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イベント当日は、テーマに合わせたフェアが展開されていた。
 

上岡 ここに加藤さんからお預かりした「『敗者の想像力』で取り上げなかったテーマのリスト」というのがあるのですが、太宰治の名前があります。『敗戦後論』でサリンジャーは太宰、特に『トカトントン』との関連で登場するわけですが……。

加藤 そうですね。太宰が面白いのは、彼は戦争が終わったあと、戦争について直接触れる話は一切書かなかったことです。「薄明」という短編があります。とても好きな作品で、『敗戦後論』に取りあげていますが、これは太宰の上の女の子が実際に目の病気になってしまい、両目が見えなくなったまま空襲のもと、親子が逃げ惑う体験をもとにしています。ところで太宰はこれを、八月一五日の終戦体験に重ねている。この戦後いち早く書かれたとおぼしい短編は、読むと、そう感じさせます。この女の子の眼がようやく開くと、そこに現れる薄明の視界のなかで、空襲後の焼け跡がくすぶっているのですが、それがそのまま八月一五日をへた視界に重なる。そうすると、眼病で一時的にまぶたがあかなくなった女の子にとっては、戦争が終わる前と終わったあとというのがいわば手で目を覆われているかたちですから、本当にぼんやりと切断することなく繋がっているんですね。八月一五日はとてもよく晴れていて、そこに天皇の言葉が降ってきた、一挙に軍国日本から民主日本に変わったというような印象は、彼女から見える世界にはまったくない。ただ薄明があるだけ、という作品なのです。
 その感じが、太宰にとってのある種の抵抗というか抗いを示しているように読める。終戦を扱った文学の多くは、それまでは暗かったけれども、終戦を境に明るくなった、というようなものなのですが、そうではなく、ずっとぼんやりとした薄明のまま、終戦前のぼんやりした明るさも、戦後に残るぼんやりした暗さも描き出されている。そういう感じが、非常におもしろい。

上岡 勝った側のサリンジャーが大義に対して白々しい思いを抱くようになったのと、似たような感覚を太宰は戦中から抱いていた、ということになるでしょうか。しかも、戦後の民主主義にも同じように馴染めない。アメリカ文学に話を戻しますと、実はベトナム戦争よりずっと前に負けた戦争を戦った人たちがいる。それは南北戦争の南部なんですね。フォークナーがこのリストに挙がるのはその関係です。
 日本の敗戦は、自分たちが悪かったと認めざるを得ない形で訪れました。結果として、じゃあ、その戦争で国のために死んだ人たちはどうなるのか、という大きな問題が残った。そういう、間違った大義のために戦ってしまったことから生じる疚しさが、実はアメリカでも南北戦争のときにあったんですよね。何しろ奴隷制を守るために戦ったんですから、正当化しようがない。フォークナーが作品を書いたのは1920~30年代で、南北戦争からは60~70年が経っています。けれども、その罪の意識みたいなものを抱えていて、それ故にフォークナーをよく表わす言葉として、アンビバレントということが言われます。『アブサロム、アブサロム!』の「どうして南部を憎んでいるんだ? いや、憎んでない!」という複雑な思いは、その代表例です。

加藤 今回、この対談のためにこれを読み直して気づいたのですが、この『アブサロム、アブサロム!』においてクエンティンという語り手の青年は、南部を出てハーバード大学に進む。そういう形でそういうアンビバレント、屈折が書き込まれているんですね。ティム・オブライエンの『本当の戦争の話をしよう』という作品の中にある「レイニー河で」という短編を思い出しました。

本当の戦争の話をしよう

ティム・オブライエン/著
村上 春樹 /翻訳

1998/2/1発売

上岡 「レイニー河で」の主人公は、本当はリベラルな人間で、20歳のころは戦争になんかに行きたくないと思っていた。けれども、自分がもしカナダなんかに逃げて徴兵を免れたら、父親と母親は自分が生まれ育った町の中で「おまえの息子は臆病者だ」と言われて生きていくことになってしまう。葛藤しながら、家出をしてカナダ国境の手前まで行った彼は、そこで六日間を過ごす。でも、結局自分は臆病だった。それで、家に戻って戦争に行く……。という話ですよね。

加藤 はい。冒頭で主人公のところに召集の手紙が来たとき、彼はクエンティンと同じハーバードに大学院特待生として行くことになっている。戦争になんて「戦争はすばらしい」とか「アメリカには大義がある」とか本気で思っている、そういうバカな右翼の連中が行けばいいじゃないか。なんで、自分みたいにリベラルな人間が行かなきゃならないんだ。そんな風に思っていたのに、結局は自分は「勇気がなかったので戦争に行った」、と最後のほうで呟く。実に忘れられない作品です。
 あと、ハーバードではなくてプリンストンですが、フィッツジェラルドの『グレート・ギャッツビー』は田舎出身の学生が主人公の話です。クリスマスになると都会育ちの学生はニューヨークなどに帰るのですが、彼らは中西部の田舎に帰る。プリンストンでのフィッツジェラルドの友人には南部出身者で南北戦争後の敗者の物語である『愛国の血糊』を書いたエドマンド・ウィルソンがいます。彼の小説には、中心から少し外れた感じ、少し離れたところから東部の都会に出てくる、そういうなかに勝者ではない人間の想像力が現れていると感じます。

上岡 フィッツジェラルドは名門の流れを汲む家に生まれているんですが、実際には貧しく、その劣等感を抱えて生きていきます。名門高校から名門大学に進んで、まわりは金持ちばっかりなのに、自分は貧しい。金持ちに憧れ、強烈に勝ち組になりたいのに、負けた側にも共感してしまうのは、そういうところから来ていると思います。妻のゼルダは南部出身で、その恋愛をモデルに「氷の宮殿」という短編を書いています。南部出身のヒロインが北部出身の男と婚約し、一緒に北部に行くのですが、結局北部に馴染めずに南部に戻ってしまう。あれなんかを読むと、南部の価値観にも共感を抱いているのがうかがえますね。

加藤 なるほどなるほど。とても喚起的なお話ですね。

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書籍紹介

敗者の想像力

加藤 典洋/著

2017/5/17発売

テロと文学

上岡 伸雄/著

2016/1/15発売