表し得ないものを、あえて語ろうとする者は、表し得ないものの実在を信じる者である。少なくとも天心はそうだった。人間が十全に表現することのできない、万物に遍在するはたらき、天心にとってそれこそが「美」にほかならなかった。「美は宇宙に遍在する根本原理であった」と述べたあと天心はこう続けた。

星辰の光に閃き、燃立つ花の色に、飛ぶ雲の動きに、或は流水の運動にその光を放っている。天地の大霊は天人共に行き亙り、宇宙生命の黙想によって我々の前に展開した。(『東洋の理想』村岡博訳)

「天地の大霊great World-soul」は「美」の異名にほかならない。『東洋の理想』がヴィヴェーカーナンダの思想に強く影響されていることはすでに見た。ヒンドゥー教における「天地の大霊」は、絶対的一者である「ブラフマン」と呼ばれる。それに対し、個別の存在者は「アートマン」という。
 ブラフマンとアートマンの関係は不可逆であり、また不可同でもあるが、同時に不可分でもある。ブラフマンのはたらきは、あらゆるアートマンにはたらいている。むしろブラフマンのはたらきがなければ、アートマンは存在し得ない。すべてのアートマンは、ブラフマンを分有する。
 万物は、絶対者である「神」を内に蔵しているとヒンドゥー教では考える。アートマンを通じてブラフマンを認識すること、それがヒンドゥーの道であり、天心がヴィヴェーカーナンダから受け継いだ「不二一元論」の道にほかならなかった。『東洋の理想』で天心が試みていることもブラフマンとアートマンの関係を念頭に置くと理解がしやすいかもしれない。美は人間が作りだすものではなく、むしろ美によってこの世界が存在している、それは天心のほとんど信仰といってよい思いだった。
 この本におけるブラフマンは「美」である。天心はそのはたらきを東洋美術の歴史に瞥見しようとしているのである。
 『東洋の理想』の題名と「アジアは一つである」という一節だけを見れば、ヨーロッパの帝国主義から脱出しようとする政治的アジア主義を煽動する本のように見える。だが、目次を見るとそれとはおよそ異なる構造になっていることに気が付く。
 日本の古代美術にふれたあとは儒教、老荘思想、仏教にふれ、飛鳥、奈良、平安、藤原、鎌倉、足利、豊臣、徳川、さらには明治と、時代ごとに日本美術の歴史を語るという構造になっている。ここだけを眺めていると、この本の副題with Special Reference to the Art of Japan のとおり、日本美術の便覧のようにも見える。
 だが、本文を読んでみると天心がつねに「美」を宗教、哲学、さらには霊性との関係において論じていることに気が付く。『東洋の理想』は、近代日本で最初の美の形而上学を論じる試みでもあったのである。
 ここでの「霊性」とは、特定の宗派、宗教に依拠せずに人間を超えたものと繋がろうとする人間に内在する聖性を求める本能だといってよい。
 この本では、幾度も「霊 spirit」あるいは「霊性 spirituality」という言葉が用いられている。鈴木大拙の『日本的霊性』の刊行が四十年以上あとであることを考えるとこの本の霊性論としての先見性を無視することはできない。「足利時代」の美術を論じながら、天心は、霊性とは人間の内なる「炎」であるという。

日本の美術は、足利時代の名匠以来、豊臣および徳川時代にわずかに退歩したとはいえ、依然、東洋的ロマン主義の理想――すなわち美術におけるもっとも高次な営為としての霊性の表現(the expression of the Spirit)を堅守してきた。この霊性(the spirituality)はわれわれにあっては、キリスト教初期教会の教父たちの絶対禁欲主義でもなければ、ましてや擬ルネサンスの寓話的な理想化でもなかった。それはマンネリズムでも単なる自己抑制でもなかった。〔日本における〕霊性とは事物の根源をなすもの(essence)であり、その生命となるもの、また万物において魂の顕現を促し、内に燃える炎として認識された。(筆者訳)

 これまで天心が霊性を展開した思想家であるという指摘は、あまりされてこなかった。理由はいくつかあるのだろうが、従来の翻訳がspiritには「精神」を、spiritualityには「精神性」の訳語を当てていたこともその要因の一つだったのではあるまいか。また、天心における「美」の探究が、求道者における「神」のそれに等しいものだったことも見過ごされていたように思われる。
 弟子たちはそのことを強く感じていて、天心との関係も単なる師弟関係とは別種の深まりをもっていた。それは尊敬を超え崇敬の域に達する。一九一四(大正三)年、天心の没後から一年が経過したとき、日本美術院の再興を期し、大観が天心を祀る神社「天心霊社」を建てているのはその現われだろう。そこには狩野芳崖、橋本雅邦、菱田春草の霊も祀られている。
 先に「美術家の宗教は美術宗にあり」(「狩野芳崖」)という狩野芳崖の言葉を天心が紹介しているのにもふれた(第二回「観音の遺言」)。芳崖は「人生各自独立の宗教なかるべからず 」とも語ったという。宗派、党派によらない独立の宗教、それが先に天心が語っていた霊性にほかならない。この本に内実通りの題名を付すとすれば「東洋と美の霊性」となるのかもしれない。
 もう一つ、天心の著作の訳語で問題だったのが「芸術」である。「東京美術学校」「日本美術院」というように天心は意図して「美術」という言葉を用いている。彼が英文著作でartと書くときもその背景にあるのは「美」の「術」としての「美術」である。だが、いくつかの訳ではそこに「芸術」という言葉をあてがっていた。
 現代における「芸術」という表現にすでに、天心が「美術」に見ていた、生き生きとした、ときに壮絶な生命の生成を惹起させる語感はやどっていない。天心にとって「美」と「美術」は同じではなかった。美術とは「美」という不可視なものをこの世に顕現させようとする営みにほかならない。それは祈りが、神をこの世に招き入れるものに近いものだった のである。泥土から蓮の花を生むかのような試みですらあった。
 絵を描く弟子たちに天心は、風景ではなく空気を描けといったと伝えられる。このとき空気は美の異名である。同質のことを彼は言葉を紡ぐとき、自らに課している。文字の奥に生まれるものを読者と分かち合うこと、それが著述家としての天心の試みだった。
 岡倉天心は詩人であるといったら、あまりに「文学的」過ぎるとのそしりを受けるだろうか。それを傍証するものとして、詩劇「白狐」や晩年に彼が愛する人に送った手紙に記された詩編を挙げることもできる。
 だが、こうした事実とは別に、私たちは残された三冊の著作を開くときもしばしば、詩情のほとばしり文意を逸脱するかのような飛躍にも出会う。むしろ、天心は詩情のちからを借りて自らの思想を語るのに長けていた。さらにいえば、彼に宿った思想は、詩情の力なくしては世に顕現することのできないものであった、といった方がよいのかもしれない。
 天心の著作を読むときは、研究者の精確な眼だけでは足りない。霊性を語る言葉を読むとき、読者もまた霊性の窓を開き、天心がいう内なる「炎」によって読まねばならないのではないだろうか。