慶応義塾大学文学部では、1年生は日吉キャンパスで一般教養を学ぶが2年生になると田町の三田キャンパスで専門課程に進む。日吉と三田とは徒歩も入れると1時間以上かかる。ギター部の練習は毎週土曜で、月に一度は三田だったがその他は日吉だった。僕は三田、三宮さんは日吉に基本いたわけだが、「ライ麦畑でつかまえて」の1エピソードにかこつけて三宮さんを有栖川宮記念公園に逢い引きに誘うことに成功した僕は、その後しばしば三宮さんと逢瀬を繰り返していた。
 僕はその頃、柴田翔の「されどわれらが日々――」や「贈る言葉」に強く影響を受けており、自分たちの関係の独自性を尊重するあまり、これに何らかの名称関係(たとえば恋人のような)をつけることを拒否していた。いや、そのような名前でこの物語を描く勇気に欠けていただけだったのかも知れない。だからここでも、頑なにデートとは言わず、逢い引きや逢瀬など、旧い言葉を使おうと思う。
 僕たちの逢瀬は、その前の週に僕が彼女に貸した本についての感想を語り合うことが中心であった。そのため、語り合うに適した場所をよく歩いたものである。その後は、今は無き渋谷の五島プラネタリウムで星空を見ながら休み、渋谷で食事して解散というパターンをたぶん1年半の間に50回くらいは繰り返したと思う。僕はその後、比較的遠い実家から通っていた三宮さんを家まで送り、恵比寿またはその後引っ越した久が原の下宿に帰って行った。そのような逢瀬が1年半も続いたことは今思えば驚くべきことで、つまりその間にいったい僕たちは何冊の本を一緒に読んだのだろうということである。
 当時、村上春樹が登場したばかりで、『風の歌を聴け』、『1973年のピンボール』など初期の作品は出てすぐに二人で読んだ。三宮さんは1973年のほうをより気に入っていたようだが、僕は風の歌が好きだった。特に「いやなやつ」と書き置きを残して同棲していた女の子がいなくなってしまうシーンは、僕も一度そんな目に遭いたいものだと羨ましかった。そう言えば、『三四郎』も一緒に読んだ本だ。三四郎が旅の行きずりの女性から掛けられた「あなたはずいぶんと意気地のない方ですね」という意味の言葉のほうであれば、僕はその後の人生で何度か言われたことがあると白状しておく。  
 村上春樹以外のいわゆるベストセラーは僕たちはそれほどは読まなかった。覚えている本を挙げておく。畑山博『海に降る雪』降っても降っても積もらない雪に自分の気持ちの通じなさをなぞらえていた。シュトルム『みずうみ』学問を選び恋人を故郷に残した老人の後悔を自分の将来のように読んでいた。深沢七郎『楢山節考』なぜこんな小説を20歳やそこらで読んでいたのかよくわからない。小説というより生物学書のような趣が印象に残っている。倉田百三『出家とその弟子』死すべき者が持つ愛の喜びを考えた。大宅歩『詩と反逆と死』、高野悦子『二十歳の原点』など、死を意識し続けた若者の手記もよく読んだ。
 三宮さんも僕にお勧めの本を教えてくれた。彼女はかなり渋い翻訳物が好きで、サローヤン、シンガー、カルビーノなど、普通まず読まないような外国文学を読んでいた。僕は三宮さんに推薦された本は、大学のレポートよりよほど優先して読んでいた。
 僕はこのように読書を逢瀬の口実にして、そのためものすごい勢いで本を読み、うち三宮さんが喜んでくれそうな本を彼女に貸していた。彼女は驚くべき速さで本を読んできて、そして的確な感想を述べてくれた。しかしそれが永遠に続くはずもない。僕も疲れ、彼女はもっと疲れていたのだろうと思う。
 ある日彼女は、ギター部の他の男、荒川から逢瀬に誘われたと言った。僕たち自身の関係に名前をつけないことを美徳としていた僕には、そのことを禁じることができなかったが、そのことで僕自身が非常につらい気持ちになるだろうと伝えた。彼女は荒川と逢瀬に出かける予定の日、蟄居していた僕に電話をくれ、「やっぱり断った」と伝えてくれた。
 その後このようなことが何度か起こり、そのたび僕は「自分がつらい気分になる」こと以外は伝えず、決定を彼女に委ねた。決定を彼女に委ねながら、自分のつらさを伝える、そのこと自体がいかに卑怯なことなのか、僕には気がつかなかったのだ。僕は僕たちの関係を観念的に捉えすぎており、話し合うことですべてを解決すべきだと考えていた。話し合うということにも権力や操作が含まれることにさえ、僕は気づいていなかった。いや気づいていたはずだ。自分で決定する強さと自信を僕が持っていなかっただけだ。畢竟、僕は矛盾を引き受ける用意を持たない頭でっかちな子どもに過ぎなかった。
 当時のことを振り返ると、このような僕に1年半にわたり寄り添ってくれた三宮さんの当惑と苦労に気がつく。そしてある日、彼女の口から「そんなに本読めないよ。私はあなたが考えているような女の子じゃないんだよ。いろいろな人と付き合ってみたいよ」という意味の言葉が流れだし、会えなかったクリスマスの日に関係を解消したいとの手紙を受け取ったのであった。
 僕はその頃、三田の専門課程で本格的に動物心理学の実験を始めていた。僕の時間はギター部と三宮さんと実験とに三分されていたが、何をしていても三宮さんのことを考えていた。三宮さんの手紙は丁寧であったが、もとの関係に戻ることは一切あり得ないであろうことは明白であった。
 僕はいろいろな美意識を持って、それらの美意識で相手をがんじがらめにしていたのであった。しかし最も大きな罪は、勇気がなかったことと自分の欲望を引き受けられなかったことではないかと今は思っている。僕は3年時の定期演奏会を最後にギター部には出なくなり、三田の動物実験室に閉じこもるようになった。音楽で感じる情動が人間固有なのか、それとも動物にもそのような情動があるのか。これを調べる実験を計画し、実験装置を作るため毎日のように秋葉原に通った。研究に没頭する以外に三宮さんのことを忘れることはできなかった。二人で読んだシュトルムの『みずうみ』の主人公みたいな老人に、僕は早くもなってしまったようであった。