら握手を交わした。おそらくサン紙でこの劇場のことを記事にしたことがあったのだろう。

フレッドは私を振り返ると「彼女はイタリアへ絵を学びにきた日本人」だと紹介した。その人はかなり大袈裟に「ほお」という表情を作ると「日本人ですか」と念を押し、「実はね、むかし、この劇場にも日本の人たちが来たことがあるんですよ」と言った。このご時世、日本人くらい来るでしょうと思いつつ、そうなんですか、知りませんでしたと関心のあるふりを繕うと、案内人は嬉しそうに劇場とパッラーディオの説明を始めた。あなたは、ヴィチェンツァがヴェネチア共和国の支配下にあったことはご存知ですよね?と聞かれ、「詳しくありません」と小さく答える私に、フレッドがいつもの呆れ返った視線を投げてきた。
世界初の「職業建築家」
500年前、ヴィチェンツァを管轄していたヴェネチア共和国は、当時トルコ(オスマン帝国)をはじめとする東方の国々との貿易の中心地であり、巨大な経済を動かす一大国家だった。主要産業の一つだった造船にしても、工場で雇われていた労働者の数は1万人を超えていたと言われている。首都ヴェネチアは、貴族だけではなくそうした商売で潤った、たくさんの裕福な商人が暮らす街でもあったが、富が築かれれば文化に関心を持つ人々が増え、芸術活動も盛んになる。教養欲旺盛な富裕民たちは、ヴェネチアの潟から離れた内陸に、アカデミックな集いをするための立派な屋敷を作るようになった。もちろんそうした屋敷は主人たちの財力自慢であり、有名な音楽家を呼んでは舞踏会のような華やかな催し物も開催されていた。こうした屋敷の建設ブームによって人気を博したのが、パドヴァ生まれの職業建築家アンドレア・パッラーディオだった。
パッラーディオは、フィレンツェ・ルネサンスで活躍したブルネレスキやミケランジェロなど彫刻から建築までを手がけるマルチな表現者とは違い、建築だけを専門とした世界で最初の「職業建築家」とされている。ミケランジェロと同じく幼少期は石工として働いていたが、建築家としての才能を見出されてローマへ留学、当時の発掘ブームによって掘り出された古代ローマ時代の遺跡や建造物の遺構はパッラーディオに大きな影響を及ぼした。
のちにイギリス経由でアメリカのホワイトハウスの建造にも取り入れられた、パッラーディオ用式と呼ばれる建造物の特徴は、左右対称であることと、大理石風にアレンジした煉瓦と漆喰によるギリシャ・ローマスタイルのペディメントや列柱である。
パッラーディオの遺作となるテアトロ・オリンピコもまた、彼の古代世界に対するリスペクトが大いに発揮された作品だが、石段を模した仕切りの無い木製の客席も、遠近法を使って古代ギリシャの都市テーバイをイメージした舞台も、室内でありながら完全に古代の半円形劇場が再現されている。舞台の壁や客席の後部に並んだ柱の上には、この劇場の創設者であるアカデミー会員が、古代ローマ時代の英雄を模した彫像として並べられ、さらに正面上部には、筋肉隆々の裸体で表現された英雄ヘラクレスの12の功業を表した浮き彫りが施されている。一瞥しただけでもこの時代の知識人たちがどれだけキリスト教誕生以前の古代世界に対し、熱い思いを巡らせていたのかが伝わってくるようだった。
400年前の日本人、4人の少年
「この劇場が落成したのは1585年の3月ですが、実はその数ヶ月後に、先ほどお伝えした、日本からの客人を迎えているのです」と案内役の男性は、客席に座って説明を聞いていたフレッドと私に、とんでもないサプライズを打ち明けてでもいるような、大袈裟な口調で言った。しかし、それを聞いたフレッドが「1585年ということは、今からちょうど400年前じゃないか」と面白おかしく反応した。フレッドも400年前にテアトロ・オリンピコへ日本人が来た、という話は初耳だったようだ。私も思わず「その頃、日本人はまだヨーロッパまで来ていないんじゃないですか」と便乗した。
「もしかして、ヴェネチアに商売でやってきた中国人と間違えてるんじゃないのか?」というフレッドの憶測には説得力があったが、男性は円満な笑みを保ちつつも「いいえ」と首を振り、「日本人です。日出る国からやってきた、正真正銘の日本人です」と譲らなかった。
「いったい誰なんだ、そんなむかしにこんなところまで来た連中は」とフレッドは笑うのをやめて、好奇心なのか懐疑心なのかわからない口調で問いただした。すると、男性は質問をしたフレッドではなく、私のほうを振り向いた。そして両腕を広げ、技を決めた手品師のような自信満々の顔つきで「テンショーの少年大使です」と言った。私がその言葉に驚くことを想定したうえでの演出だったようだ。
男性は私が黙っているのを見て、再び「クゥアットロ・ラガッツィ・アンバシャトーリ」とゆっくりと繰り返した。イタリア語が通じなかったのかと思ったのだろう。俯いて考え込んでいる私の傍でフレッドが「ラガッツィ? 大人ではなく、少年だったのか?」と問いかけると、男性は私とフレッドを客席から立たせ、劇場の入り口へと案内した。そして、天井近くの壁の上部に描かれたいくつかのフレスコ画の一つに腕を伸ばして指先で示すと、「あの絵をよく見てください。劇場の一番手前の席に並んで座っている4人の人物。あれが日本の少年たちですよ」と言った。

4人の日本の少年。私はふと、幼い頃に日曜学校で学び、その後中学校の教科書にも小さく扱われていた、戦国時代にヨーロッパへ渡ったというキリシタンの子供たちのことを思い浮かべた。人数も確か4人だったはずだから、これはもしかするとあの子たちのことかもしれないが、彼らが果たしてこんな地方都市を訪れるだろうか、という疑念も拭えなかった。そもそも自分ですら、油絵を学びたくてやってきたイタリアなのに、なぜ知り合って間もないイギリス人に連れられてこんなところにいるのかまったく理解できないし、ましてや彼らはカトリック教会という巨大なバックアップがあって旅をしていたわけだから、いくら著名な建築家が手がけたとはいえ、まったくキリスト教的要素のない劇場を訪れるとは思えなかった。
係の男性は天井を見上げたままの私とフレッドに視線を向けたまま、「もちろん自分も詳しくはわからないのですが」と断りつつ、「あの下には文字で『IAPONENSIVM LEGATIS』つまり、日本の外交使節団に捧ぐ、とラテン語ではっきりと記されています。だから間違いはないのです」と言うと、彼が知る範囲の4人の来訪に至る経緯を語り始めた。
「Il fenomeno da baraccone」(見世物小屋の奇人)
1585年、ヴァチカンでの教皇との謁見を経て、トスカーナやレッジョエミリアといった地域を訪れたあと、6月にヴェネチアへ到着した日本の少年4人は、完成して間もないテアトロ・オリンピコで開かれたアカデミーの集会に招聘されることになった。劇場に到着すると「オイディプス王」を観劇したという説もあるが、フレスコ画に描かれているのは、アカデミー主催者の質問に対し、4人のうちのリーダー(おそらく伊東マンショ)が流暢なラテン語で答えている場面である。
4人の少年たちがヴェネチアに滞在し、元首と昼食を共にした時の記録も残っているが、彼らは謙虚で礼儀正しく、大変豪華な食事が振舞われてもほとんど手をつけずに、水を飲むだけだったという。少年たちの高貴で優雅な振る舞いはすでにイタリア各所の上流社会の間の噂となり、ぜひ彼らに会ってみたい、我が家へ招きたい、という貴族や金持ちが続出したという。そんな中、ヴィチェンツァのアカデミー会員たちも、彼らとの接触の機会をイエズス会に頼み込んだのだろう。イエズス会の創始者であるイグナチオ・ロヨラはかつてヴィチェンツァにも長く滞在をしていたこともあるし、それなりに融通をきかせてもらったはずだ。
男性のそうした説明と見解を最初は真剣に聞き入っていたフレッドたったが、話が終わるやいなや「結局、この4人は見世物として連れてこられたってことか」と薄笑いを浮かべた。「ビートルズみたいなもんだろう?」と言ったかどうかは忘れたが、4人はイエズス会の広報戦略として、ステイタスのために利用されていただけ、というような批判的な言い方をしていたことは確かである。私が最初の頃に覚えたイタリア語に「Il fenomeno da baraccone」(見世物小屋の奇人)というものがある。これはリアーノが私をあちこちに連れ回すマルコに対し、私の立場を形容するために怒って発した言葉だった。何度も耳にするので、気になって辞書で調べたところ、そういう意味であることがわかった。そうか、自分はマルコにとって見世物小屋の存在みたいなものなのか、とその言葉の意味を知った時は衝撃を受けたが、フレッドは4人の少年たちに対しても全く同じ言葉を使っていた。
イエズス会について議論を続けている二人の傍らで、私は自分と同じくらいの年齢だったはずの、その4人の少年たちのことをひたすら考えていた。係の男性は彼らを少食でヨーロッパの貴族よりも行儀の良い子供たちだったと言っていたが、少食だったのは、礼儀正しさ以前に、きっと食欲がなかったからだろう。睡眠不足も影響したかもしれない。自分たちがこれからどうなるのかもわからず、来る日も来る日もあちこちに引っ張り回されながら、内心では日本に早く帰りたい、家族に会いたい、日本のご飯が食べたいと思っていたのではないだろうか。イタリア人たちの強引で横柄な態度に抗うこともできずに過ごす毎日に辟易し、げんなりしていたのではないだろうか。
16世紀の日本でキリスト教徒であることはマイノリティを意味するが、ここイタリアでは当然のことである。にもかかわらず、この劇場に集まっていたのはキリスト教以前の古代世界に憧れていた先駆的なイタリア人たちである。彼らはいったい、ここでどんな質問を受け、どんな返答をしたのだろうか。それによって、信仰を抱き続けることへの不安や疑念を感じたりはしなかったのだろうか。
フレスコ画に描かれている小さな4人の人物を見上げながら、私は彼らに自分の立場を重ね合わせ、切ない気持ちでいっぱいになった。

*次回は、8月24日月曜日更新予定です。
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ヤマザキマリ
漫画家・文筆家・画家。日本女子大学国際文化学部国際文化学科特別招聘教授、東京造形大学客員教授。1984年にイタリアに渡り、フィレンツェの国立アカデミア美術学院で美術史・油絵を専攻。97年、漫画家デビュー。2010年、『テルマエ・ロマエ』で第3回マンガ大賞、第14回手塚治虫文化賞短編賞を受賞。2015年度芸術選奨文部科学大臣新人賞受賞。2017年、イタリア共和国星勲章コメンダトーレ綬章。2024年、『プリニウス』で第28回手塚治虫文化賞マンガ大賞を受賞。著書に『プリニウス』(新潮社、とり・みきと共著)、『ヴィオラ母さん』(文藝春秋)、『パスタぎらい』(新潮社)、『扉の向う側』(マガジンハウス)など。現在「少年ジャンプ+」で、「続テルマエ・ロマエ」を連載中。撮影:ノザワヒロミチ
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はじめまして。2026年7月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、松本太郎と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただき、ありがとうございます。
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目次には当代随一の執筆陣がずらりと並び、B5判240ページの誌面の隅々から知の香りが立ちのぼってくるかのようでした。
当時、入社3か月の営業部員だった私は、見上げるような思いで手に取り、発売日には編集長の松家仁之さんと創刊のご挨拶のために書店にうかがいました。
まだ書店訪問にも慣れておらず、編集長ともほぼ初対面の中、次のお店の約束の時間に間に合うだろうかと時計ばかりが気になって、終始、そわそわしていました。そんな私に松家さんがやわらかな笑顔で接してくれたこと、そして、新雑誌の門出を祝うようなすっきりと晴れた一日だったことを覚えています。
あれから四半世紀が過ぎ、ウェブマガジンとして衣替えした今でも、創刊時に掲げられた「Plain living, high thinking(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という言葉は古びていません。AIに尋ねれば瞬時に答えが返ってくる時代だからこそ、それらしい言葉に飛びつくのではなく、自分の頭で考え、心の声に耳を澄ませることの大切さは増しているように感じます。
創刊号には、養老孟司さんのロングインタビューが掲載されています。養老さんはその中で、恩師である中井準之助先生の口癖だった「人の心がわかる心を教養という」という言葉を紹介しています。
読んだ瞬間に立ち止まり、さまざまな思いが湧き上がってくるような文章に、楽しみながら出会える場であり続けたいと思っています。
「考える人」編集長
松本太郎
著者プロフィール
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- ヤマザキマリ
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漫画家・文筆家・画家。日本女子大学国際文化学部国際文化学科特別招聘教授、東京造形大学客員教授。1984年にイタリアに渡り、フィレンツェの国立アカデミア美術学院で美術史・油絵を専攻。97年、漫画家デビュー。2010年、『テルマエ・ロマエ』で第3回マンガ大賞、第14回手塚治虫文化賞短編賞を受賞。2015年度芸術選奨文部科学大臣新人賞受賞。2017年、イタリア共和国星勲章コメンダトーレ綬章。2024年、『プリニウス』で第28回手塚治虫文化賞マンガ大賞を受賞。著書に『プリニウス』(新潮社、とり・みきと共著)、『ヴィオラ母さん』(文藝春秋)、『パスタぎらい』(新潮社)、『扉の向う側』(マガジンハウス)など。現在「少年ジャンプ+」で、「続テルマエ・ロマエ」を連載中。撮影:ノザワヒロミチ
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