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おかぽん先生青春記

 前回の予告通り大学時代の読書の話をしよう。代々木ゼミナールで有意義な時間を過ごした僕は、慶応義塾大学に補欠合格し、クラシカル・ギタークラブに所属した。ギター部でのいろいろは前にも書いたが、ギター部の女子たちと会話する最適な武器は読書なのであった。読書それ自体は好きであった。が、読書に「不純な動機」が加わってしまったのである。ギター部には「不純な動機」で入ったわけではなかったが、ギターを弾くことよりも女子部員たちと仲良く語らうことが目的にとって代わって行ったように、読書も女子部員との交流の道具になり果てたのだ。まあ19歳前後の男などそのようなものであると、今なら余裕を持って言える。あのころの僕の生活を考えると90%くらいは「不純な動機」で成り立っていたのではないだろうか。

 そういうわけで、大学1年の夏休みには自分なりの必読書リストを作り、郷里足利に帰省して毎日図書館に通った。当時の足利には冷房の効いた図書館がなかったが、上杉憲実が1439年に開校したという日本で一番古い学校、足利学校史跡があった。史跡には緑陰図書館というものがあり、足利学校の周りの林の中に机とベンチが設置され、木陰で本を読むことができた。今考えるとこれは贅沢な時間であった。

 まずは世界の古典を読まねば、と思った。大学生に伝わる歌で、「でかんしょ」というのがあった。一説によるとこれは、デカルト、カント、ショーペンハウエルのことであり、大学生ともなればこれらを読むのが当然であるとは、北杜夫の青春記から吹き込まれたことかも知れない。そこで、デカルトの『方法序説』から読み始めた。無理に面白いと思って読み切ったが、頭には何も残らなかった。次にカントの『純粋理性批判』を読み始めた。こちらも無理に読み始めたが2割程度で挫折した。カントに興味を持つために人物伝を読んだが、毎日同じ時間に散歩したとか、生涯童貞であったとか、そんなことしか頭に残らなかった。後者の真偽は知らない。

 そこで哲学系はさておき、古典文学を読むことにした。ゲーテの『若きウェルテルの悩み』を高橋義孝訳で読み、こんな昔の文学が自分の心を掻き毟ったことに驚いた。それで引き続きゲーテ、高橋義孝訳の『ファウスト』を読んだ。驚くべきことに、これも僕を八つ裂きにした。「時間よ止まれ、君は美しいから」。このように、哲学はしばらく先にすることにして、文学を読んでいこうと思った(なので、実は方法序説も純粋理性批判もまだ読了していないのである)。その後、マノン・レスコーや椿姫など、情けない男が小悪魔的女性に翻弄される小説を好んで読んだ。そしてそのような恋愛こそが真の恋愛であるという思い込みに浸り、大学4年間は情けない男として小悪魔的女性を求め続けていたような気がする。読書ではないが、このような価値観は高校時代によく観た「男はつらいよ」にも責任がありそうだ。このへんの考察はまた改めて。

 夏休みが終わり大学に戻ってみたが、ギター部の女性は主に英米文学科であることに気づいた(僕にとって大学とはほとんどギター部だった)。『マノン・レスコー』の話をしても今一つなのである。庄司薫の薫くんシリーズ(『赤頭巾ちゃん気をつけて』等)を読破していた僕は、これらの饒舌体の起源はサリンジャーの『ライ麦畑でつかまえて』にあるとのうわさを聞き、さっそくサリンジャーを読み始めた。サリンジャーなら米文学であり、その気になれば英語で読める。最初は英語で読み始めたが5ページくらいで挫折した。学校で習う英語とはちょっと違うのである。そこで野崎孝訳で読み始めた。原題はThe Catcher in the Ryeであるから、「ライ麦畑の捕らえ人」が正しく、読了してみると「ライ麦畑の守り人」あたりが正しい訳に思える。しかしこれを「ライ麦畑でつかまえて」と訳した野崎孝のセンスはすごい。守り人からではなく、守られる側(純粋無垢な存在)から意訳したのであろう。また、「つかまえて」には僕の好きな小悪魔的ニュアンスが感じられる。多くの人がこのように誤解してこの小説を読み、期待とは異なる小説であることに気づき、それでも愛読者になっていったのだと思う。

 成熟への戸惑い、通じない想い、心からの言葉を発しない人々、それらへのいら立ちと、それらに適応できない自分のふがいなさ。当時の自分が凝縮されたようなホールデン・コールフィールドに、御多分にもれず僕も同化していった。しかしこの小説は、ギター部の女子たちにはそれほど深く受け入れられないようであった。ホールデンのような未熟者に同化できるのは、やはり未熟者の男子校出身者が中心なのであった。このように、僕の「不純な動機」に支えられた読書は、「自分の未熟さを知り、それを純粋さとして昇華する」ための読書、「世界に同化することに抗うことを美とする」ための読書に変わって行った。だが、「不純な動機」を昇華したはずの僕の前に、「不純な動機」と「世界に同化することに抗うことを美とするという価値観」の双方を満足させてくれる女性が現れた。以下、次号。

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考える人とはとは

 はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
どうして自分が「考える人」なんだろう―。
手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか―手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。

「考える人」編集長
金寿煥

著者プロフィール

岡ノ谷一夫

帝京大学先端総合研究機構教授。1959年生まれ。東京大学大学院教授を経て、2022年より現職。著書に『「つながり」の進化生物学』『さえずり言語起源論』などがある。

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