私、岡ノ谷一夫、生まれも育ちも北関東、栃木県足利市です。はい、皇室に背いた逆賊の土地で御座います。幼い頃、昭和40年代は、家の前の大きな公道も砂利道で、馬がかぽかぽ歩いておりました。馬糞を集めて芋を焼くと、それはそれは美味しゅう御座いました。家の前の公道は例幣使街道と言いまして、家康没後、日光東照宮に幣束などの奉納品を運んだ使いが通った道で御座います。今はもちろん舗装され、車がびゅんびゅん通っておりますが。
 家の回りは田んぼばかりで、蛙の歌、虫の声が子守歌だった。近くの用水路に飼っていたアヒルたちを行水させに行くのが楽しみだった。
 そういう時代だったから、今ではあり得ないことが多々起きていた。先生と生徒の関係も今では考えられないほど親密であった。たとえそれがなんらかの力の行使を伴うものであっても。そういうわけで、前回に続き、教師の思い出を綴る。今回は中学時代の先生のことを。中学では小学校に比べるとより多くの先生に接することになる。私の通っていた足利市立協和中学校は、名物先生の巣窟であった。もちろん、「今思うと」である。当時は、中学というのはどこでもこのような恐ろしいところなのかと思っていたから。

 中学生になって最初の英語の授業で、私は英語が生半可では身につかないことを知った。連載2回目でちょっと書いたNT先生である。最初の授業で全員にあだ名をつける先生である。NT先生はまず、「英語はおまえらにはできん」と言った。「嘘だと思うなら、LとRの違いをちゃんと発音できるかやってみろ。いいか、まずLだ。でも目をあけていると余計なことを考えるから目をつぶってからだ」。NT先生は生徒一同に目をつぶらせると「エール」と言った。発音できそうな気がしたが、僕は黙っていた。「次にRだ。いいか、いくぞ」。そして先生は「アウー」と言った。これは手強そうだ。無理かも知れぬ。観念した。次に先生は、名簿順に名前を読み上げ、生徒たちに順繰りにLとRを発音させた。生徒が無難に「エル、アール」と言うと、「だめだ、エール、アウーだ」とだめ出しをした。先生は40名すべての生徒にだめ出しをし、不敵な笑いを見せた。「まあ、おまえら中学3年やっても俺みたいな発音はできねえ。あきらめるんだな」。
 先生は、授業のルールを伝えた。「いいか、俺が問題を出したら、まず目をつぶれ。答えがわかったら手を挙げろ。誰かを指して、答え終わるまで目をあけちゃだめだ。」「問題を出して誰かを指名する前に、俺が『ご苦労さん』と言うことがある。もしそのとき手を挙げてなかったら、お前ら椅子の上に正座しろ。正座している奴がもう一回『ご苦労さん』を喰らったときには、今度は教壇まで出てこい。しごいてやる」NT先生は、重くて固い棒にビニールテープを巻いた「しごき棒」を持参していた。私も数回、しごき棒を喰らったことがある。かなり痛いしこぶができる。が、翌日には治る程度のこぶである。「いいか、間違ってもかまわん。手をあげてない奴がしごかれる」NT先生は約束を守っていた。そして僕が驚いたのは、たまに薄目をあけてみんなの様子を観察すると、NT先生の規則を全員受け入れていたことだ。これは何なんだ。
 NT先生はわが中学の軟式庭球部(テニス)を関東大会準優勝まで持って行った庭球部顧問である。生徒はみんなそれを知っていたから、滅茶苦茶なことをやっていてもそこはかとない敬意を抱いていたんだと思う。そして僕は、少なくとも問題を出されたら考えるようになったし、挙手するようになった。授業内容は正直覚えていないのだが。僕はNT先生に憧れ、軟式庭球部に入った。ところが、階段昇降で息を切らしているところを部長に見つかり、「君は無理だね」とあっけなく首になってしまったのだけれど。
 
 次に国語のBT先生だ。この方は、連載2回目で、漢字テストをやって間違いを50回ずつ書かせてくる鬼の先生として紹介した。BT先生の講義では、国語ではなく漢字をやっていた。課題文を一通り読ませる。そして、そこに出てくる漢字を板書して練習させる。課題文が一通り終わると、漢字テストである。漢字テストでは、課題文に出てくる漢字を含む文章(例:濁流にも負けぬ愛と誠の力)が10題出題され、間違ったものは文章と共に翌週までに50回書いてくるのである。国語の時間は、漢字テストの成績の良い順に、窓側後ろの席から並ばされた。宿題をやってこない者は廊下側の席に座らされた。宿題は翌週提出しない場合は100回、次には200回と増えてゆく。これを溜めると浮かばれない。
 3回提出しなかった者は「特殊学級」とされ宿題は免除されたが、授業中は『少年マガジン』または『少年サンデー』を読むことが強要された。教科書を読んで授業に参加していることが発見されると、BTの大きな平手が後頭部から襲いかかり、生徒は机に鼻をぶつけ、時折出血する。でも中学生は鼻血を出す動物であり、ダメージは思いの外少なかった。BT先生のきまぐれにより時々「恩赦」があった。恩赦により特殊学級の面々は講義に参加することができた。彼らが授業に参加する権利を与えられたときの喜びの表情は忘れられない。

 たとえ45年前の田舎でも、このような教育は場合によっては問題にされる危険はあったろう。しかし、私たち生徒は誰もこの二人のやり方について他の先生に相談することはなかった。教室のことは教室で解決すべきと思っていたし、不条理な目には遭ったが、結局みんな勉強する意欲は持っていたのだ。結果として、劣等生はそれなりに、優等生もそれなりに、英語や漢字を身につけることができたのだから。そして、NT先生やBT先生のことは、悪口は言っていたが、しかし本当に嫌いな生徒はほとんどいなかったと思う。私たちも、先生方が私たちを嫌っているとはちっとも思わなかった。野蛮ではあったが、精神的に追い詰められたことはなかった。だから私たちは彼らを暴力教師とは呼ばなかったし、先生が怖くて学校を休むこともなかった。
 もちろん、このようなやり方でなくとも教育は可能である。教師はその知識と品性によって生徒の尊敬を得ることができるはずだ。教師たるものそうすべきだろう。しかし、この二人の先生は、彼らなりに教育することに命をかけていたのだと思う。教育委員会に告げ口されるかも知れない。一部の生徒に闇討ちされるかも知れない。手加減に失敗して生徒に怪我をさせてしまうかも知れない。これらのリスクを引き受けた上で、あのような教育をしてくれていたのだと思う。教育者と生徒の間には、情動にもとづく絆が必要なのだ。誤解を承知で言うと、これは第四の肉体関係なのだ。第一は異性の、第二は同性の、第三は親子の、肉体関係であり、あのころの教師と生徒の間は野蛮な情動で結ばれた第四の肉体関係なのだ。(つづく)