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「反東大」の思想史

2019年8月26日 「反東大」の思想史

第13回 「反東大」としての早稲田の真価

著者: 尾原宏之

「学問の独立」と民衆早稲田 

 昭和前期に書かれた粗製乱造気味の学校評判記において、早稲田大学は「民衆の早稲田」「民衆的な早稲田」と評された。大衆に近く、大衆から親しまれる学校として描かれていたのである。
 早稲田大学を主要な舞台とした小説『人生劇場』の著者尾崎士郎は、学校の「伝統的雰囲気」というものは、「むしろ学校のワクをはなれて一般民衆の生活感情の上に濃厚に反映している」と語ったことがある(「早稲田大学について」)。では、早稲田のどういった部分が民衆に好かれていると考えられていたのだろうか。

尾崎士郎(1898ー1964)

 早稲田を「民衆的」と評する人々は、だいたい次のような歴史認識を持っている。早稲田大学の前身である東京専門学校は、「明治十四年の政変」で政権中枢から放逐された大隈重信によって創設された学校であり、したがって同校は藩閥(専制)政府に対抗する宿命を負っている。建学の理念である「学問の独立」とは、政府の庇護と指導を受け、官吏を供給する東大(を中心とする官学)に対するアンチテーゼにほかならない。
 だが実際のところ、学校創設の経緯や建学理念は、早稲田が「民衆的」であり、民衆に親しまれていることの証拠としてはあまり説得力がない。というのは、政治権力に対抗することは、民衆の支持を獲得することに直結しないからである。もし直結するならば、幸徳秋水ら明治社会主義者あるいは昭和初期の無産政党は、もっと人気があってもよかっただろう。また早稲田人気の例として必ずといっていいほどあげられる六大学野球・早慶戦などを見ても、巷の早稲田スポーツのファンが「学問の独立」という理念に共鳴して応援しているとは考えにくい。

〈ワセダの夢〉としての政党政治

 各種の大学評判記は、早稲田が「民衆的」であることの説明として、別な理由も付け加えている。第一に、民衆の支持によって立つ政党政治家、という進路モデルを確立したことである。これは、高等文官試験に合格して官界に入り、最終的には大臣に任ぜられて内閣に列することを目指す帝大モデルとも、財界に入って大会社の重役となることを目指す慶應モデルとも異なる、早稲田ならではの特色として示されることがある。たとえば、1933(昭和8)年に刊行された榛名譲著『大学評判記』は次のように述べている。
 「代議士に、そして大臣たれーーこれは実に早稲田学徒の理想であつた。官僚となつて事務に跼蹐(きょくせき)せず、会社員となつて小理想に満足せず、野に立つて民衆に訴へ、民衆に立脚した政治家となつてかねて抱負を実現せんとするところにあつた」
 つまり、民衆に直接呼びかけ、民衆に支持され、一票一票を集めて国会議員となり府県会議員となることが、早稲田の学生の理想像だというのである。
 3回目の男子普通選挙である1932(昭和7)年の総選挙に当選した衆議院議員466名中、「早大」ないしその関連校に学んだことを標榜する議員は68名に達する(『朝日新聞』1932年2月23日)。
 『大学評判記』は、早稲田が生み出した政党政治家のうち、「次期の大臣級」として中野正剛、三木武吉、小山松寿(のち衆議院議長)らの名をあげ、「大物」として永井柳太郎らを、また議席はないものの「無産党闘士」として大山郁夫、浅沼稲次郎らをあげている。周知のとおり、浅沼はのちに衆議院議員、日本社会党委員長となり、1960(昭和35)年、日比谷公会堂で山口二矢に暗殺された。当時の首相池田勇人は衆議院で追悼演説に立ち、「沼は演説百姓よ よごれた服にボロカバン きょうは本所の公会堂 あすは京都の辻の寺」という、浅沼の友人が詠んだ詩を引用した。東西を駆けめぐり、場所を問わず民衆に語りかける早稲田型政党政治家のイメージがここに反映されているといえる。

浅沼稲次郎(1898ー1960)

メディアという舞台

 早稲田が「民衆的」である第二の理由として指摘されるのは、文壇やマスメディアに確固とした基盤を持っていることである。具体的にあげられる人名は、文壇では島村抱月、正宗白鳥、小川未明、江戸川乱歩、直木三十五らであり、卒業生が大勢力を有する新聞・出版界では、朝日新聞の緒方竹虎、美土路昌一(のち社長)、中央公論社社長嶋中雄作などである。榛名の『大学評判記』は、「早稲田派」の文芸が「帝大派のアカデミズム」とは違い、「常に何らかの点で大衆と密接に結びついてゐる」ことを強調し、また早稲田出身者が猛威を振るう新聞界を「官僚閥に対する一大敵国」と呼ぶ。政府に蟠踞する東大出身者に対して、あくまで民衆を相手にし、民衆のなかへ飛び込んでいく早稲田出身者というイメージが、ここでも描かれている。

緒方竹虎(1888ー1956)

 マスメディアにおける早稲田の優位は、明治期から指摘されていたことであった。早稲田出身の作家、河岡潮風は1909(明治42)年に著した『東都游学学校評判記』のなかで次のように述べている。
「(早稲田出身者は)一般に政府の事業では左程成功して居らぬ。法科でも判検事弁護士にも得意の腕を振へるもの少なし。商科にしても当分は日本銀行や何んかに向かぬ…其代り、新聞雑誌業には日本第一の大便宜を有し、他校が勢力を張らぬ間に、この方面に発展したものだから、有力な先輩多く、陣笠連に至つては、天の川の星の数より多い位。北は雪深き樺太の涯より、南、生蕃躍る台湾の端に至るまで、新聞と云ふ新聞、雑誌といふ雑誌には、少くとも一両名は早稲田出身者がゐる盛況。操觚(そうこ)者たらんには、本校に敵する修養所はない」
 政府や商業関係の進路は不調だが、新聞・雑誌への進出は早かったため、どの新聞社・出版社にも有力OBがおり、ヒラ記者にいたっては星の数ほどいる。表現者を志すなら早稲田に敵う学校はない。河岡は、こう主張する。

大衆という〈モンスター〉と早稲田

 早稲田出身者のあるべき進路として、新聞・出版メディアに入り込み、そこで絶えず民衆に働きかける表現者と、衆議院議員総選挙あるいは府県会議員選挙に打って出て、民衆の一票一票を集める政党政治家という、二つの強力な〈理念型〉があった。いずれも、民衆を直接の相手とする稼業である。かつて慶應義塾と福澤諭吉は、実業界に人材を送り込み、商工業を発展させることで自己の領域を確立しようとした。早稲田は、民衆の世界を自己の領域とし、そこで躍動することによって存在価値を主張する。
 早稲田の発展史は、〈マス〉としての大衆が時代の前面に躍り出る大正期以降の状況と相即している。日露戦争後の1905(明治38)年、賠償金が取れなかった講和条約を不満として民衆暴動である日比谷焼打事件が発生した。それ以来、二個師団増設問題に端を発する憲政擁護運動、そして1918(大正7)年の米騒動と、民衆は政治を突き動かす存在になっていった。同時に、就学率の向上を背景として、月刊誌『キング』や週刊誌『サンデー毎日』『週刊朝日』などの創刊に象徴されるマスメディアの急成長が見られた。「大正デモクラシー」はやがて普通選挙法の成立に帰結する。
 社会学者の佐藤卓己は、1923(大正12)年の関東大震災後にmassの訳語としての「大衆」が広く使われるようになったことを指摘している(『『キング』の時代』)。早稲田は、時代を動かす〈モンスター〉としての「大衆」に栄養分を供給し、同時に栄養分を吸い取りながら肥大化していった学校といえるかもしれない。

日比谷焼打事件の決起集会(1905年)

早稲田の誇り・無試験入学

 早稲田が「民衆的」であった理由は、ほかにもある。それは、「学問の独立」などよりももっと卑近なもので、要するに入学が容易であったことである。1902(明治35)年、東京専門学校は早稲田大学に改称された。その際、(旧制)中学を卒業した者であれば、無試験で入学が認められた。また、中学中退者や私塾出身者、独学者のための入学試験を行い、さらに高等学校をはじめとする官立学校の受験失敗者のために編入生を募集した。これらの試験は、「学力を見る程度で、及第を建前とし、落第を異例としたので、学生にはきわめて気安さを感ぜしめた」という(『早稲田大学百年史』)。「高等学校の入学試験を受けて官報に名が乗らず、高商や高工で落第し、兵学校機関校では試験官と説が合はず、商船校、士官校でスカを喰ひ、それでは早稲田へでも入りませう」(南北社編『早稲田生活』)という具合の容易さは、「官学のあぶれ者の収容所」「劣等生と落第生の掃溜め」との世評を招く原因となった。
 入学の易しさは、戦前の多くの卒業生が語る早稲田の代表的エピソードである。『東京物語』をはじめとする小津安二郎監督作品の共作者として知られる脚本家の野田高梧は、片上伸教授との入学口頭試問の様子を次のように回想する。

 「君はどういふ理由でこの学校の文科を選んだんです」
入学の時の片上伸先生の口頭試問である。
 「この学校の文科がいいと思つたからです」
 「いいといふのは?」
 「悪くないからです」
 「なるほど」
 これで入学が出来たのだから、僕などは良い御時世に生れたものといふべきだらう(『早稲田学報』1951年7月号)

野田高梧(1893ー1968)

 戦後、早稲田大学の入学難度は飛躍的に増大するが、戦前の卒業生は母校が〈難関校〉になることを必ずしも喜んでいなかった。それどころか、過去の無試験入学を誇らしげに語り、その復活を強く要求する者さえいた。彼らは、希望者はなるべく全員入学させ、その後ふるいにかければよい、と考えた。1950〜51年にかけて、早稲田大学校友会の機関誌『早稲田学報』に掲載された卒業生の声には、次のようなものがある。
 「僕らのときも早稲田は入学試験はあれどなきが如しです。その代り予科から本科へ行つてみると、四割位落つこちて顔触れがひどく変つている」(小汀利得・日本経済新聞社顧問)
 「地方の学校を出て直ぐ早稲田を志願する者には試験問題を別にする。特に語学については平易な問題を課する。その代り入学後は特別に勉強させる」(中山均・日本銀行政策委員)
 「ワセダの校風はもっとおおらかであったはずである。もっと暴れて、もっと伸びて欲しい。それには色々と対策もあろうが、ひとつ武蔵野の奥深くにでも、新しいワセダ街でも創ったらどうだろう。校舎もうんと殖やしてもっと多くの学生を収容することだ」(後藤基治・元毎日新聞社会部長)
 「入学試験なども点数だけで決定するのは早計だと思う。校友が推薦してくるものは、とらなければ駄目だ…関西方面に分校をつくることも必要となつてくるのではないか」(降旗徳彌・元逓信大臣)
 これらの「おおらか」な入試復活の希望は、卒業生の子弟を無試験で受け入れよという要求に連なっていく。純印度式カリーで知られる新宿中村屋社長の相馬安雄は、次のような要求を大学当局に対して突きつけた。
 「一、学校はO・Bの長男(又は特に選ばれた息子一人)に対し無試験入学の特典を与える。二、O・Bの長男が正規の試験に合格して入学を許されたる場合には、右特典を二男に与える。以下これに準ずる。三、右規定に基き、無試験入学を許されたる者は、一ヵ年の勉学の後、その成績が学校の定めたる標準に達しない時、退学せしめる」
 校友の子弟や校友が推薦した者は極力入学させるべき、という要求は、この時期の『早稲田学報』に数多く見られるものである。

〈反東大〉運動としての無試験

 実は、彼らの主張は早稲田にとってそう突飛なものではなかった。というのは、入試有害論は、建学者のひとり高田早苗の持論でもあったからである。
 明治40年代初頭、高田は上級学校の「入学」試験が、実際のところ受験生をふるい落とす「拒絶」試験と化していることを次のように批判した。 厳しい入学試験が、日本の学校教育に大害を与えている。学校教育を受験のための「詰込み教育」に変えてしまい、人物を育てるための教育を妨害しているからである。高田は「入学試験などを施さず、自然の径路に依つて学生をして学問を継続せしむるだけの設備が整ふやうになる」ことこそが、日本の学校教育を健全化する道だと考えた(「現代学制の欠点」『早稲田学報』152、「教育と風紀」『早稲田学報』176)。したがって高田からすれば、無試験入学の早稲田こそ「正しき道」を歩んでいることになる。
 いうまでもなく「拒絶」試験の最たるものは、(旧制)高等学校の入学試験である。なぜ高等学校に多くの受験生が殺到しふるい落とされるのかというと、その先に帝国大学があるからである。
 東大を頂点とするエリート校は、門戸を閉ざすことによってエリートたりえている。ならば早稲田はその逆を行く。つまり、門戸を極限まで開くのである。早稲田の無試験入学は、それ自体が高田の教育論を背景とする、〈反東大〉的な営みなのであった。

陽気と野放図

 早稲田が「民衆的」であるもうひとつの理由は、その娯楽性にあるだろう。国民的な人気を博した早慶戦などは最たる例であるが、大学経営や学生生活にも多分に娯楽的なところがある。早稲田、慶應、明治、日大、中央、法政、東京帝大、日本女子大の校風と人物を紹介した1912(大正元)年刊の『八大学と秀才』(平元兵吾著)は、早稲田を次のように評した。
 「私立大学中早稲田程不真面目らしく見られる学校はなからう、或は徒党を組み、或は隊伍を成して、所謂弥次連を組織するの妙を得てをるのも独り早稲田に見る而已、彼の野球戦又は諸種の歓迎会に望んで見ても事実明かである、聞く所によれば、元来早稲田には学校に籍だけ置いて遊んでをる者が二千余人もあると云ふことだ」
 こう見ると、早稲田の学生の粗暴さやだらしなさを批判しているようだが、決してそうではない。著者の平元はこう続ける。「不真面目らしくして、尚且つ今日の大発展を成し、破格の栄誉を担つたと云ふのも、亦決して他の私立大学中に見る事の出来ない例である」
 平元は、早稲田の「不真面目」さは、大隈重信の個性と密接していると考えている。法律学校に起源を持つほかの私学とは違い、早稲田の法科は不調であった。ところが大隈は私財を投じて「誇大的」に学校の規模を拡大し、輩下の者たちもそれにしたがって政治科、文科のみならず商科、理工科と増設を続けた。スポーツにも力を入れ、巨費を投じて野球部を渡米させた。いちいち大げさなやりかたで世間の注目を集めるので、やがて内実はともかく「早稲田は偉い」という観念が生まれた。平元はそう推測する。

平元兵吾『八大学と秀才』(1912) 国立国会図書館

 娯楽性は、学生生活にも横溢している。前出の野田高梧は、創立記念行事の仮装行列でまだ生きている既成文壇の作家たちの葬式をやって大学当局から怒られたエピソード、授業には出ずに戸山ヶ原で友人たちと日向ぼっこをしながら人生を語り、ドストエフスキー、ボードレールを読み、ギリシャ劇に没頭したエピソードを楽しげに語る(「あのころの早稲田風俗」)。決して勉強しないわけではない。「自分の身に着けるための勉強」、自分の興味のある勉強に、それぞれのやりかたで没頭しているのである。早稲田の講師になる際、「優や良より可の方が多い」ことが問題になった国文学者の暉峻康隆も「好きなことだけは勉強したからね。つまり呑む量と同じだけ勉強したね」と学生時代を振り返る(「今昔の早稲田」『早稲田学報』1950年9月号)。
 いずれも、授業にはきちんと出席し、語学力や基礎学力をコツコツ身につけ、嫌いな科目にも前向きに取り組む優等生とはまるで異なる学生生活である。その後学問を志すにしても、「(生涯の)その前半は黒板を前にして坐した、その後半は黒板を後にして立った」(西田幾多郎「或教授の退職の辞」)というような人生のありかたとは違っている。
 尾崎士郎は「早稲田は陽気であり、野放図な楽しい学校であった」といった(「早稲田大学について」)。民衆が早稲田を好んだとすれば、おそらくその陽気や野放図と深い関係がある。そしてそれは、日本の大学教育と人間形成のありかたに、東大とは異なるモデルを提供した。時折それは、民衆の力を背景に、東大とその卒業生が作った秩序に対して反抗を試みることもある。

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 はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
どうして自分が「考える人」なんだろう―。
手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか―手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。

「考える人」編集長
金寿煥

著者プロフィール

尾原宏之

甲南大学法学部准教授。1973年生まれ。早稲田大学政治経済学部政治学科卒業。日本放送協会(NHK)勤務を経て、東京都立大学大学院社会科学研究科博士課程単位取得退学。博士(政治学)。専門は日本政治思想史。著書に『大正大震災ー忘却された断層』、『軍事と公論―明治元老院の政治思想』、『娯楽番組を創った男―丸山鐵雄と〈サラリーマン表現者〉の誕生』など。 (Photo by Newsweek日本版)

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