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水道橋博士による12000字激アツ書評! 『沢村忠に真空を飛ばせた男―昭和のプロモーター・野口修 評伝―』

2020年11月27日

水道橋博士による12000字激アツ書評! 『沢村忠に真空を飛ばせた男―昭和のプロモーター・野口修 評伝―』

特別寄稿「前人未到の昭和史発掘。まさに巻を措く能わず!!」完全版

著者: 水道橋博士

1973年にキックボクサー沢村忠で日本プロスポーツ大賞を、五木ひろしで日本レコード大賞を制した、二刀流のプロモーター・野口修の評伝『沢村忠に真空を飛ばせた男 昭和のプロモーター・野口修評伝』が発売されました。

著者・細田昌志氏が取材・執筆に10年を費やした、圧巻の上下2段組み560ページノンフィクション超大作。この本の元となった連載媒体「水道橋博士のメルマ旬報」を主宰する水道橋博士が、新潮社のPR誌「波」に書評を寄せてくださいました。

しかし、「それだけではこの本の素晴らしさを語り尽くせない」と、誰に頼まれたわけでもなく、溢れる想いをぶつけた原稿を自主的に執筆。その文字数、なんと12000字!

その激アツ書評を「考える人」に特別掲載することになりました。筆者、そして推薦者の圧倒的な熱量をぜひ受け止めてください!!

 異形の大著が生まれたきっかけ

 ボクと著者との出会いは、テレビ番組のタレントと放送作家の間柄だった。
 収録の合間の雑談で、彼が元ピン芸人であり上岡龍太郎師匠の破門弟子であったこと、またCS放送のサムライTV、開局時のキャスターであったこと、キックボクシングのリングアナを長くつとめていたことなど、香ばしい過去を知った。
 なにより、芸能史、格闘技史、プロ野球史を細部まで年代、固有名詞まで広く知悉し、それだけには飽き足らず自発的に取材し、ウラをとるルポライター体質の書き手であることも判った。
 しかも、既に『坂本龍馬はいなかった』(彩図社・2012年刊)を上梓していたノンフィクション作品の経験のある作家であることを認識した。
 そして、4年前の2016年、ボクが主宰するメールマガジン『水道橋博士のメルマ旬報』の書き手に加わった。
 ボクからの依頼は、芸能界実録物の一話完結のエッセーだったが、彼が書き始めたのは、重厚すぎるほど本格的なノンフィクション作品だったのだ。
 しかも、6年前から本人取材を続けている現在進行形の作品であり、序章を読むだけで、たったひとりで、この規模のノンフィクションを描くのは稀有であり、完成させることは困難だと感じた。
 連載が始まるに当たって、著者から聞かされたテーマは、1973年度にキックボクサー・沢村忠で日本プロスポーツ大賞を、歌謡界で五木ひろしの『夜空』で日本レコード大賞を制した、唯一無比のプロモーター・野口修の人生を辿る評伝とのこと。
 ここまでの実績を書き表した人は誰もいないとの触れ込みであった。
 確かに、調べてみると、マット界、芸能界で、これほどまでの実績をあげた人物の文献、そしてネット上の資料も皆無に等しい状態だった。
 また取材すべき関係者は高齢者ばかりで、物故者も相次ぎ、沢村忠・五木ひろしをはじめ主要な登場人物の取材拒否も続いていた。
 やがて彼は、この執筆にのめり込むあまり、次第に放送作家の仕事も絞りだし、経済的にも困窮したであろう。地方の取材先に青春18きっぷを片手に鈍行列車に乗る様子をTwitterで確認しては、編集長の立場としては忍びなく、彼の苦労に想いを馳せた。
 果たして、ボクがこの作品に終章まで関わり合うことが出来るのだろうか?
 その内なる疑問に出版界のツテを辿り、新潮社のノンフィクション編集部に知己を得て、出版の確約を得た。
 新人の作品で、これほどまでの大著(2段組560頁)を任されるのも異例なことだろう。
 そして、今、執筆開始から10年の月日をかけ、闇に埋もれた昭和史発掘、巻を措く能わず、畢生の大作が上梓された。
 ボクとしても感無量だ。

野口修だけでなく「野口家」を書くということ

 改めて、本書は、戦前の日本ウェルター級チャンピオン、ライオン野口(野口進)を父に持つ、日本の格闘技史に刻印されるべきプロモーター・野口修の評伝ノンフィクションである。
 父親、野口進は元日本王者で野口ボクシングジム創始者。
 弟の野口(きょう)は、元ボクシング日本フライ級王者。同タイトルは後のたこ八郎こと斎藤清作に奪われ、再戦でも敗れて引退。野口ジムの2代目会長となった。
 野口ジムは、当時、日本で唯一の世界ランカーだった三迫仁志(みさこひとし)を擁し、後に世界戦を何度も開催する日本ボクシング界の超強豪ジムとなる。
 キックボクシングのリングアナウンサーとして業界に携わった筆者は、本書の主人公の野口修の数々の実績を関係者から伝え聞く。
「タイ式ボクシングと大山道場の他流試合をプロモートした」 「キック式ボクシングを創った」「沢村忠を世に出した」「五木ひろしを世に出した」などなどの逸話だ。
 著者に当初、予備知識としてあったのは、ざっくりとこの程度であったという。
 当初は、数ヶ月、本人に集中的にインタビュー後、半年ほどの執筆期間で聞き書きの伝記として想定していたが、野口修の話には語らない事実、明らかな虚言も多く、謎が謎を呼ぶ。その後、この作品をノンフィクションで描くと決めると、ファクトチェックの泥沼に陥り、その後、10年に及ぶウラ取りが続く。
 あとがきの取材者リストを見るに、その数、人脈、リンケージに圧倒される。
 本書の白眉である逸話に、テレビ番組の収録でスタジオを去るビートたけしの背後に追いすがり、身分を名乗ることなく、突然、「あの、師匠は、野口恭の試合はご覧になっていますか」とピンポイントで一言、尋ねたものも含まれている。
 唐突すぎる質問ではあるが、我が師の答えは、半世紀以上前、中学の頃に浅草公会堂で観た野口恭のサウスポースタイルの鮮やかな描写と緻密な分析であった。
 たまたま、ボクもその収録現場に居合わせたが、著者の空気を読まない掟破りの直撃と、師匠の記憶力、当意即妙の回答には大いに驚かされた。
 著者が野口修の取材を始めた初期に故・安部譲二を訪ねている。
『塀の中の懲りない面々』で作家に転身したが、往時、暴力団に在籍したまま、野口陣営とは敵対する日テレ系のキックボクシング中継の解説者をつとめ、また家業のシノギとして興行師側からボクシングの黎明期も熟知し、渡世上、浅からぬ因縁もあった野口修について、
野口修を書くということは、野口家について書くということです」
 と、冷酷に宣告される。
「野口家っていうのは特殊な家なんです。古い関係者でも、その背景についてあまり知らないし、知ろうとしない。蓋をしているものを開けることになりかねないから。いろんなものが出てしまいかねないから。あなたは、そのことを判った上で取材をしていますか」
 まるで、これからの取材が抜き差しならない覚悟を必要とすることを突きつけられる。
 その言葉を箴言として、著者は文字通りのアンタッチャブルなパンドラの箱を開けることになる。
 それは、戦前の拳闘の草創期を遡り、錚々たる右翼、侠客、大陸浪人、国士が入り乱れ、戦後政治史、思想史、芸能史にも繋がる、果てしのない時空旅行を余儀なくさせられることであった。

 「最強の拳闘士」にして「熱烈な国士」でもあった父

 野口修の父・野口進は日本ボクシング界黎明期のスターであった。
 1907年(明治40年)、根津生まれの江戸っ子で、幼少より腕っぷしが強く、喧嘩自慢で草相撲の横綱を張り、長じて横浜の沖仲仕の重労働のかたわら、賭場や教会で開催された日本人と欧米人の他流試合「柔拳試合」に駆り出された。
 選手時代の当初は、阪急東宝グループ創業者、小林一三の異母弟である田辺宗英(後の後楽園スタヂアムの社長にしてボクシングの聖地、後楽園ホールを設立)が創立した「帝国拳闘会拳道社」(現・帝拳ボクシングジム)に所属していたが、資金難で道場が閉鎖されると、新興勢力で神戸の大親分“ピス健”こと嘉納健治(講道館の嘉納治五郎の甥)が創設した「大日本拳闘会」に所属することになる。
 当初は、柔道と拳闘の他流試合、柔拳試合のカードを組んでいたが、やがて飽きられると、嘉納健治プロモーターは拳闘興行に乗り換える。
 1927年、国技館初となる拳闘興行のメインイベントで、野口進は米人ボクサーから勝利を収め、日本ウェルター級王者を獲得する。
 ライオンと異名をとる、積極的なファイトスタイルとその強さは人気を博し、少年時代に野口進の試合を生観戦した直木賞作家・寺内大吉にして、「日本史上、最高、最大、二度と現れない豪傑ボクサー」と言わしめている。
 各地の野球場に数万の観客を呼び寄せ、延べ50戦以上を戦う人気拳闘士でありながら、野口進にはもう一つの顔があった。
 日本の右翼の源流たる玄洋社の頭山満。その後継者たる、岩田愛之助の興した右翼団体・愛国社にも属し、試合の傍ら、政治的な襲撃事件にも関与する国士≒テロリストでもあったのだ。
 今では考えられない驚くべき二刀流である。
 特筆すべきは、拳闘士を引退して国士になったのではなく、その職務を同時並行したことである。
 戦前の“昭和維新”の風のなか、軍人が政府要人を襲った5・15事件や2・26事件だけでなく、右翼のヒットマンが政治家を襲撃するテロリズムは頻繁に勃発した。
 1930年、浜口雄幸(おさち)総理が東京駅で銃撃される。浜口は一命をとりとめたが、傷口から入った細菌が原因で9ヶ月後に死亡。その狙撃犯が愛国社の佐郷屋留雄(のち嘉昭)だった。
 佐郷屋留雄は1940年、恩赦で仮釈放される。出所後、岩田愛之助の娘婿となり、その後は、戦後右翼の指導的立場になる。
 野口進は、この佐郷屋留雄の兄貴分でもあった。
 1931年の時の大蔵大臣、井上準之助邸爆破事件。ここでの主犯は、愛国社の幹部、大澤米吉だが、その弟、大澤武三郎、赤尾敏、児玉誉士夫らと共に野口修も逮捕されている。この時点で野口修と児玉誉士夫は面識があったのだ。
 1933年、元首相、若槻礼次郎立憲民政党総裁暗殺未遂事件にも野口修は関与。懲役5年の実刑を下される。
 主人公の野口修が昭和9年の生誕の時、父は獄中にあったのだ。
 しかも、この幽閉期間により、府中刑務所の同房にいた、後に「日本一の黒幕」となる児玉誉士夫と再会し、交誼を深めることになる。
 父親が収監されていた間、残された母と子は、愛国社の先輩である、上野の大澤家に面倒を見てもらっていた。ちなみに弟の武三郎は拳闘や浪曲興行を手掛けており、収益は、愛国社の運転資金に回されていた。
 野口修は、幼児期に拳闘と芸能の興行を刷り込まれることになる。
 出獄後、第二次大戦の最中、一家は児玉機関に請われて上海に居住する。
 しかし、その役割は、物資の調達ではなく、芸能の興行を担当した。
 日本からディック・ミネ、淡谷のり子などの歌手や浪曲の広沢虎造、剣劇一座を軍の慰問施設に招聘する野口興行部を興し、一家で携わることになる。
 野口修が芸能に携わる下地は既に戦下の上海にあったのだ。
 著者は、冒頭から、戦前の拳闘の勃興、黎明期の興行の込み入った人間関係、そしてテロリスト・野口進が犯行に至る動機などを巧みに整理して書き分けている。
 つまり、興行とは、競争原理のなかで敵対と手打ちを繰り返し、義理と人情の筋を通し、ケジメをつけ、持ちつ持たれつの関係性を築くことが要だ。
 そして、地下水脈は隘路を流れている。ときには分断し、ときには合流し、線として流れを作り、密に繋がり、ときには噴出し、地上に歴史の痕跡を残す。
 ルポライターは、その痕跡を回収する仕事だ。
 こうした父の代から続く、フィクサー・児玉誉士夫や大陸帰りの右翼人脈との関係は、長男・野口修にも受け継がれたが、プロモーターとしては、その存在は(くびき)とも言えるものでもあった。
 戦前から続く、興行と政財界と裏社会の繋がりで群雄割拠する、このファミリー・ヒストリーが本書の前半の読みどころである。

「野口拳闘クラブ」の黄金時代を築いたボクサーたち

 さて、敗戦後、上海から引き上げた野口一家は愛媛県の新居浜へ移る。
 そこで、野口進は、その腕力を買われて、全国の労働争議のスト破りに駆り出されながらも、四国の地で拳闘を子どもたちに無償で教える。
 そして13歳の天才少年・三迫仁志を見出す(故・三迫仁志は引退後、テレビ局員を務めた後、三迫ジムを設立、輪島功一をはじめ数々の王者を育てボクシング界の名伯楽となる)。
 奇しくも長男・野口修と同い年である。
 その後、野口進は、目黒雅叙園のお家騒動に介入、鎮圧したことから、雅叙園のはす向かいに目黒拳闘クラブを寄進され、一家は、金の卵・三迫仁志と共に上京。
 野口修と三迫仁志の二人は、まるで兄弟のように育ち、上京後も、明治高校、明治大学商学部に一緒に進学する。
 まだ十代の三迫を看板選手に父・野口進はボクシング界に打って出る。
 野口拳闘クラブには、雅叙園の厨房で働いていた元・コックの金平正紀(引退後に協栄ボクシングジムを設立)や、少年院あがりの不良少年・海老原博幸(野口ジムから金平が独立・設立した協栄ジム移籍後に世界フライ級王者を二度戴冠する)、ベビーボクシングで小学生の頃からジムに通った、後のシンデレラボーイ・西城正三(日本人初の海外での世界王座奪取後、キックボクシングに転身)など、梁山泊のごとく、その後の日本ボクシング界の俊英が詰めかけることになるのだが、それが時の変遷を経て、世界戦を巡るジム同士の戦国時代の駆け引きの強烈な伏線となっている。
 一方、大学生となった野口修は、日本で初めてのトルコ風呂を擁した4階建ての遊興施設「東京温泉」(ラッパーUZIの祖父である許斐(このみ)氏利(うじとし)経営)の利権に野口家で潜り込み、4Fで雀荘を経営、3Fのダンスフロアでは明大の学生であった野口修主催のダンスパーティ(ダンパ)をたびたび開催。そこには芸能プロを起業する前の渡辺晋や堀威夫など現在の芸能界の大立者たちがバンドのプレイヤーとして招聘されていた。
 「若い女の興味を惹かないと大衆は見向きもしない」と、元女給であった母・里野のアイデアを活かすと、連日、ダンパに人が押し寄せ、修は学生ながら「集客の天才」と呼ばれるようになる。
 時代は、力道山登場のプロレスブームの一時前、ボクシングが花形スポーツであり、ダンパには、明治大学の学士ボクサーであった三迫仁志の同学年の野球部の秋山登・土井淳のバッテリー、新居浜中学時代の同級生、慶応大学の投手、藤田元司(後の巨人軍・投手・監督)も居合わせたりする、このディテイルが実に面白い。
 この経験が野口修のプロモーターとしての原点となる。
 やがて、三迫が世界ランカーになり、世界戦が組まれるようになる。
 ここから、当時のボクシング世界戦は国家レベルの大事業であることが描かれる。
 「パスカル・ペレス対三迫仁志」の世紀の一戦が持ち上がると、野口修は1年のゼネコンのサラリーマン暮らしを経て、家業であるボクシングビジネスに携わることになる。
 1961年、弟、野口恭も日本フライ級チャンピオンに輝き、史上初の親子日本王者となる(その後、53年もの間、この記録に並ぶ親子は現れなかった偉業)。
 その祝勝会から、父・進は、禁じられていた酒を飲み続け、その9日後、まるで“緩慢なる自殺”であるかのように吐血して亡くなる。享年53であった。
 自宅の壁には、吐いた血を指でなぞって「恭チャンピオン ばんざい」と書かれていた。
 ボクシング評論家の郡司信夫は、「ともかく豪傑で、明治時代の体臭がプンプンしていた。大げさかもしれないが〝明治〟がなくなってしまった感じだ」と記している。
 冒頭に昭和史発掘と書いたが、本書の前半は、この明治生まれの豪傑の一代記でもある。

世界タイトルマッチを巡る魑魅魍魎とキックボクシングの誕生

 父の死後、野口プロのオーナーになると、修は25歳の若さで、テレビのボクシング中継のプロモートを任される。
 今でも、その慣例だが、ボクシング中継は、各局、タッグを組むジムが決まっており、野口プロは、新興のNET(日本教育テレビ、現・テレビ朝日)と手を組んだ。
 当時のボクシング中継は、日本人同士の対決が主であった。
 しかし、ボクシングブームのなか、視聴率戦争のなか、是が非でも実現したいのは世界戦のタイトルマッチである。
 1952年の白井義男以来、日本人の世界王者の二人目はまだいなかった。
 当初は、白井義男を破り、リターンマッチも退け、6年間の長期政権を築いていたアルゼンチンのパスカル・ペレスが日本陣営の標的だった。
 しかし、1960年、ポーン・キングピッチが、パスカル・ペレスを破って、タイ王国初の世界フライ級王者となった。
 その後の4年間は、ポーンが日本ボクシング界の宿敵となる。
 何度も延期され、紆余曲折の末、なんとかこじつけた「ポーン・キングピッチ vs 野口恭」の世界戦で、野口恭は敗退したが、一大国民的行事として日本中の注目を浴びた。
 しかし、この一戦を実現するためのファイトマネーの調達に、野口修は、闇ドルに手を付け、外為法違反で逮捕されてしまう。
 打倒・ポーン・キングピッチの挑戦権を巡って話は二転三転する。
 一時は、野口家の仇敵、国光拳闘会の矢尾板貞雄が対戦相手に浮上するが実現寸前に、突如引退(その後、産経新聞社の記者に転身)。
 しかし、笹崎ジム所属で世界的にはノーマークだったファイティング原田が劇的な勝利を掴むも、タイ国での防衛戦で明らかなホームタウンディシジョンでタイトルを失う。
 そして、1963年、協栄ジムながら出自は野口一門である海老原博幸がポーンを1ラウンドKOで倒す(しかしながら、翌年のリターンマッチはポーンが勝利)。
 当時の一連の世界戦を巡る水面下の騙し、騙され、権謀術数は実に興味深いが、一方でプロモーターという職業がいかに面妖で、因果な商売であることか読者の誰もが痛感するだろう。
 外為法の逮捕によりNETのテレビ中継は停止、さらに世界戦で勝利を掴むことなく弟・野口恭の引退と、立て続けに心痛を味わい、収入源を失った野口修は、新たなブルーオーシャンを見つけ出す。
 タイ王国の国技である、ムエタイ、タイ式ボクシングである。
 野口修の功績を語る上で欠かせないのが、彼が企画したタイ式ボクシングVS大山道場(後の極真会館)の対抗戦である。
 1964年、タイの首都バンコクで開催されたこの戦いは、梶原一騎原作の漫画『空手バカ一代』でも描かれているほど有名な事象だ。
 「日本の格闘技の歴史で一番のターニングポイントと言えるのは、昭和39年の大山道場とムエタイの他流試合でしょうね。(中略)あれこそが、プロ格闘技の走り(K-1創始者・正道会館館長石井和義)と評されるほどエポックメーキングな戦いであるだろう。
 石井館長の言う通り、この試合が無ければ、極真空手の人気もUWFもK―1も、総合格闘技もなかったのだから。
 野口修が、当初、対ムエタイの日本代表選手として考えていたのは、父・野口進と共に柔拳試合を戦っていた日本拳法空手道の創始者・山田辰雄率いる実戦空手の精鋭である。
 山田辰雄は、後にシューティングを創設する、タイガーマスクこと佐山聡より早く、昭和30年代に総合格闘技のルールを作った先駆的空手家であり、同じ実戦空手として大山倍達(ますたつ)の大山道場とも交流していた。
 しかも既にグローブ着用で、殴って、蹴って、投げて、寝技もある「拳法空手競技会」なる大会も、野口修の後援で、後楽園ホールで開催していた。
 山田辰雄は、結果的に言えば、ルール問題で揉め、このムエタイとの対抗戦を見送った。その後、日本拳法空手道を学んだ弟子たちは、キックボクシングの全盛期に参戦するも……格闘技の歴史からは消えてしまった。
 山田辰雄の日本拳法空手道に振られると、次に野口修が指名したのが、大山道場の大山倍達である。
 この世紀の対決を実現するために、野口修と大山倍達の仲裁に入ったのが、父・野口進と古くからの繋がりがあり、双方をよく知る佐郷屋留雄である。
 本書の巻頭から何度も名前が登場する、この人物は愛国社党員の行動派右翼の顔役だ。
 大山倍達も黒崎健時師範も、若き日は右翼活動の一員でもあった。
 地下水脈は合流。斯界の筋により、断る術はなかった。
 この一戦で極真会の黒崎健時師範が率いる大山道場は、黒崎は敗れたものの、中村忠と藤平昭雄が勝利し、3対3マッチを見事に制した。
 そして、野口修は、この試合をムエタイではなく、和製英語でキックボクシングと高らかに名付けた。これぞ、キックボクシングの発祥である。
 ここから、ハンサムでスター性のある極真空手の中村忠をエースに野口の青写真どおり、キックボクシング団体旗揚げとなれば、歴史は変わっていただろうが、総裁・大山倍達と野口修の関係は金銭問題で崩れはじめ、野口修と極真会館との関係は切れた。
 また、この対抗戦で唯一敗北した、黒崎健時は、打倒ムエタイのため、極真空手から身を引き、自らキックボクシングの目白ジムを作り、弟子の藤原敏男をして外国人として初めてムエタイの頂点・ラジャダムナン王者となった。

「キックの鬼」と「真剣勝負」

 本書は、270ページを超え、ようやく本書のタイトルになる“キックの鬼”沢村忠が登場する。
 白羽の矢がたった、彼は、本名・白羽(しらは)秀樹。
 日本大学芸術学部で、大学の剛柔流空手道部で3段を取得、「蹴りの白羽」と呼ばれるほど、運動神経に優れていた。
 野口修は、この逸材の天賦の才を確かめると「キックボクシング界の力道山」にすることを決めた。
 どんなノンフィクションの執筆過程に於いても障壁はつきものであるが、殊、マット史を取材する上で最大の障壁となるのは、それが〝真剣勝負〟であったのかどうかだ。
 真実に近づこうとすればするほど、関係者が健在であっても「墓場まで持っていく」と、徹底した拒絶に苛まれるのが常である。
 この野口修という人物に立ち向かった筆者に待ち構えていたのは、極真の中村忠の代わりに、ブームの頂点、国民的なスターとなった沢村忠(このリングネームも中村忠から頂いたものである)。
 その〝沢村忠と真剣勝負〟という、日本格闘技史における最大の難所だった。
 いや、格闘技関係者の間では、すでに決着済みかも知れないこの議論に、筆者は、当事者である野口修から絶対的な言質を取ることに挑み掛かる……。
 それが無駄だと分かると、沢村の当時の対戦相手から言質を取るために単身、タイにも飛ぶ……。
 TBSと野口ジムは〝無敵〟沢村忠の存在によってキックボクシング人気を総取りしていたものの、日テレ、NET、東京12チャンネルが相次いで中継を開始した。
 特に日テレとタッグを組んだ協同企画(現・キョードー東京)は、ビートルズを招聘した実績を持つプロモーター永島達司が立ち上げた大手プロモーションでもある。
 資金力も豊富にあった。選手にはキックから一線を画したはずの極真選手を起用した。メインイベンターの嵐五郎は、のちの極真全日本王者、世界大会準優勝の盧山(ろうやま)初雄である。
 しかし、この視聴率戦争、各局の包囲網に、野口修&TBSは、エース沢村忠の“常勝路線”で打ち勝つ。
 しかし、沢村が1970年8月には、100連続KО勝ちを記録すると、スポーツ紙はその信じがたい偉業を囃すことなく冷たく報じていた(ちなみに沢村忠の生涯戦績は、241戦232勝〈228KО〉5敗、4分けである。500戦を闘っている説もある)。
 誰もが、沢村忠の真剣勝負を疑っていた。
 中には、〝沢村に負ける予定〟だったタイ人選手が試合で突然ブック破り(裏切り)をして沢村に勝ち、そのまま逃走、後日、NETの中継に「沢村に勝った男」として登場する(逆に「沢村に勝った男に勝った極真空手の雄」の物語は、こちらも名著の『力石徹のモデルになった男 天才空手家 山崎照朝』森合正範著・東京新聞刊に詳しい。同時代の格闘技ルポとして本書と併読すれば、さらに楽しめる)。
 野口プロに対抗する他局陣営では参議院議員・石原慎太郎に「八百長を絶対に許さないのが大原則」と就任挨拶をさせて全日本キックボクシング協会のコミッショナーに担ぎ上げたりと、当時のキックバブルが如何ばかりの戦場状態であったかが窺える。
 しかし、同時に民放4局も同じ競技の中継を競合するようになった遠因は、創始者の野口進がキックボクシングの商標登録をしなかったからである。
 「何故、そこをしなかったのか?」それは父・進の盟友であった児玉誉士夫の示唆があったのか、なかったのか……本書は、そこにも言及している。

山口洋子と五木ひろし……野口修の後半生を支えた人々

 本書の後半部分は、五木ひろしと、作詞家・山口洋子について割かれた。
 野口修と長年、内縁であったとされる、作詞家・山口洋子との関係に迫るために、筆者は彼女への取材を申し込んだが、決して野口修は許可をしなかった。
 故・山口洋子は東映ニューフェイスの女優から、20歳にして銀座のクラブ『姫』のママに転身し、作詞家としても大ヒットを連発、テレビタレントとしても活躍した時代の寵児である(後には直木賞作家にもなるが、その著者のなかで、昔話として自分が安藤組の安藤昇の愛人であったことを公にしていることにも改めて驚いた)。
 往年の銀座の高級クラブ『姫』の格調高さ、芸能界のトップが集う社交場としての地位も隔世の感がある。
 『姫』のNO.1ホステスで、梅宮辰夫に見初められ、結婚、離婚。その後、女優、歌手デビュー後、沢村忠と婚約、解消した、大門節江。
 彼女が齢70で広島の山奥で一人暮らし、お好み焼き店を営むところを訪ねて、当時の真相を聞き出そうとする著者の執念にも感心する。
 「そこは枝葉末節だろうよ」と読みながら思わず呟いたが、著者は、この取材で沢村忠の心が野口進から離れていくキッカケを掴む。
 1970年11月、『全日本歌謡選手権』(読売テレビ)に突如現れた売れないプロ歌手。
 名前は三谷謙(後の五木ひろし)。
 一部の審査員にダメ出しされながらも、絶対的歌唱力と独特のムーブで毎週毎週勝ち抜き、視聴者からは局や審査員に「三谷を落とすな!」と投書が殺到する事態。
 見事、10週を勝ち抜くと、審査員でもあった山口洋子は、この逸材を自分の手で『今までにない』歌手に、是が非でもプロデュースするべく、店の顧客の渡辺晋や堀威夫といった業界の大物ではなく、大人気の沢村忠がいる事務所の社長である野口修に託した。
 後にこのことは、野口修と山口洋子の愛人関係に繋がっていく。
 そして、父・野口進も本来、異業種である右翼と拳闘の二刀流であったが、奇しくも息子・野口修もまた格闘技と芸能界の二刀流となる。
 そして、五木ひろしは、山口洋子の事細かなプロデュースにより、デビュー曲『よこはま・たそがれ』からオリコン1位を獲得し、芸能界での快進撃が続く。
 1973年はプロモーター野口修、人生最良の年となる。
 五木ひろしが『夜空』で「日本レコード大賞」を受賞した。
 しかしその実態は「賞レースは『運動』をしないと、絶対に獲れないものです」という、業界の掟、要は審査員に対する露骨な金銭買収だ。
 74年1月には「日本プロスポーツ大賞」で三冠王、通算本塁打記録を更新した王貞治を抑えて沢村忠が受賞した。
 ここでも当然、裏工作はあった。当時、出来レースで隔年受賞を続けていた読売新聞社は激怒した。
 しかしこの時、野口修は天下人を登りつめた。
 以降、野口プロのボクサー、龍反町(りゅうそりまち)(反町隆史の芸名の由来)のボクシング世界戦。
 五木ひろしのラスベガス公演。
 五木ひろしと同じく全日本歌謡選抜を10週勝ち抜いた真木ひでと(元オックスのボーカルでGS御三家のひとり)のプロデュースなどを展開していくが、運は離れていき、やがて頂からの下山を余儀なくさせられる。
 あわせて連戦の疲労が蓄積した沢村忠は1年以上も失踪する。
 沢村忠は姿を現すと、そのまま引退の道を選ぶ(そして、その手打ちの真相は……)。
 五木ひろしは、自我が芽生え、山口洋子以外の楽曲で唄うことを望みだすと、二人の関係はこじれ、五木は野口プロから独立した(故・山口洋子の著書には、五木ひろしとの確執が詳述されており、実に興味深い)。
 11年間、続いた、キックボクシング中継も打ち切られた。
 天下人、野口修は落日を迎える。
 野口修の競走馬投資への傾倒、怪しい投資話への散財、悪循環は走り出すと早かった……。
 巨大プロダクションが倒壊していく様は、ボクには近年のオフィス北野騒動により、芸人、スタッフが次々と退所していった寂寥感に重なり、胸が痛んだ。

「ノンフィクションの使命」を貫いた著者の姿勢

 筆者はこの本をノンフィクション作品と定義し、野口修の聞き書きを話の辻褄の合わないものや、彼の記憶違い、意図的な作り話については、精査した上で割愛」する主義を貫きながら厳しく執筆にあたった。
 たとえそれが野口修に「これを書き残してほしい」と哀願された話であったにしても、その原理原則を貫いた。
 特に沢村忠の八百長問題には、選手の沢村に非があるのではなく、プロモーターである野口修が強制した話であると断じて、まるで自白に追い込む、刑事の取り調べのように厳しく迫っている。
「ボクシングプロモーターという真剣勝負の世界を出自とする彼が『そうでない試合』を提供し続けた心情については、本書の性格上、避けては通れない問題である」
 と記し、何度も問いかけるが、野口修が口を割ることはなかった。
 しかし、その一方で沢村忠の試合を裁いたタイ人レフェリー、ウクリッド・サラサスの言葉をこうも引いている。
「沢ちゃんのことをよく言わない人は、いました。でも、その人だって判っていました。『沢ちゃんがいなければ、キックは続かない』ということを。選手だけじゃない。記者の人もそう。みんな判っていました」「彼が弱い選手なら、苦しまなかったかもしれない。でも、私から見て、彼は弱い選手ではなかった。彼自身も弱くないことを判っていたと思う。だから、苦しかったのかもしれません」
 日本に滞在し、目黒ジムでは、沢村忠のムエタイの先生でありながら、試合ではKО負けをしたポンサワンを筆者はバンコクまで訪ねて、
「ただ、これだけは言っておく。サームラは本当に強かった。キックもヒザもヒジも上手かった。パンチも本物だ。そのうち、教えることがなくなった。これも本当だ」
と引き出す。
 ボクはノンフィクションの使命は、歴史のなかで失われた人々の記憶のなかから、誤解に埋もれ、中傷に晒され、偉業が正確に語られることのなかった人々の名誉回復だと思っている。
 本人取材は拒否されたが、かつての大ブームの立役者である“キックの鬼”沢村忠を慮って、本書は、氏の名誉回復に何度も言及している。
 沢村忠の高視聴率に沸き狂ったテレビ局、裏金が横行する芸能界・スポーツ界の賞レース、そして真実と沈黙とリップサービスを綯い交ぜにして細田昌志を迂遠な時空旅行に追い込んだ、晩年の野口修――。
 虚実の皮膜に生きた希代のプロモーターは本書の誕生を待つことなく、2016年、享年82で没する。
 携帯電話の着信記録に残る最後の話し相手は著書であった。
 本書は鎮魂の書でもある。
 実は、ボクも40代の時、『PRIDEの怪人』と異名された興行師で、不良を自称した、故・百瀬博教氏を10年に亘って綿密に取材していた時期があった。
 書籍化のあてはなかったが、アンタッチャブルと言われた波乱万丈の怪人の実像を少年時代から克明に描かざるを得ない使命感に駆られたのだ。
 特に、侠客であった父・梅太郎の豪傑伝には夢中になって古書を漁った。
 だからこそ、本書の著者の長年に亘る執着には、心の底から、同じ性分として共感したものだ。
 この長大な物語の最終章のタイトルは「うそ」――。
 晩年、筆者が期せずして見掛けた、野口修の姿は、車椅子の山口洋子を押す姿、老老介護の姿だった。山口洋子に取材させて欲しいという依頼には、最後まで応じず、この内縁関係に真に迫ることはできなかったが、筆者は気づく。
 野口修はインタビュー中に吸っていた煙草を消すとき〝折って〟揉み消す癖があった……。
 それはまさに、山口洋子が作詞し、自身の最大のヒット曲となった中条きよしの『うそ』の歌詞ではなかったか。山口が唯一、野口修に寄せた曲ではなかったか。
 それは筆者のあくまで推測であり、「事実」以外は書かないと決めたノンフィクションのルールから溢れる「そう思いたい」――。願望の一文でもあった。
 筆者が10年の年月を費やし、鬼気迫る執念で、ノンフィクションというルールの中で「真実」を追い求めた先に辿り着いたのは、大衆がそう信じていたいだけの単なる「うそ」ではなかったのではないか。

 失われた時を求めた果ての儚さに、この大著の最後の最後にボクの心臓は鷲掴みにされた。

 更に一言付け加えれば――。

 ボクとの雑談のなかで筆者が最も好きなノンフィクションの1冊として挙げたのが、『夕やけを見ていた男 評伝 梶原一騎』(斎藤貴男・ 新潮社・1995年刊)である。
 本書は、新潮文庫(2001)、文春文庫(2005)、朝日文庫(2016)と、10年余の間に三度、タイトル、出版社を変えて文庫化されている。
 ノンフィクションの名作を支える矜持、黒子たる編集者にも連綿と続く地下水脈が流れているのだ。
 筆者が、歯を食いしばって書いた10年の歳月と残された作品は10年の歳月を超えて、必ず報われると信じる。

水道橋博士

1962年岡山県生まれ。芸人。ビートたけしに弟子入り後、1987年に玉袋筋太郎と浅草キッドを結成。現在「水道橋博士のメルマ旬報」編集長をつとめる。「BOOKSTAND.TV」(BS12 金曜深夜)に出演中。著書に『アサ秘ジャーナル』(新潮社)、『藝人春秋』『藝人春秋2 ハカセより愛をこめて』『藝人春秋3 死ぬのは奴らだ』(文春文庫)ほか多数。

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 はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
どうして自分が「考える人」なんだろう――。
手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか――手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。

「考える人」編集長
金寿煥


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