リスは秋の森で胡桃を集める。冬に備えてそれを食べ、食べきれなかった分は翌日のためにこっそり隠す。たとえば巣穴の奥へ、たとえば地面に穴を掘って。

 ところが、リスはそれを忘れてしまう。たくさんのリスたちによって埋められた胡桃が、春になるとあちこちで芽を出す。そのうちの何本かは無事に葉を広げ、すくすくと背を伸ばし、胡桃の木に育つ。

 文庫本は胡桃だ。書店は秋の森だ。町を歩いているときにふと立ち寄った店で、なにげなく見つけた文庫本を買い、持ち歩く。もちろん、読む。読みきれなかった分は、後で読むつもりで鞄やコートのポケットに、入れる。しまう。隠す。そして、忘れる。リスの流儀だ。これで次の春に芽を出す準備は整った。

 文庫本というのは、大きくて重くて持ち運ぶことのむずかしかった単行本に翼をつけたかたちだ。小さくて、薄くて、読みやすく、買いやすく、持ち運びやすい。どこへでも連れていって好きな場所で読める。しかし、持ち運ぶためのかたちは、忘れるためのかたちでもある。小さくて、薄くて、買いやすい。つまり、ちょうど忘れやすいようにできているのだ。

 本棚に差しておいたはずなのに、単行本の山に埋もれて姿が見えなくなる。そのうちに読みかけていたことも忘れてしまう。旅の途中、港のターミナルで買って船の中で読み、下船するときに旅行鞄にしまってそれきり忘れてしまった一冊もあった。

 それらがどうなったか。時が経ちすっかり存在を忘れた頃に出てきて、持ち主を驚かせ、よろこばせた。途中までになっていた物語が、新しい物語のように、また、古くて懐かしい物語のように目の前に立ち上がった。

 忘れるという選択肢のあることが私たちを自由にする。文庫本にはたぶん、あらかじめどこかで持ち主に忘れられることが織り込まれている。喫茶店のテーブルの上に、旅行鞄の底で、本棚の陰に、ひっそりと忘れられる運命。

 

 今年高校に入った息子は、生まれつきの無精者だった。

 無精者だから、だいたい荷物は最小限で済ませようとする。学生服のポケットには、四次元につながっているのではないかと疑うほど物が詰め込まれている。洗濯に出すときにポケットの中身を点検して驚いた。そもそも彼は筆箱を持たない。シャープペンとボールペンの黒と赤が一本になったものを持つ。ポケットの中にだ。それから、消しゴムもある。ポケットの中にだ。定規、マスク、ティッシュ、小銭が二百九十円くらい、メモ、学校からの配布物、自転車の鍵。いうまでもなく、ポケットの中にだ。このへんまでは鉄板だ。コンパスはさすがに危ないと思う。できれば小銭もちゃりちゃり鳴るから入れないほうがいいと思う。だって、しつこいようだが学生服のポケットの中なのだ。さて、そして、反対側のポケットに、文庫本が一冊。これでどこへでも行ける。このポケットがあれば──文庫本が入っていればの話だが──、どこへでも行ける。四次元ポケットというより、どこでもドアのほうが近いのかもしれない。

 息子の今回のどこでもドアが森鷗外だったことが意外だった。中学生だった頃、読みにくいと嘆いていたのを聞いていたからだ。家には夫所有の立派な鷗外全集がある。成人祝いに揃えたものだそうだ。二年ほど前、息子が中の一冊を手にとってぱらぱらめくり、重いし、古くさいし、などと困り顔をしていたのだった。それが、今、ポケットに鷗外。彼はいったいいつ、この文庫本を選んだのか。そしていつこの文庫本を開いているのだろう。

「阿部一族、おもしろかった?」

 尋ねたら、ほんの少し黙ってから、

「どこにあった?」

 真顔で聞いてきた。君の学生服のポケットの中だよ。

「せっかく寝かせてたのに」

 うまいことをいう。忘れていたくせに、寝かせておいたとは。

 でも、彼はいったのだ。

「一度寝かせてからまた読むと、なんだか深く読める感じがするんだよ」

 リスだ、と思った。全集は土だったのか、水か太陽だったのか。いつか埋めた胡桃は忘れた頃に芽を出して、やがて大きな木に育つ。そこになった胡桃を、リスはまたよろこんで夢中で齧るのだろう。

(「考える人」2014年夏号掲載)