高島嘉右衛門の学校に学ぶ

 天心岡倉覚三は、一八六三(文久二)年、横浜に生まれた。
 だが、この記述も精確ではない。彼の親が付けた名前は「角蔵」だった。父親は武士だったが、明治になって商人になった。一家は、かつては朝倉家の家臣で、朝倉を名乗っていたが、あるときから「朝」を「岡」に変え、岡倉の姓を名乗った。子供は、文字通りこの新しく商家となった家の蔵の角で生まれた。
「角蔵」ではなく「覚蔵」だったという説もある。父は幾度か改名するのだが、覚右衛門と名乗っていた時期があるからだろう。どちらであったとしても、のちに本人はこの文字が気にいらず、自分で「覚三」と改めることになる。いつのことだったかは分からない。だが、遅くても十代の終わりにあたる学校の記録にはすでに「覚三」と記されている。
 明治維新は、徳川幕府から天皇家への政権の移動というよりも、文字通りの革命だった。このことは今一度再考されてよい。この革命が起こったとき、角蔵は七歳である。視座の、あるいは地位の逆転が起こり、価値と意味の転換があらゆるところで生起した。政治の問題として起こったが、それは宗教、芸術、学問といった分野にも強く影響した。新政府の樹立と明治憲法の発布に象徴される行政、立法の世界で起こった変革は、市井の人々にも大きく影響を与えた。多くの革命においてそうだったように、変わってはならないものさえも変えようとした。のちに天心は、美の世界において、形而上の問題において、この無秩序な「改革」の波と闘うことになる。
 当時の横浜は、今日のような大都市ではないが、すでに国際社会にむかって開かれた場所だった。横浜からは欧米の文化、風俗が日本に流れ込んだ。その一つが英語である。角蔵もその影響を一身に浴びることになる。彼が英語を習い始めたのは八歳のころだった。『岡倉天心全集』(平凡社)の年譜によると、彼がまず学んだのはジェイムズ・バラーの私塾で、その後、高島学校に学んだと記されている。この高島学校をめぐって、天心の息子岡倉一雄の評伝『父 岡倉天心』には次のように記されている。入学したとき天心はすでに十歳になっていた。文中に出てくるジョン・バラーはジェイムズの弟である。

当時の横浜では洋学に志すものすこぶる多く、その需要に応ずるために二、三の英学校を営む英米人があった。なかんずく、米人ヘボンの居留地に開いた語学校と並んで、伊勢山下に設けられた高島学校は出色のもので、教師としては、ジョン・バラーが教鞭を執っていた。そして、その語学校を出た幾多の人材は、やがて来たった明治文化の発展に協力し、相当の寄与をなしているようである。天心もまた、同校に入学を許可され、ジョン・バラーから英語の基礎教育を施された。

 一見すると何気ない記述だが、天心の生涯を考えるとき、いくつか重要な問題をはらんでいる。高島学校は、単に優れた語学学校だっただけではなかった。創立者は高島嘉右衛門で、横浜市の都市基盤を作った実業家である。同時にこの人物は、占いを論じた『高島易断』の著者でもあった。だが、今日流布している「高島暦」と高島嘉右衛門の間には直接的な関係はない。高島の生涯は、松田裕之の『高島嘉右衛門 横浜政商の実業史』に詳しい。
 高島が、明治実業界の大人物であることは異論を俟たないが、この人物をめぐる評価となるとさまざまな意見がある。江戸時代末期一八六〇(万延元)年、高島は金貨密造の罪で逮捕、投獄される。そこで出会った人物に易を教わった。六五年に赦免され、このとき、名前を嘉右衛門に改めた。もともとの名前は「嘉衛門」といった。
 経済活動は、現代人が感じているよりよほど霊的な才能を必要とする。現代でも優れた実業家が同時に優れた霊的感覚をもっていることは少なくない。ことに明治のような変革期にはそうした人物によって時代は牽引された。ここでの「霊的」とは、いわゆる貧しきスピリチュアリズムとはまったく関係がない。人間を超える大いなる存在、働きにむかって開かれていることを指す。高島はその典型的な人物だった。そうした力は人と彼を結びつけることにおいても強く働いた。一八七〇(明治三)年、高島は、伊藤博文と大隈重信に東京横浜間に鉄道を通す必要性を強く訴え、実現にこぎつける。横浜に今もある「高島」という地名は、このときの彼の働きに由来する。
 高島学校が開校されたのは翌七一年で、七三年には高島の手を離れている。松田の評伝によると、高島学校は、六歳以上の子供に教育の機会を提供するという目的で開校された。そこでは英語をはじめとした洋学のほか、四書五経を教え、『易経』に至っては高島が自ら教えたとあるが、岡倉一雄の言葉にあったように人々には語学学校として広く知られたというのが実情だったろう。だが、高島にはさらなる目的があったように思われる。人が時代を作ることを高島は熟知していた。
 先に引いた一節にもあったが、この短期間に高島学校は、幾人かの逸材を輩出している。天心のほかには、のちの総理大臣寺内正毅、寺内内閣の外務大臣をつとめた本野一郎、分野は異なるが、内村鑑三と札幌農学校時代から親友だった、のちに植物学者になる宮部金吾も高島学校に学んでいる。入学したとき、角蔵は十歳、宮部は十二歳だった。
 のちに宮部が札幌農学校で植物学を講じたノートが残っている。この草稿を彼はすべて英語で書いている。彼にとっても若き日に高島学校で英語にふれた経験は小さくなかったと思われる。少年だった宮部と角蔵がどのくらい接近し得たかはわからない。だが、秀逸さにおいて同年代の二人が周囲の注目を集めただろうことは想像に難くない。内村は高弟とも一度ならず訣別を繰り返すような苛烈な人物だったが、宮部と内村の友情は特別で、生涯変わることがなかった。
 内村鑑三と岡倉天心に面識はなく、二人の著作を見ても互いに関する言及はない。年齢は内村が一歳上になる。現象的に接点はないといってよいが、精神史的に考えるとき、話は変わってくる。鎖国時期を文化の胚胎期として積極的に認識していることにおいて、また、「霊性」あるいはspiritualityを論じた最初期の日本人であることにおいて、さらには明治期に英語で著作を発表している点において接近する。こうした共振を考えるとき、宮部を間に内村と天心をつなぐわずかな線の痕跡を見付けてみたくなる。
 明治精神の意義と実相を考える「福沢・岡倉・内村 西欧化と知識人」と題する論考で丸山眞男が、「内線回路」という術語をもちいて三人を貫く時代精神に言及しているが、こうした交差が、高島学校で起ころうとしていたことは注目してよい。高島嘉右衛門は、学校に福澤諭吉を招こうとしていたのである。破格の条件を提示し、福澤に運営を任せようとした。
 このときすでに福澤は慶應義塾を開いている。この企図が実現することはなかったが、申し出を無視したわけではない。福澤は高弟たちを教師として高島学校に送りこんだ。ここでは詳論する紙幅を持たないが、福澤も高島と呼応するような精神界への鋭い触覚の持ち主だった。彼が宗教に関心を示さない、いわゆる合理的な人物だったというのは俗説に過ぎない。後年、福澤は、キリスト教のユニテリアンに接近する。高島は、優れた実践家に息づく霊性、高次な意味における宗教性を感じとっていたのかもしれない。
 高島学校で英語をはじめとした、洋学を講じたのは、福澤門下の人々だった。このとき、福澤の思想は、弟子たちを通じて、という間接的なかたちであったとしても天心に流れ込んでいる。また、福澤諭吉の精神が天心にもっとも強く接近するのは九鬼隆一との邂逅においてである。九鬼はあるとき福澤に出会い、強く惹かれ、志願して慶應義塾の門を叩いた。文部省官僚として第一線で活躍するようになった九鬼と福澤の関係には紆余曲折があり、福澤とその周辺に抗する行動に出ることもあったが、九鬼の福澤個人への敬愛は変わることはなかった。
 のちに九鬼隆一は、文部省につとめていた若き天心を登用する。この人物こそ、天心の才能をいち早く、また、はっきりと認めた人物だった。九鬼は、哲学者九鬼周造の父であり、その妻波津子は、ある時期天心と親密な関係を持った。そのあとも九鬼と天心をめぐっては、人生の節目で複雑な出来事が起こることになる。

英語というもう一つの「眼」を開く

 英語を学びはじめた角蔵の上達ぶりは目を見張るものがあった。言葉は乾いた海綿に水が吸い込まれてゆくように少年に浸透して行った。英語において、「とくに会話は、英米人の間に立ち混って退けをとらぬまでに上達し、英文もまた、一通りの意見を書きあらわすに差し支えなくなっていた」と岡倉一雄は評伝に書いている。
 新しい言語を身につけることは、異なる文化圏に暮らす人々との対話を実現する。だが、言語を会得したことによる可能性は、そうした可視的なことだけに収まらない。習熟すれば、もう一つの「眼」を開くことになる。習得する前には見えなかったものが、外国語の単語一つを知ることで見えて来ることがある。二十世紀ドイツの言語学者レオ・ヴァイスゲルバーが、言語と世界認識をめぐって興味深い指摘をしている。人間は、それぞれ用いる言語によって世界を別に認識しているというのである。
 たとえば、星座を知らない者がOrionという英単語を学び、空を見上げると、オリオン座が存在するようにも見えて来て、暗闇と点在する光だった空間に意味が生まれる。だが、そもそも天空には読みとり得る空間が広がっているだけで、何かを読みとることを強いるようなものはない。
 さらにいえば、オリオン座という天空の分節の仕方は、西洋の天文学の常識であって、東洋にはまったく異なる星の読み解き方がある。同じことは雑草という言葉をめぐっても言える。雑草であるかどうかは、人間における有用性において判断される。植物療法を学ぶことで雑草に埋め尽くされていると思われていた光景が、薬草の沃野に見えて来ることもある。
 それぞれの人間、それぞれの文化、それぞれの時代が、固有の世界を認識している。異なる文化に生きるとは、別様に世界を見ている、ということでもある。たとえば、英語のbeautyは、たしかに美を意味するが、古い日本語では「美し」と書いて、「うつくし」とだけでなく、ときに「かなし」と読む。「かなし」は、「悲し」だけでなく「愛し」とも書く。もちろん、loveと愛も同じ事象を意味しているのではない。loveは、恋とも違う。日本語を母語とする文化圏においては、美はどこかで、悲しみと愛おしさとつながっている。英語とは異なる多層的な世界を構築している。この感覚のまま、英語のbeautyを読んでゆくと文意の誤差は著しく拡がって行く。
 それならば言語を習得するたびに世界観が変わるかというと問題はそう単純ではない。どんなに外国語を流暢に話すようになっても、母語を消し去ることはできないからだ。言語は意識的現象であると共に深層意識と深くつながっている。いわば表層的な意味を示す外的言語のほかに、人は誰も生来的に内的言語の体系をもっている。外国語を抵抗なく読み書き、話すことができたとしても、意識下では母語への翻訳が毎瞬行われているのである。
 だが、それだけならば文化間の交わりは閉鎖性を深めるにすぎない。相異するものと対峙することは自己を見つめる絶好の契機になる。母語とそれ以外の言語の差異が正当に認識されるとき人は、外国語を通じて、母語をより深く、また微細に認識することができる。新たな言語は、母語を通じて認識する世界の像を、微細によりはっきりと映し出すレンズのような役割をもっている。
 角蔵と英語に言及し、随分と遠いところに来たと思われるかもしれない。だが、これまで論じてきた言語と世界認識の問題はまさに、角蔵、そしてのちに覚三、天心となった、この人物のなかで実現されていったのである。
 流暢な英語を話す少年に周囲の大人たちは驚いていた。高島学校に入り、英語を覚え始めたころだった。角蔵の母が産後の肥立ちが悪く急逝してしまう。それからしばらくして、残された父と角蔵が出掛けたときのことだった。二人は東京と神奈川の境を示す標識を見る。父は角蔵に読んでみろという。しかし、角蔵は一文字も読むことができない。母親が逝き、子供の世話を一身に背負った父は急遽、息子に日本語の教育を始めた。
 外国語の学習と並行して角蔵は、一家の菩提寺だった長延寺の住職玄導によって、『大学』、『中庸』、『論語』、『孟子』の四書をはじめとした和漢の古典を通じて、東洋の文化を徹底的に教え込まれる。このことは、角蔵が若くして英語に出会ったことに勝るとも劣らない影響を彼に与えた。幼いといってよい時期において少年のなかで西洋と東洋は高次なかたちで出会っているのである。角蔵において英語は、新たな世界を開いただけでなく、母語である日本語を、さらには日本、東洋の文化を見つめ直す契機になった。
 美術において天心は、どこまでも日本文化の源流にさかのぼって行く。それは国境を超え、東洋、後年の彼がいうアジアの霊性にまで深化する。『東洋の理想』の冒頭にあるASIA is one,「アジアは一つである」という宣言の言葉は、彼がけっして狭隘なる国家主義者などではなかったことを明示している。
 生前天心が刊行した三冊の著作はいずれも英語で書かれている。このことも、幼いときに英語を学んだことが彼のなかでいかに決定的な出来事だったのかを静かに、しかし、はっきりと語っている。

「同志」フェノロサ、そして狩野芳崖との邂逅

 その後角蔵は、十二歳で東京外国語学校、十四歳のとき東京開成学校に給費生として入学する。この学校は翌々年、東京医学校と合併、東京大学となった。角蔵はそこに籍を移し、第一期生として学んだ。井上哲次郎、牧野伸顕らが同級だった。
 その翌年一八七八(明治一一)年にアメリカから教師として招かれたのが、アーネスト・フェノロサだった。フェノロサは一八五三年にアメリカ・ボストンの郊外セーラムに生まれた。天心よりも九歳年長なことになる。ハーバード大学でスペンサーやヘーゲルの哲学を学んだ。彼に来日の誘いを送ったのは大森貝塚を発掘した動物学者エドワード・モースだった。モースはフェノロサが来る前年に来日している。フェノロサは、政治学、経済学、哲学を教授の立場で講じ、月給は三百円という高額を約束された。米が二十六キロで一円の時代だったと山口靜一は書いている。天心はフェノロサの講義を聞いている。だが、天心自身が残した記録からは、彼が教師としてのフェノロサに強く衝撃を受けたということはなかったように思われる。
 高額の金銭を手にしたモースは日本美術の収集をはじめた。フェノロサもそれに刺激を受け、同じ道を行った。フェノロサはほとんど日本語ができない。しかし、日本美術への研究熱は高まって行く。そこで通訳が必要になり、その役割を担ったのが角蔵だった。二人を結びつけたのはそれぞれの美をふくむ形而上的なものへの関心だったろうが、ここに英語を通じて身につけた角蔵の感性があったことを見過してはならない。二人のあいだにあった生徒と教師という構図は、しばらくすると日本の美を探究する「同志」へと変貌していく。
 さらに彼らの活動にふれる前に、東京大学在学中のいくつかの出来事に言及しておきたい。一つは角蔵の結婚、もう一つは彼の卒業論文である。
 一八七九(明治一二)年十八歳のとき角蔵は、大岡もとと結婚し、彼女は翌々年には長男一雄を産んでいる。天心は、もとのことを、元子あるいは、「おもと」を意味して「重戸」と書いたこともある。晩年には基子と書くようになった。ここでは「元子」と書くことにする。
 入籍して、妻が子供を身籠っても、まだ十代の青年が急に父親になれるものではない。角蔵は学び、咀嚼し、それを表現することに強く惹かれる。一八八〇(明治一三)年、卒業を控えた角蔵は卒業論文に没頭する。彼はそれを英文で書いた。主題は国家論だった。しかし、若くして妻であるだけでなく母になろうとしている元子の眼に角蔵の姿はあまりに自分勝手に映った。妻は夫の手から論文を奪い、燃やしてしまう。
 残された時間は二週間しかなかった。角蔵は美術論を書き上げかろうじて卒業した。成績の順位は下から二番目だった。「『美術論』の代りに『国家論』が認められていたならば、天心の進路は別方面であったかもしれない」と岡倉一雄は書いている。だが、ここで注目すべきは限られた時間で彼が論じたのが国家ではなく、美術だったことだろう。彼のなかで美の経験、美の形而上学は形成されつつあった。
 当時、大学は七月に卒業した。同年の九月、天心はフェノロサの通訳として、京都・奈良の古寺を回っている。このことからもフェノロサと天心の関係が教師と生徒とは別な結び付きだったことが、そして、フェノロサの天心に対する信用の深さがうかがわれる。
 よく知られたといってよいと思われるが、国の調査ということで当時、法隆寺の秘仏となっていた救世観音の覆いをとるのはこのときではない。四年後、一八八四(明治一七)年のことである。二人の動向をめぐってはのちにもふれる。東京美術学校に収斂する近代日本における美の探究の遍歴において、天心、フェノロサ、さらにウィリアム・ビゲローを加えた三人の邂逅の意味は極めて大きい。その影響は日本だけでなく、アメリカ・ボストンに、さらには変貌しながらインドにまで及ぶのである。それらを論じる以前にふれておかなくてはならないことがある。日本画家狩野芳崖との邂逅である。
 狩野芳崖はフェノロサの指導により、新たな画境に至り、近代日本美術に緑野を切り拓いた。天心はこのときフェノロサの通訳として働いた、というのが「定説」になっている。だが、こうしたフェノロサ理解は著しく公正を欠く。そう強く説くのは『狩野芳崖 受胎観音への軌跡』を書いた中村愿である。
 ここで問題になるのは、芳崖がフェノロサの「指導」につき従うかたちで、いわばフェノロサの腕となって画を描いたという点、さらには、天心はあくまで通訳として受動的に働いたのであって、主体的な発言はいつもフェノロサから出ていたという暗黙の理解である。芳崖、フェノロサ、天心の関係にふれ中村は、いつ芳崖と天心が出会ったか確たる証拠はない、と断りながら次のように記している。

フェノロサと覚三は国籍・年齢の違いをこえて、ほとんど同志と言っていい関係にあった。古都の奈良・京都を旅し、画家に質問し、通訳し、説明しつつ、ふたりは共に学び、啓発しあい、切磋琢磨しあったというのが、事実に近いであろう。そのようななかで、明治十三年の秋ごろ、岡倉は狩野芳崖をフェノロサに紹介した。わたしが芳崖と覚三の出遇いを、それ以前の明治十二、三年のことだと推定する根拠のひとつである。

 一八八〇(明治一三)年に天心が芳崖をフェノロサに紹介した、という記述は、天心自身が口述した記録によっている。この記述が正しければ、フェノロサと芳崖が出会う前に天心が芳崖に会っていなくてはならない。天心にフェノロサとの会見を求められた当初、芳崖は「毛唐人などに用はない」(『父 岡倉天心』)と声を荒らげたという。面会が実現するまでには、かつて長府藩士で武士の魂を具したこの画家を、天心が再三にわたってなだめなくてはならなかった、と岡倉一雄は述べている。
 激しい拒絶にはじまったこの出会いが、近代日本美術を大きく変えることになる。二人を知ったあと芳崖は、山水画も描いたが、「伏龍羅漢図」「不動明王」「仁王捉鬼図」など天界の光景を熱情的に描き出した。代表作は最後の作品にもなった「悲母観音」である。
 画の力における、芳崖の熾烈なまでの秀逸さは、先に挙げた作品のうち一つでも見ることができれば、誰の眼にも明らかである。色と線によって不可視な世界を顕現させる力量は追随する者はなく、ほとんど独歩の境域にあったといってよい。
 また、「仁王捉鬼図」に典型的に見られるように芳崖は、優れた色彩画家でもあった。のちにミケランジェロを見た天心は、芳崖をこのルネサンス期を代表する色彩画家に伍すると語った。この絵には当時の日本にはなかった西洋の画料が用いられていることが指摘されていて、そこにフェノロサの指示を見る意見もある。だが画家にその色彩と共振する世界観が内在していなければ秀作は描けまい。絵具があれば絵を描けると思うのは、言葉を知っていれば文章を書けるというのに似て、実相からは遠い。
 一方、フェノロサを美術史家のように紹介する文章を散見するが、彼の姿を捉えきれていない。この人物はたしかに日本美術に魅せられたのだが、彼がたどり着いたのはむしろ「宗教」の世界だった。天心と法隆寺で秘仏を見た翌年、一八八五(明治一八)年に彼は、友人ビゲローと共に三井寺法明院の桜井敬徳阿闍梨によって受戒し、仏教徒になっている。二人を桜井敬徳に紹介したのはおそらく天心だった可能性が高い。その六日前に天心も同様に受戒している。
 ビゲローはフェノロサに勝るとも劣らない深さで天心の生涯を横切ることになる。彼が来日したのは、フェノロサの来日から四年後である。彼がフェノロサ、天心と知り合うのに時間はかからなかった。想像を絶するほどの資産を有していたのだろう。評伝『父 岡倉天心』で岡倉一雄は、ビゲローを「暴富」と書いているが、どのように富が形成されたかは詳しく述べられていない。
 この人物に関しては清水恵美子、山口靜一の著述に詳しい。日本に来たときすでにビゲローは海外でふれた日本美術に魅せられていた。自身とその父は医学者だが、それだけでは「暴富」とまでは行かない。彼の母方の家が東洋貿易で巨万の富を手にしていたのだった。東洋からもたらされた富を、ビゲローは日本美術を購うのに用いることになる。また、「仏教」への帰依は真剣なものだった。天心との交流は仏教を媒介にしつつ最晩年まで続いた。ただ、彼にとっての「仏教」は、キリスト教と並ぶ一宗派ではなく、宗教における宗派性を超えて行く可能性を蔵した霊性のかたちだったことは注目されてよい。

芳崖の絵に描き出される「霊性」

 芳崖が亡くなったあとに天心が書いた「狩野芳崖」と題する一文がある。そこで天心が語ったのも霊性の画家狩野芳崖の姿だった。原文の送り仮名は片仮名だが、以下には平仮名に直して引く。
 そこで天心は、「翁常に言ふ、人生各自独立の宗教なかるへからす」と書き、芳崖が、人にはそれぞれ独自の「宗教」がある、と語っていたと述べている。ここでの「宗教」は、今日通常用いられている表現とは意味を異にする。それは、ビゲローが仏教に感じていたように特定の宗派の彼方を指す。
 天心と同時代に生まれた浄土宗の僧で山崎弁栄(一八五九~一九二〇)という人物がいる。数学者の岡潔が深く帰依した光明主義の開祖である。弁栄との出会いがなければ数学者としての岡の仕事は大きく変わっていただろう。弁栄はきわめて優れた宗教者だったが、同時に近代日本黎明期に、「霊性」という表現を思想的術語として体系的に用いた最初の人物でもあった。
 先に内村と天心にふれ、二人がともに「霊性」を論じていることに言及したが、彼らの霊性論といえども弁栄には質量ともに及ばない。弁栄は、鈴木大拙が『日本的霊性』を著す半世紀前に霊性の形而上学と呼ぶべき体系を樹てている。天心と弁栄の関係はのちに改めてふれることがあるだろう。二人は共にインドを訪れている。彼らにとってインドは釈迦の生地であり、アジアの霊性の淵源だった。
「宗教」と「霊性」の関係をめぐって弁栄は次のように書いている。

霊性は絶体無限の大霊に接触する機関である。大聖釈迦神の子キリスト其他の聖人衆の大なる金剛石の霊性に心霊界の太陽と仰ぐ所の真神即ち無量光如来の大霊光が反映したる光輝が東西に一切の人類界の霊性を照したるが即ち宗教である。
(『弁栄聖人遺稿要集 人生の帰趣』)

 霊性は、大霊と呼ぶべき大いなるものにふれる「機関」である。彼方なる世界から射し込む光が、釈迦、キリストといった聖者を通じて世界を照らし、人間に内在する霊性に働きかける、それが「宗教」だというのである。こうした意味に従って、先の天心の一節をもう一度読んでみる。「人生各自独立の宗教なかるべからず」、超越的世界にむかう道は、人それぞれ異なってよい、というのである。この一節に天心はこう続けている。

美術家の宗教は美術宗あり、復た何そ他に之を求めんやと。而して翁か画学上に於て最も切に論弁したる所は照応の理是なり。

「美術宗」との一語は、柳宗悦がいった「美の法門」を想起させる。彼らにとって美術とはついに高次の「宗教」に達するものだった。ここで「照応」とは、大いなる世界と人間界が共振することを示す。その様を、そのつながりを描きだすことが芳崖の眼目だったというのである。天心の芳崖論は、この画家が人に語り、筆記させた数ページにわたる絵画論を引用し、終わっている。そこには次のような求道する画家の内心の事実がまざまざと描かれている。芳崖はこう語った。「博く古人の筆意を脳裏に蔵し、普く内外の妙画を胸中に蓄へ、運筆に熟し意匠に富むに非れは紙幅に臨み自在なる能はさるは言を待す」。画は、個人の営みではなく、古人との協同だと芳崖は信じた。自分の手が画くのではなく、歴史が自分を用いるというのが彼の実感だった。
 天心とフェノロサ、そして芳崖が試みたのは、日本美の再発見と西洋美との融合であるよりも、東西霊性の邂逅である。弁栄が霊性を語るとき、釈迦とキリストを一なる役割をになった二つの存在として述べていたが、芳崖の絵に描き出されているのも同質の次元である。
 この世において宗派はしばしば強く衝突する。だが、霊性の次元において宗派は、互いを補い、高め合う。仏教を信じる者が観音と呼ぶものを、キリスト者は聖母と呼ぶかもしれない。描かれている幼子に生まれたばかりのイエスの面影を見るかもしれない。芳崖の悲願の表現となった「悲母観音」は、狭義の仏画ではない。もっとも高次な意味での「宗教画」であり、霊性の表現だった。
 一八八八(明治二一)年、芳崖は「悲母観音」を残して病に斃れた。六十歳だった。天心とフェノロサが心血を注ぎ設立した東京美術学校の教員に内定していたが、彼が教壇に立つことはなかった。だが、芳崖の試みは、その後、天心門下の大観、春草、観山をはじめとした画家たちに受け継がれた。天心の高弟たちが描きだそうとしたのも「霊性」の世界、「照応の理」だったのである。



主な参考文献

井筒俊彦著作集 第四巻 意味の構造』(中央公論社)
岡倉一雄『父 岡倉天心』(岩波現代文庫)
岡倉天心全集 別巻』(平凡社)
清見陸郎『天心岡倉覚三』(中央公論美術出版)
清水恵美子『岡倉天心の比較文化史的研究』(思文閣出版)
中村愿『狩野芳崖 受胎観音への軌跡』(山川出版社)
松田裕之『高島嘉右衛門 横浜政商の実業史』(日本経済評論社)
山口靜一『三井寺に眠る フェノロサとビゲロウの物語』(宮帯出版社)