1980年代前半、学生の政治意識は低く、学生運動は沈静化しており、大学は社会人になるためのモラトリアム期間であることがほぼ公然と認められていた。これを「大学のレジャーランド化」と批判する人々もあった。大学に入って学生運動くらいやってみようと思っていた僕だが、結局はギター部に入ってあっさりとノンポリ学生として過ごしていた。それどころか、男子高校で過ごした3年間の反動で、遅すぎた発情期を迎えていたのであった。今なら間違いなく中二病と呼ばれていたであろう。
ギター部に入った1年の春、同級生の女の子たちが次々と上級生たちのガールフレンドとなってゆくのを横目に見ながら、臥薪嘗胆の日々を送ること1年、ついに僕も大学2年生となり、桜吹雪の中で女子部員の勧誘のため、ギター部宣伝タテカンの脇で、ギターを弾いていた。その甲斐あってか、数名の女子部員が入部してきた。もちろん男子部員も入部してきたわけだが、そいつらのことはまあどうでもよい。
ギター部の練習後、僕たちは日吉で練習があるときには駅を越えて喫茶店「パンダ」を、三田で練習があるときには田町駅への慶応仲通りから少し脇に入った喫茶店「ナイアガラ」を目指した。喫茶店なので酒は飲まない。反省会と称して無為な時間を過ごすのである。ところが僕は歩くのが遅い。ギター部の行列は30-40人もいるのだが、たいてい最後尾をのろのろとついていくのであった。歩くのが遅い理由は、てきぱきと歩くてきぱきとした人間になることに青臭い抵抗を感じていたからである。
大学2年になった僕は、依然として最後尾をのろのろと歩いていた。そして5月になったころ、最後尾をのろのろと歩く僕に並んで歩いてくれる女の子が現れた。新入部員の三宮さんである。僕は歩くのも遅いが食べるのも遅い。三宮さんも食べるのが遅く、喫茶店で僕と並んで食事することで、自分がビリにならないで済むから、という理由で僕たちはのろのろと歩いていた。食べるのが遅いのならてきぱきと歩いて早めに喫茶店に着き、早めに食べればよいものを。しかし当時のギター部は全員喫茶店にそろってから注文をするという美しい習慣があったので、早く着いても意味がないのだ。最後尾が僕たちにとって最適解なのであった。
そのようなきっかけで、僕は三宮さんと話す機会が増えてきた。三宮さんは都立高校の出身、僕は田舎の男子校の出身だったが、常に何か本を持ち歩いているという共通点があった。三宮さんは英文科志望だったので、僕としてはサリンジャーの「ライ麦畑でつかまえて」を紹介しないわけには行かなかった。この本は米国のとある中二病高校生の話であり、果たして東京育ちの都立高校出身の女子が興味を持つのかどうか自信はなかった。が、無神論者の僕が神に誓って言うが、この時点で僕には不純な動機は一抹もなかった。だから、彼女がその本をどう思おうがかまわない、むしろ気持ち悪くて読めないと言ってくれても良かったのだ。
ところが翌週のギター部の練習後、三宮さんは「あの本のおかげで徹夜をしてしまった」という。そしてあの本の「暗いところがたまらなく好きだ」という。そのころ、とある芸能人が「暗い」という言葉を人間として最低の価値として使用し出していた。誰だったか忘れたが。しかし僕はひそかに「暗い」ことを揶揄する人間を軽蔑していた。人間は自己意識を持ちながら宇宙に一瞬しか存在できない不条理な存在であり、その「暗さ」を見つめ、その「暗さ」をその人それぞれのやり方で受け入れることが文学的な人生であると信じていた。そこに現れたのが「暗さ」を価値として受け入れてくれる新入部員女子である。僕はまず人間として彼女に興味を持った。しかしこの時点で僕は恋に落ちていたのは明らかであった。
かくして、不純な動機は純粋な動機になった。その年の夏の合宿は海辺であった。どこの海辺であったのか覚えていない。空き時間に僕は海辺で貝殻をひろっていた。そこにどこからか大きな犬が現れた。犬は嫌いではない。犬と戯れながら海辺で独り遊んでいると、「犬だー」と叫びながら三宮さんがやってきた。僕と犬と三宮さんは、浜辺で意味もなく戯れていた。僕のメタ意識は、しっかりと青春をやっている自分を見つめて当惑していた。
僕は彼女と本を読むために本を読んだ。彼女の視線で本を選び、購入した。それらの本の中で、彼女が確実に読んでくれそうな本を彼女に貸した。そして彼女は多くの場合それを一晩で読んで「暗い」と言って返してくれた。僕たちはどこが「暗い」のかを巡ってひとしきり議論をするのであった。男子校出身の僕にとって言葉以外に女性に近づく方法はなかったのだ。
「ライ麦畑でつかまえて」で、ホールデン・コールフィールドはニューヨークセントラルパークのアヒルたちのことを心配する。アヒルたちは冬になったらどうしているんだろう。池が凍ってしまったら、アヒルたちは足が凍ったまま飢え死にしてしまうのではないか。僕らはそんな会話をした。僕はそのころ恵比寿に住んでいて、広尾の有栖川宮記念公園にしばしば散歩に行っていた。そういえばあそこにもアヒルがいたっけ。「有栖川宮記念公園のアヒルは冬の間どうしているか見に行こう」それが、僕が女の子を初めてデートに誘った言葉であった。そして彼女はその誘いをすんなりと受け入れてくれたのである。僕はまるで奇跡を起こしたかのように有頂天であった。
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岡ノ谷一夫
帝京大学先端総合研究機構教授。1959年生まれ。東京大学大学院教授を経て、2022年より現職。著書に『「つながり」の進化生物学』『さえずり言語起源論』などがある。
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とは
はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
どうして自分が「考える人」なんだろう――。
手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか――手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。
「考える人」編集長
金寿煥
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