さあ、冒険をはじめよう!
著者: 春間豪太郎
人生は、RPGだ。愛馬を引き連れ、広大なフィールドを駆け巡れ! 舞台は中央アジアの秘境・キルギス。ほかにもイヌワシとの共同生活、羊飼い珍道中、はたまた誘拐婚に遭遇したりと、トラブル満載。最新ガジェットも駆使した、これぞ、リアルRPG。新時代の冒険譚だ!
気鋭の冒険家・春間豪太郎はなぜ冒険を始めたのか――ここから物語がはじまる。
2017年夏、おれは上海発の中国横断列車に揺られていた。座席数を遥かに超える数の中国人が周りを埋め尽くしている。座席にありつけなかった多くの人々は、床に敷いたダンボールの上に座っていた。その1人であるおれも、周りの人々に倣い、何時間ものあいだ体育座りをして過ごす。
窮屈な車内で長時間過ごすことに不満はない。トラブルにより予約していた航空券が使えなくなり、最短でキルギスに辿り着く為には座席なしのチケットを予約するしかなかった。だから、列車に乗れただけでも幸運だ。それに、数日前までおれは東京で1ヶ月ほどホームレス生活をしていたから、それに比べれば屋根があるだけ居心地の悪さは幾分かましだった。
……さあ、また、新しい冒険が始まる。今回のキルギスでは、どんな動物や人との出会いがあるのだろうか……!
冒険前特有の高揚感に包まれながら、おれは微動だにせず、蒸し暑い車内で列車の揺れにじっと身を任せていた。
おれは春間豪太郎。冒険家だ。
1990年京都生まれ。得意分野は「言語」だ。といっても、外国語に関しては英語やフランス語、ロシア語でどうにか生活ができる程度で、ネイティブ並みに流暢に話せるというほどではない。どちらかというとプログラミング言語や、自然界の言語たる物理学や化学などの方が得意だ。また、どうやらおれは動物を扱うことに対する適性があるようなので、それも「動物語」として言語に含まれるかもしれない。
これらの言語的なスキルに加えて、歌舞伎町や難波、京都祇園でキャッチ系の仕事をして習得した交渉術、そしてキックボクシングジムの師匠のもとで鍛え上げた護身術などを駆使し、おれはこれまで冒険を続けてきた。
冒険以前のおれはというと、子どもの頃からずっと、人生がつまらないと思いながら過ごしてきた。周りと比べて自分がどうしようもなく劣っている上に、罪まで背負っていると思っていたからだ。
母親によると、おれが生まれた当時、看護婦さんが「この赤ちゃんを育てるのはかなり苦労すると思います……」と言ったらしい。看護婦さんが何故そんなことを言ったのか本当のところは分からないが、思い当たる節が無いわけでは無い。おれが覚えている最も古い記憶は、祖母や母親と百貨店に行った時のものだ。記憶の中の幼いおれは、祖母や母親が一瞬おれから目を離した隙を突いて、どこか自分の好きな所へ行ってしまおうと思案していた。当時3歳か4歳くらいだったおれが何故そんなことを考えていたのか、今はもう分からない。本能的に未踏の地を求めていたのかもしれないし、自由を欲していたのかもしれない。小学校に入学する頃までは、百貨店へ行く度に迷子としてサービスカウンターの世話になりご迷惑をおかけしていたという恐ろしい記憶があるが、もしかすると生まれたばかりの時も、なんとか束縛から逃れようと奮闘していて看護婦さんを困らせていたのかもしれない。
小学校の頃、お盆などに母親の実家がある兵庫県の田舎に行った際は、毎回祖父から「こいつは駄目な子だから1人だけ魔女の宅急便で送り返さないと」と言われ続けた。無論それは冗談だったが、祖父は傾いた会社を譲り受けて一代で立て直した凄い社長だったから、そんな凄い人が駄目だと言うならおれは本当に駄目なのだろうと思った。
また、おれの父親は、自分が学生時代に格闘技をやっていなかったことを悔やんでいるらしく、幼い頃からおれに空手を習わせていた。退屈で疲れるだけの空手は嫌いだったので、ある日父親からの練習の誘いを断ったところ、父親は怒り、おれのたまごっちを金槌で粉々になるまで何度も何度も叩き壊した。ゲームをしたせいでおれの頭がゲーム脳になり、おかしくなったのが悪いらしい。また、その数年後、姉が父親からのバレーボールの練習の誘いを断ったことがあった。おれと1つしか年が違わないのに、人付き合いもスポーツも勉強も何でもそつなくこなす姉にしてはとても珍しいことだったが、その時は相当忙しかったようだ。父親が「時間が無いならバレーの代わりに腕立て10回」と言うと、姉は半泣きになって適当に10回だけしてからそそくさと行ってしまった。そのようすを見た父親はまたも怒り、姉のたまごっちを叩き壊したあと、おれのデジモンも金槌で粉々にした。またおれは何か悪いことをしてしまったらしい。そういえば母親から「本当は子どもを3人欲しかったけど、2人目のあんたに手がかかりすぎてやめた」とも言われていたし、もしやおれは存在すること自体が罪なのではないかという思いが、小学生のこの頃に芽生えていた。
中学生になっても、おれはぱっとしなかった。周りの人達に上手く馴染めず一部の人からはいじめも受けており、授業は行く気にならなかったので、よく気まぐれに校内を散歩していた。当然ながら成績は悪かった。小学生の時に受験に成功して立命館中学に入学した1つ歳上の聡明な姉とは対称的だった。父親も母親も、おれのことは諦めているようだったし、精神的な拠り所はほとんど無いに等しかった。3年生になり受験シーズンになると進路について真剣に考えなければならなくなったが、私立に行かせる金は無いと親から言われてしまったので、選択肢はほとんど無かった。おれの成績では、馴染めなかった周りの同級生たちと同じ近所の公立高校に行くことになりそうだったが、それはどうしても嫌だった。近所の公立高校へ行ったら、今よりもさらにつまらない生活が待っているように思えた。何とかして、おれを知っている人が誰もいないような全く新しい未知の世界へ行きたいと願った。また、親を失望させてしまうほど不出来な弱い自分にも、もう耐えられず、おれは追い詰められていた。だから、京都府で一番偏差値の高い高校に進学することに決めた。その高校に進学できなければもう自分の今後の人生は一切諦めてしまおうという、決死の覚悟だった。
その高校は入学者の4人に1人が京大に現役合格するようなレベルの高校だったので、先生はおれの希望進路を嗤った。両親も、あと8ヶ月しかないのに合格するわけがないと言った。しかし、そんな結論は受け入れられなかったので死に物狂いで勉強をすることにした。風呂にもほとんど入らず、学校の授業は一切聞かずに、毎日20時間以上独りで勉強した。睡眠時間は平均2時間半くらいだった。勉強以外のことはほとんど何も考えず、暗く狭い視界の中で学習をし続けた。その高校の独自試験では古文の点数が重要らしかったので、おれは手持ちの古文単語帳を1冊丸暗記した。記憶するのは簡単だった。頭の中にある赤い半透明な箱の中に単語を入れれば、2年位は忘れず覚えていられた。そういえば小学生の時は「もののけ姫」のセリフを全て記憶して最初から最後まで一人で演じられていたし、覚えるのはおれの特技なのかもしれない。そう考え、ある日古文の単語帳を持って母親の所へ行き覚えた内容を披露することにした。母親は古文単語をいくつかおれに質問した後、少しだけ顔を歪めてこう言った。
「気持ち悪」
そのやり取りを見ていた姉は、「丸暗記は一番頭の悪い人のやり方なんだよ。時間を無駄にしてるね」と言った。
やはり、不出来なおれに特技などあるわけが無かった。少し記憶力が良い程度では何の価値も無く気持ち悪いだけだということが分かった。
その後おれはその志望校に合格したが、あまり褒められなかったので、少し勉強ができるようになった程度では何の意味も無いということを知った。おれが存在することによる罪を帳消しにするには、この程度では足りないらしい。もっと、もっと高い能力や常人離れした成果が必要だった。
高校一年の誕生日、おれは母親から「これからは親と子の適切な距離を保つために、敬語で話しましょう」と言われた。父親も同意見のようで、おれは両親と敬語で話すようになった。姉と両親とは、敬語ではなかった。また、その誕生日に、おれのゲーム機やソフトは全て隠されてしまった。年齢的にもう必要ないかららしい。いつまで経っても返してもらえなかったし、その後お気に入りの小説を全巻古本屋に売られたこともあったので、売られたか捨てられたのだろう。どうやら、おれは無能故に高校生になっても両親の期待に答えることができなかったようだ。どうすれば、どう生きれば良いというのだろう。おれが存在することによる「罪」はとても強大で、おれに重くのしかかった。
その後、おれは母親と共に精神科を訪れたことがあった。担当した医師はIQ検査の結果を見ながら、「偏りは強いけど、生活に支障が出るほどまずいものはないね」と言った。おれは周りの状況を把握する能力や常識的教養の項目が他と比べて極端に低く、同世代の平均値を下回っていた。反対に記憶力は高いらしく、IQは136だった。人から気持ち悪がられるだけの能力が中途半端に高くても、意味がなかった。
「罪」を帳消しにできるような高い能力が得られそうにないなら、せめて気持ち悪い能力は目立たないようにした上で苦手な部分を改善できないだろうか。多くの人と同じくらいの能力バランスになれれば周りに溶け込むことができ、少しはマシに生きていけるだろうと考えた。だからおれは「苦手なものを得意にして偏りをなくすにはどうしたら良いですか」と医師に訊ねたところ、「偏りはなくならないよ。得意なものも含めて全部の項目が上がりでもしない限り、苦手なものは得意にはならない」という答えが返ってきた。
どうやら、あらゆる分野の能力が高いオールマイティな最強人間にでもならない限り、おれの罪は帳消しにできず、周りに馴染むことも叶わないらしい。医者の意見が正しいのなら、おれがやるべきことは1つだった。全ての分野に秀でた人間になるべく、切磋琢磨するしかない。
その後、おれは両親と顔を合わすのを避けるようになり、家の離れにある空き家で半ば一人暮らしのような状態で残りの高校時代を過ごした。おれは両親の期待に沿えなかったから、声をかけられる度に何かを咎められるだろうとか、何かを奪われるだろうとかそんな風に考え怯えるようになっていた。実際のところある程度はその想像通りでもあったので、両親とのコミュニケーションが破綻した状態のまま、おれは大学生になった。ちなみに現在、その離れの空き家にあったベッドや私物などはほとんど捨てられてしまったので、安心して落ち着ける場所はもちろんのこと、おれが帰れるような場所はこの世界のどこにも無かった。
大学では、敷地内にある男子寮で暮らすことになった。寮内には談話室という共用の部屋があり、ゲームや麻雀が夜通しできるようになっていた。おれはそこに入り浸って主に難易度の高いゲームをしつつ、適度に堕落していて魅力的な先輩や同級生たちと楽しく過ごした。ネット上にある、有志が改造し作成した超高難易度の「スーパーマリオワールド」をクリアしたり、「大乱闘スマッシュブラザーズ」のタイムアタックで世界記録が出せるまでひたすらプレイし続けるのは非常に楽しかった。そういった鬼畜難易度のプレイでは本来ゲーム制作者が意図していないようなショートカットやテクニックが必要とされていたので、想定されていない動きやバグ技などを利用して課題をクリアしていくのは痛快だった。また、自分でも「ポケットモンスター」などのゲームの改造をやってみたところ、ゲーム内部の16進数の規則性を読み解く暗号解読のような作業と、改変をゲーム内の世界にうまく反映させられた時の達成感にハマり、没頭した。生まれて初めての、プログラミングの体験だった。
周りの先輩や同級生たちはおれのプレイを「こんなん真似できねぇ」と笑って称賛しつつ見守り、受け入れてくれた。現実の世界でも、これと同じように本来意図されていないような、例えばまるでフィクションのような世界で生きることができれば痛快で楽しいだろうにと、おれは思った。具体的にはどういったことがフィクションに当たるのか、現実世界で実現可能なのかは分からなかったが、その為には当然ながら規格外の高いスペックが求められるだろうから、それが自由自在にできるようになる頃にはおれの「罪」は帳消しにできている気がした。
両親の元を離れたことで少しは以前より前向きに考えられるようにはなっていたが、存在することが罪だという思いはおれの頭に根強く残り、それと同時に全ての方面で優れた人間にならなければいけないというプレッシャーも感じ続けていた。とはいえ、実際のところ何を目指しどうやって能力を高めるべきか、何をすれば人生をより充実させ価値のある人間になれるのかは分からなかった。おれはゲームや男子寮の人々との会話を楽しむ一方で、漠然とした暗い思いを抱えたまま大学生活を送っていた。
しかし、そんなおれにも転機が訪れた。大学2年生の時に、フィリピンで消息不明になってしまった友人を助けるべく現地へ乗り込み捜索をして、未知の世界を冒険する楽しさや難しさを知った。「本当に大丈夫なのか?」という不安やストレスと闘いその後報われた時の安心感、カタルシスはこれまで経験したどんなものよりも気持ちがよく、病みつきになった。そしてそれ以来、冒険を繰り返す度に自分の様々な能力がメキメキ上がっていくのも実感できた。更にまだまだ否定的ではあるものの、多様な価値観を持つ人々との出会いを通じて、少しずつではあるが日本での自身の価値観のズレを個性として受け入れられるようになり、「周りに馴染めない自分」を許せるようにもなってきた。これこそが、おれの求めていた現実世界での高難易度プレイだった。更に手強い未知の世界にも挑戦したいと感じた。
大学を卒業した2015年の春にはラクダとの砂漠横断を試みた。「砂漠=エジプト」という、非常に安直な思考に従い、渡航先はエジプトとした。しかし、現地で砂漠の村を巡りながら情報収集をしていたおれは、イスラム国の影響による通行規制のせいでラクダと砂漠を歩くことが不可能だと知る。この冒険に向けて専用地図アプリやラクダ用の発信機を自作していたが、役に立つことはなかった。
ラクダ購入の夢は叶わなかったが、ただの観光旅行で終わらせたくなかったおれは、オアシス都市近郊で暮らすラクダ飼いに、住み込みで働かせて欲しいと頼むことにした。結果、ラクダ飼い見習いとして、砂漠でラクダの遊牧生活を始めることになった。
アフリカ大陸へ渡航したのはこの時が初めてだ。砂漠やラクダ、そしてイスラム教徒の人々。ラクダの購入こそできなかったものの、様々な出会いや驚きを経て「これまで暮らしてきた世界とは完全に別の世界へ飛び込みたい」というおれの冒険心はそれなりに満たされた。
2016年春、今度はカメルーンに渡航した。その経緯を簡単に説明すると、当時非常に親しかった女性を追いかけて行った、となるが、詳細は割愛したい。その女性とは結局価値観が合わずにすぐ離別してしまったし、この話自体、若気の至りとでも言うべき、なかなかに恥ずかしい話だからだ。
カメルーンでは、熱帯雨林で暮らすピグミー族と生活を共にした。彼らは、主に泥と草木で作った家で暮らしながら自給自足生活をしている。電気も水道もない森の中で、味気ないイモとたまに獲れる小動物の肉を食べて過ごす日々。もちろん調味料などはなく、飲み水は濁った泥水のみで、時には蛆虫がわいてしまった肉を食べなければならないこともあった。ピグミー族の人々は、毎日ほとんどイモしか食べていないせいで常にタンパク質が不足している。蛆虫がわいているからといって肉を食べないという選択肢はないし、食べなければ栄養失調に陥ってしまう。
しかし、そのような環境下でも彼らは幸せそうに笑顔で過ごしていた。そして、彼らと同じ生活をしていたおれ自身も、少々のことでは不満を感じない人間になれたように思う。
40時間を超える中国横断列車での体育座りの旅を終え、おれは中国西端にある新疆ウイグル自治区、ウルムチに降り立った。目的地であるキルギスヘ行くには、ここからさらに寝台バスでカザフスタンを経由しなければならない。
バスの待合室で、アレーという名のカザフスタン人と出会う。アレーは、スポーティブな雰囲気を纏った金髪の白人女性だ。キルギスではロシア語が必須なので、ロシア語の練習も兼ねて話しかけることにした。アレーのように美しい女性と話した方がおれも饒舌になれるだろうと計算してのことだった。
挨拶や互いの身の上話を済ませ、バスに乗っている間ロシア語を少し教えてくれるよう頼むと、アレーは快諾してくれた。モロッコでの冒険と同様、人には恵まれているようだ。
おれがモロッコを冒険したのは、2016年のことだ。「行商」、「キャラバン」をコンセプトに掲げ、自作の荷車とロバや動物たちを連れて1000kmほど野宿旅をするという内容だった。出発した当初はロバとおれだけのキャラバン旅を想定していたが、実際には「キャラバン」というコンセプト通り仲間がどんどん増え、旅は非常に賑やかなものとなる。
荷車の下に住みつき仲間となった小猫と、大好物の卵を食べたいと考え購入した2羽の鶏。強い番犬を探した結果、紆余曲折を経て仲間となった赤ちゃん犬と、現地で仲良くなった友人からの贈り物だった黄色い鳩。ロバ、猫、鶏、犬、鳩を引き連れたおれのキャラバンは、SNSの力によって瞬く間にモロッコで有名となった。その結果、数多くの心優しい人々に支えられながら、おれは1059kmの道のりを踏破することができた。
また、その冒険でおれは「行商人」にもなった。ロバたちや荷車との記念写真撮影を提案したり、鶏の卵を売ったりしたのだが、これが予想以上に上手くいき、冒険中の滞在費全額とロバ代を賄うことができた。その他にも、ソーラーパネルで充電可能なPCを駆使して、海外から翻訳やプログラミングの案件を受注し稼いだりもしていた。
多くの仲間たちとの出会いや別れ、そして苦難や喜びが詰め込まれたこの冒険は、おれに「人生は自由だ」ということを教えてくれた。これは人生の縮図である、などと言えるほどに濃厚で強烈な経験だった。今後もこういった冒険を積み上げていくことで、おれの目の前にはより広大で色鮮やかな世界が広がるに違いない。
この冒険では、言語や交渉術など、自分が身に付けたスキルを駆使して困難に挑み、出会いを通じて仲間が増えた。さらに、様々な出会いやトラブルを通じておれ自身のスキルがどんどんレベルアップしていくような感覚も覚えた。まるでゲームの世界に迷い込んでしまったかのような、不思議な体験だった。
だから、おれはこのような形式の冒険を「リアルRPG」と名付けることにした。そして、現在おれが向かっているキルギスこそが、次の「リアルRPG」の舞台だった。
ロバたちとのキャラバン旅を終えて次に思いついたのは、「馬に乗って草原を駆け巡る」というものだった。小学校の頃はまっていた、「ゼルダの伝説 時のオカリナ」というゲームを思い出したのがきっかけだ。そのゲームではオカリナを吹くと馬がやって来て、その馬に乗ってフィールドを自由に走り回ることができた。ワクワクが止まらなかった、草原での馬との冒険。……我ながらあまりに幼稚な発想だが、「リアルRPG」の舞台としては申し分ない。
馬に乗って草原を冒険できそうな国というと、モンゴルや中央アジア諸国だろうか。しかし、それらの国のほとんどはビザによる滞在可能期間が短いのだ。法的な事情により冒険のフィールドが狭まるというのはなんとも残念だが、この現代で冒険をしたいのなら受け入れるべきだろう。
唯一ビザの滞在可能期間が長かったのがキルギスだった。さらに都合のいいことにキルギスでは当時、日本人の友人が滞在し働いていた。最初から友人がいるキルギスなら情報収集もしやすいに違いない。しかも、半年ほど前にその友人と連絡を取った際、「キルギスは動物がたくさんいる国だから良かったら来ない?」と誘われてもいた。キルギスは、湖があり水源が豊富な美しい国のようだ。調べてみると、湖に住む「キルギスドン」という名のいかがわしいUMAの情報まで出てきた。……なかなか面白そうな国だ。
かくして、馬との冒険の舞台はキルギスに決定し、おれは現在キルギスヘの経由地であるカザフスタンに向かっているというわけだ。
寝台バスヘ、アレーと共に乗り込む。しばらくすると大きなエンジン音が鳴り響き、バスが出発した。
出発後、車内でアレーが「カザフスタンヘようこそ!」と言って笑い、瓶ビールをくれた。直前まで東京でホームレス生活をしていたので、ベッドで寝るのは約1ヶ月ぶりだ。おれはビールを飲み干して、ベッドの柔らかさに感動しながら眠りに就く。
ホームレス生活をしていたのは、医療技術を習得する為だった。モロッコでの冒険を終えた時、次回の冒険までには絶対に医療技術を身に付けようと、おれは強く誓った。モロッコでの動物たちとの冒険の中で、耐えがたく悲しい仲間との別れがあったからだ。東京では「船舶衛生管理者」という国家資格の講習が1ヶ月間あり、そこでおれは注射の実践や創傷の手当などの技術を学ぶことができた。1ヶ月という中途半端な期間だったので友人の家に居候するのも悪いと思ったし、かといってネットカフェに泊まる金すらないほどにおれは貧乏だった。講習の受講料は20万円を超えていたので、キルギスでの冒険費用を除いて貯金は消え去った。
そんなわけで、おれは公園やマクドナルド、ドン・キホーテなどが近くにある、深夜でも居心地が良さそうな場所を拠点とし、講習が行われる病院まで毎日何十分もかけて歩いて通った。夜は公園で仮眠を取ったり、マクドナルドで講習内容の復習をしたりして過ごすことにした。食事は100円のハンバーガーや、値引きシールが貼られたパンばかりだった。コインランドリーでの洗濯は最低限に留め、節約のため乾燥機は使用せずに濡れたままの衣服を肩にかけて歩きながら乾かした。当時は現代人としての尊厳を失っていた気もするが、そうまでしてでも、おれは動物たちを守る為の力が欲しかった。おかげで、臨床に特化した医療技術を医師の方々から直接学ぶことができたので、今回の冒険でもきっと役に立つはずだ。
寝台バスが目的地へ到着する直前、アレーはおれに「キルギスに行くのを遅らせて、1週間だけでもカザフスタンを一緒に回って欲しい」と提案してきた。この頃にはアレーともかなり仲良くなり、心の距離も近づいていた。
申し出自体はありがたかったが、おれにはキルギスでの冒険が控えていた。それにキルギスは非常に寒い国らしく、秋ごろから雪が降り始めるようだ。アレーとカザフスタンを回っていたら、冒険に支障が出るのは避けられないだろう。
「ごめん、早くキルギスヘ行きたいからそれは無理だな」
そう告げると、アレーは少し寂しそうに笑った。
夜9時ごろ、バスはカザフスタンに到着。なぜかバスは降車場へは行かず、おれとアレーは国道の中途半端なところで降ろされてしまった。ここからだと、キルギスヘ行く為のバス乗り場までは少し距離がある。今夜はどこかで野宿するしかない、そう考えていると、アレーが一緒にモーテルに泊まらないか、と提案してきた。モーテルならシャワーがあるので明日からの冒険に備えられる。おれは二つ返事で承諾した。
そして深夜。シャワーを浴びて出てくると、アレーが「ロシア語を教えたお礼をして欲しい」と言ってきた。
「お礼って、例えば?」
「そうね……。バスの移動で疲れているから、マッサージしてもらえる?」
……以前にも外国人女性と似たようなやりとりをした気がする。あの時おれは、どう返答したんだっけ。記憶を辿り、思い出す。
「おれは日本式のマッサージしか知らないんだけど、それでもいいか?」「面白そうね、お願いするわ!」
アレーはそう言って、ベッドの上で横になった。待ってましたとばかりにおれは笑い、自分の服をつまんで見せながらアレーに声をかける。
「ああ、それじゃダメだな! 実は、日本式のマッサージっていうのは、お互い服を全部脱がないとできないんだ……」
あまりにふざけたおれの説明に、噴き出すアレー。
「嘘でしょ!」
アレーは笑いながらもおれに促され、着ていたタンクトップを脱ぎ始める。
アレーの白く透き通った肌が、少しずつ露わになっていった……。
次の日の早朝、おれは意気揚々とモーテルを出てバス乗り場へ行き、キルギス行きのバスに乗り込んだ。到着したらまず情報収集をして、相棒となる馬を探さなければならない。
何の保証もない、等身大の自分が試される冒険の世界に、おれはまた舞い戻ってきた。興奮が、全身を駆け巡る。おれならやれる、と心がたぎる。
……キルギスの国境は、もうすぐそこだ!
これから語られるのは、おれのリアルRPG冒険譚。まるでゲームやフィクションの世界のような奇妙で自由な冒険に、しばしお付き合いいただきたい。
(つづきは本書でお楽しみください)
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春間豪太郎
2020/10/29発売
新潮社公式HPはこちら
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春間豪太郎
はるま ごうたろう 1990年生まれ。冒険家。行方不明になった友達を探しにフィリピンへ行ったことで、冒険に目覚める。自身の冒険譚を綴った5chのスレッドなどが話題となり、2018年に『-リアルRPG譚-行商人に憧れて、ロバとモロッコを1000km歩いた男の冒険』を上梓。国内外の様々な場所へ赴き、これからも動物たちと世界を冒険していく予定。
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MAIL MAGAZINE
とは
はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
どうして自分が「考える人」なんだろう――。
手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか――手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。
「考える人」編集長
金寿煥
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