銅版画・オバタクミ


 六月のある日、夜の山でムササビを観察していたら、突然、頭上でギイーンと長く引きずるような音がした。何かがきしむような、バイオリンの弓を、音が出ない程度に弦とこすり合わせたような、聞いたことのない音だった。
「木の音だよ」
 案内してくれていたムササビ観察家の友達が言う。
「えっ? 木の音なの? でも風も吹いていないし……」
「たまにあるんだ。昔の人は、こんなときに天狗がきたって思ったのかもね」
 人がいなくなる「天狗さらい」、木がバリバリ音を立てる「天狗倒し」、人の悪心が見通されたときに聞こえる「天狗笑い」など、山で怪異が起きる天狗伝説は日本各地にある。天狗という言葉はもともとインドで流星を意味した「ウルカ」の漢訳で、わが国では『日本書紀』に初めて登場するらしい。そんなことを思い出しながら「ギイーン」の音を聞いていると、彼の天狗分析には妙に説得力があった。
 もちろん、鬼火にも幻聴にも原因があるように、あの「ギイーン」にも科学的には原因があるに違いない。分かっていても、夜中の山という環境で聞くと、それはとてつもなく不思議で、恐ろしい音に聞こえる。慣れてくると木がきしむ音だと分かるのだが、いまだに、引きずるような響きがどうやって生まれるのか見当がつかない。きしみが反響したのだろうか。いずれにせよ、私にはバイオリンのように聞こえた。木のきしみという実音と反響、それと私に聞こえた音の間に、ギャップがあったわけだ。

 このように、実音と聞こえる音のギャップや予想外の反響を、私は「音の忍(しのび)」と呼んでいる。実は夜中の山にかぎらず、この忍は私たちのすぐ近くにも潜んでいる。
 小学校二年生のとき、東京に大雪が降った。早速近所の原っぱでそり遊びをしたのだが、そのとき「やったあ」と叫んだら、どこからか「やったあ」と自分の声が返ってきた。毎日みんなと遊びまわっている原っぱだ。普段はどんなに叫んでも、こんなことは起こらない。驚いて、今度は「ヤッホー」と言ってみた。するとまた「ヤッホー」と返ってきた。雪が融けはじめると、この現象はなくなった。いま思うと、雪の吸収や反射によって私の声が周囲の建物に当たり、反響したのかもしれない。
 私は「山彦に会えた!」と、感動を作文に書いた。先生は「町で山彦は起こりません」とけんもほろろの評価を下した。あの現象は山でのみ「山彦」と呼ばれ、たいていは「反響」で片付けられてしまうことを知ったのは、もう少し大きくなってからである。どう呼ぶかはともかく、これも「音の忍」である。
 昨今私を最も悩ませている「音の忍」は、高架の駅や地下鉄の島式プラットホームでよく現れる。ホームの両側に線路があり、天井がある環境だ。電車を待っていると、後ろ側に入ってきた電車があたかも目の前に来たかのような錯覚に見舞われ、下手をすると信じて乗ろうとしてしまう。島式ホームでなくても、ひとつ向こうの線路に電車が来ると、乗るべき電車と勘違いして乗りそうになる。私は何度も、乗り込もうとし、空っぽの線路に転落しそうになっている。駅の天井の高さや素材の関係で反響しやすいのだろうか。私はこれを、「音の忍」のなかでも特に「幽霊電車」と呼んで恐れている。
 この「忍」は、子どものころ歩行訓練を受けていたときにはあまり問題にならなかった。高架や地下鉄がまだ発達していなかったからだろう。職場の移転や引越しで大人になってから歩行訓練をしていただいたとき、訓練士さんに「電車誤認はよくありますから気をつけてくださいね」と教えられてはっとした。
 なるほど、頻発する「ヒヤリハット」はこうして起きていたのだ。少しでも気を抜くとだまされるので、徐々に識別技術を獲得しつつある。電車が来たら、目の前の空間に注意を払い、大きな物体があるという圧力を確認する。ドアが開き、人が降りてくる質感(私は「実(じつ)気配」と呼んでいる)を確認するまでは、動かない。これで「幽霊電車」にだまされない確率がだいぶ上がった。だが、過信は禁物と自戒している。電車がいないのに乗ろうとしている「シーンレス」(全盲を意味する私の造語)を見かけたら、「幽霊電車」にやられている可能性大なので、すぐに声をかけてストップさせていただけるとありがたい。
 こういうのはいただけないが、「音の忍」の正体が分かれば、彼らを探すのはなかなか楽しいゲームである。喧騒のなかでも耳を澄ますと、音楽が反響したり人声が壁伝いに回ったりと、修行の足りなそうなやつが紛れ込んでいることがある。
 されど、相手は「忍」ですぞ。くれぐれもご油断召されぬよう。

(「考える人」2016年夏号掲載)