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2021年2月16日

ジェーン・スー『生きるとか死ぬとか父親とか』試し読み

ドラマ化決定! 普遍にして特別な家族の物語。

著者:

 父と娘の現在進行形ドキュメント「マイ・フェア・ダディ! 介護未満の父に娘ができること」を連載中のジェーン・スーさん。その前作にあたる、父と娘の過去やふたりを繋いだ亡き母のことを描いた『生きるとか死ぬとか父親とか』のドラマ化が決定しました!
 ジェーン・スーさんをモデルとした娘を演じるのは吉田羊さん、その父を演じるのは國村隼さん。2021年4月9日深夜0:12より(毎週金曜日)、テレビ東京『ドラマ 24』で放映される予定です。
 同作の文庫版も2021年2月27日に発売。ドラマ化を記念して、原作『生きるとか死ぬとか父親とか』の第1話を特別公開いたします。

生きるとか死ぬとか父親とか

ジェーン・スー

20年前に母が他界、気づけば父80歳、私は40代半ば。いまだに家族は増えていない。会えばギクシャク、一時は絶縁寸前までいった父と娘だけれども、いま父の人生を聞いておかなかれば、一生後悔する―。戦時中に生まれ、戦後社会に出て必死で働いた父。母との出会い、他の女性の影、全財産の喪失…。父の人生と心情に迫る、普遍にして特別な家族の物語。

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この男、肉親につき。

 我が家の元日は、墓参りと決まっている。
 「我が家」と言っても77歳の父と42歳の娘ふたりだけの限界集落ならぬ限界家族で、元日の墓参りが決まり事になったのは、母親が18年前に鬼籍に入ってからのことだ。
 待ち合わせにはいつも私が遅れてしまう。遅刻癖は父親譲りのはずだが、年寄りは暇なのか、最近は待ち合わせ時間の10分以上前からそこにいることが多い。
 2016年の元日も、父は私より早く護国寺に到着していた。頭にはチャコールの中折れ帽。ユニクロのグレーのライトダウンを羽織って、石屋さんの大時計の下に腰掛けていた。
 一日中テレビを見ながらソファに寝そべっているからだろう、腹筋と背筋が退化して、ズルリと椅子に腰掛けている姿を見ると気が滅入る。最近は派手な色を好んで着ていたのに、今日に限って全身どんよりとした色使いだ。墓場に墓石のような男がいると思ったら、それが父だった。
 「あけましておめでとうございます」
 新年の挨拶をしながら、私も店に入る。いつもは人の少ない店内も、正月は墓参りの客がひっきりなしに出たり入ったりで活気づいている。
 「こないだ来たときに着ていたブルゾンが本当に素敵だったと話していたのだけれど、今日は違うの着てきちゃったのね」
 石材店のおかみさんが、私の顔を見るなり残念そうな声で言った。おかみさんも墓石ダウンが気に入らないらしい。
 前回の墓参りに、父は真っ赤なブルゾンに私が買ってあげたボルサリーノの中折れ帽をかぶり、首にはクリーム色のカシミアマフラーという出で立ちで現れた。どこの(つかさ)(しのぶ)かと思ったら父だった。なかなか良く似あっていたので「とても文無しには見えないよ!」と最大級の賛辞を送った。
 外車でも乗り回していそうな出で立ちが栄えるこの男には、全財産をスッカラカンにした前科がある。まあ彼が自分で稼いだ金だし、私が保護下にあるときにお金のことで困ったことは一度もない。それはそれで良いのだけれど、それにしても大胆に失くしたなと感心する。
 奥から出てきた店の大おかみにも「あら、今日は赤いブルゾンじゃあないの?」と言われ、父は暑かったからとか寒かったからとか、適当な返事をしていた。続いてご主人も出てきて、同じようにブルゾンのことを聞かれていた。前回その場にいなかった二人が赤ブルゾンのことを知っているということは、おかみさんが話したに違いない。おかみさんは父の赤ブルゾンをたいそう気に入ったらしい。父は女によく好かれる男だ。

 花と線香を手に、父と緩やかな坂道を上がる。元日はたいてい天気がよく、今日も雲ひとつない青空だ。
 「俺はババア専門なんだ」
 唐突に父が言う。なんのことかと尋ねれば、(くだん)の赤いブルゾンを着ていたら、知らないおばあさんから「素敵ね! 私、その色が大好きなの!」と声をかけられたのだそうだ。ちょうど地下鉄の長いエスカレーターに乗ったばかりで逃げ場もなく、延々とそのおばあさんの褒め言葉を浴びていたらしい。
 「バアさんがさ『ほら今日の私の靴もその色よ!』って足元を指差すんだけど、どう見たって靴は茶色なんだよ」
 父が笑う。そうは言わなかったけれど、ご婦人からこれ以上声をかけられたくないから、今日はグレーのダウンにしたのだろう。背負(しょ)ってるにも程がある。
 葬式でもない限り、老人は常に明るい色を着たほうがいい。老人だけじゃない。冬になると、街を歩く中年以降の男はみんな煮しめたおでんみたいな色の服を着ていて、とてもみすぼらしく見える。地下鉄の中ではおじさんたちが揃いも揃って昆布みたいな色のセーターの上にがんもみたいなブクブクしたコートを着たりして、おでんの妖精かよと思う。

 父と私はバラバラに暮らしている。母が亡くなってから二度ほど同居を試みたことがあるが、散々だったので諦めた。
 私が子供のころ、父は煽ってきた車に窓を開けて大声を上げるような気性の持ち主だった。いまではずいぶん丸くなり、人の話を聞く素振りができる。
 三つ子の魂百までとは言うものの、実際には七十ぐらいまでではないだろうか。父を見ているとそう思う。古希を超えたあたりで「老い」という大波が絶え間なく押し寄せるようになり、否応なく尖ったところを削り取っていった。それでも花崗岩が軽石になるわけではないので、当たりどころを間違えればこちらは大怪我をすることになる。
 「マカ般若ハーラーミーター マカ般若ハーラーミーター」
 墓石に手を合わせながら、父が節をつけてお経を唱え始めた。母が亡くなってから最低10年は毎朝経典を手に般若心経を唱えていたのに、父はついにマカ般若ハーラーミーター以降を一節も記憶しなかった。どうかしている。けれど、一度も唱えなかった私よりは徳が高いと思うことにしよう。
 なんちゃって般若心経のあとはいつも「美智子さん、晋一郎さん、チカコ姉さん、ご先祖さま、いつも見守ってくれてありがとうございます。娘も私も元気にやっています」と、墓に入った人たちにお礼と近況報告をするのが父の習慣だ。
 美智子は母の名で、晋一郎は父の父、私の祖父にあたる人の名だ。父は三人兄弟の末っ子で、上は兄二人。チカコ姉さんが誰なのか、私はよく知らない。早くに死んだ姉だと聞いたこともあるけれど、それも記憶が不確かだ。伯父二人からチカコ姉さんの話は聞いたことがない。

 私が父について書こうと決めたのには理由がある。彼のことをなにも知らないからだ。一緒に過ごしてきたあいだのことはわかっている。しかし、それ以前のことはチカコ姉さんが誰なのかわからないように、はっきりとしない。一緒に過ごしてきたこの40数年だって、私が目で見て感じてきたことでしかない。いままで生きてきて一番長く知っている人のはずなのに、私は父のことをなにも知らないも同然だ。
 母は私が24歳の時に64歳で亡くなった。明るく聡明でユーモアにあふれる素敵な人だった。しかし、私の前ではずっと「母」だった。彼女には妻としての顔もあっただろうし、女としての生き様もあったはずだ。
 私は母の「母」以外の横顔を知らない。いまからではどうにもならない。私は母の口から、彼女の人生について聞けなかったことをとても悔やんでいる。父については、同じ思いをしたくない。

 墓に手を合わせ、心中で主に母への近況報告をしていたら、「武藤さんのお墓にも水を遣れ」と父が言った。
 武藤さんは向かいのお墓で、あまり人が訪ねてこない。いつからか、桶に残った水を「いつもお世話になっています」と少しだけ掛けるようになった。
 武藤さんのお墓に水を掛けるとき、私はいつもうっすら(よこしま)な気持ちを持ってしまう。10年くらい前にちょっとした金額の宝くじを当てた父は「武藤さんの墓に水をあげているから、武藤さんが当ててくれた!」と喜んだ。そんな訳はないのに、それからしばらくの間、父は武藤さんのお墓にたっぷり水をあげたり墓石に話し掛けたりしていた。
 当の本人はそのことをすっかり忘れているようだけれど、私はどうしても忘れられない。そんな馬鹿なと打ち消しながら、もう一度当ててくれないかなと、揉み手をするような気持ちでやさしく水を掛けてしまう。
 墓参りを終えたら、二人で音羽のロイヤルホストに行く。以前はホテルオークラを懇意にしていた父は「ファミレスなんて味のわからない馬鹿が行くところだ」とずっと悪態をついていたのに、スッカラカンになったらいきなり柔軟性を発揮した。いまでは「ロイホを馬鹿にする奴はわかってない」と同じ口が平気で言う。
 父は77歳にしてはよく食べる方だ。この日もパスタ付きのビーフシチューをペロリと平らげた。前回は、ハンバーグを食べたあとにフレンチトーストまで食べた。
 フレンチトーストはホテルオークラの看板メニューで、父の大好物でもある。夕食のあと母がキッチンに立ち、卵と砂糖と牛乳にバニラエッセンスを数滴入れた液体に食パンを浸していたのを思い出す。翌朝の父と私に食べさせるためだった。
 父はコーヒーを飲まず、ロイヤルミルクティーを好む。ロイヤルホストのドリンクバーには当然、ロイヤルミルクティーなどない。温かいミルクもない。植物性のコーヒーフレッシュは嫌がるので、私はいつもコーヒーカップを両手にひとつずつ持ち、ラテ・マキアート(エスプレッソと少なめの泡立てたミルク)のボタンを押す。最初の数秒だけ温かいミルクが出てくるので、左手のカップにそれを注ぐ。ゴボゴボと音がしてきたら次はエスプレッソが出てくる。私はカップをさっと引き、右手のカップを差し出してエスプレッソを受け止める。温かいミルクだけが入った左手のカップにはアールグレイのティーバッグを入れ、少しだけお湯を足す。これで簡易ロイヤルミルクティーの出来上がりだ。
 私はエスプレッソが入った右手のカップを再びマシンの下に置き、もう一度ラテ・マキアートのボタンを押す。苦み走りまくったダブルショットのラテ・マキアートが私の飲み物になる。
 父に我が儘を言われたわけではない。そもそも、私がこんな曲芸じみたことをしてロイヤルミルクティーを作っているのを父は知らない。
 なぜ周囲に訝しがられながらこんなことをしているかと言えば、それは私が女だからなのかもしれない。血の繋がった娘の私でさえ、この男を無条件に甘やかしたくなるときがある。他人の女なら尚更だ。
 女に「この男になにかしてあげたい」と思わせる能力が異常に発達しているのが私の父だ。私も気を引き締めていないと、残りの人生は延々と甘やかなミルクを父に与え続け、私は残りの苦み走った液体をすすることになる。

(つづきは本書でお楽しみください)

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ジェーン・スー

1973年、東京生まれの日本人。作詞家、コラムニスト、ラジオパーソナリティ。TBSラジオ「ジェーン・スー 生活は踊る」のMCを務める。『貴様いつまで女子でいるつもりだ問題』(幻冬舎文庫)で第31回講談社エッセイ賞を受賞。著書に『私たちがプロポーズされないのには、101の理由があってだな』(ポプラ文庫)、『生きるとか死ぬとか父親とか』(新潮文庫)、『おつかれ、今日の私。』(マガジンハウス)、『闘いの庭 咲く女 彼女がそこにいる理由』(文藝春秋)など。

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考える人とはとは

 はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
どうして自分が「考える人」なんだろう―。
手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか―手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。

「考える人」編集長
金寿煥


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