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おかぽん先生青春記

 僕らのギター部はあくまで「クラシカルギター・クラブ」だったから、ナイロン弦を張ったなで肩のギターを持ちより、18-20世紀初頭までに作られた曲の合奏や独奏をするのが本業であった。しかしながら、時は1980年前後、19、20歳の男女が集まる集団なので、練習が終わるとフォークソング大会になることも多々あった。当たり前だが、クラシカルギターとは言え、フォークギターと同じ音域で同じ音がでる。ただ、フォークギターのように鉄の弦ではないので、あのシャリシャリ感は出ない。ナイロンの優しい響きは、バラード系の曲をアルペジオで伴奏するのが最も合っていた。

 ギター部の練習が終わってもだらだらしているのは、決まって地方出身者、要するに下宿生である。下宿に帰ってもほとんどの学生は家にテレビはなく、電話もなく、もちろんインターネットはまだ敷設されていない(日本初のインターネット実験は1984年、普及は2000年以降である)。ついでに言えば、風呂つきの下宿に住んでいる学生は誰もいなかった。みんな銭湯に行っていたのである。歌をうたうといっても、カラオケといえばスナックに行って酔客どうしで歌う大人の遊びであり、フォークソングは入っていなかったし、カラオケボックスなどまだなかった。夜は暇だったのだ。

 だから僕たちは、練習が終わった教室に居残り、フォークソングを歌った。みんなテレビを持っていないので最新の歌は知らない。自分が上京する前の歌をうたっていたのだ。歌をうたうのにとどまらず、「歌の過剰解釈」遊びが流行した。フォークソングの歌詞にもとづいた物語を作り、語り合うのである。

 1980年頃のギター部の学生の間で人気があったのはさだまさし。「雨やどり」は知っていたが、「もうひとつの雨やどり」は居残りフォークソング大会で初めて知った。当時ギター部のアイドル的存在であった同期の宮崎さんと、この歌の解釈をめぐって議論したこともあった。この歌にある「娘は器量が良いと言うだけで幸せの半分を手にしていると、誰か言った意地悪なお話」という歌詞をめぐり、僕たちは果たしてこの歌の主人公の娘は器量が良いのか悪いのかを語りあった。器量が良いとすると鼻持ちならぬ話だし、器量が悪いとすると可哀想すぎる話ではないか。いいや、読者はもうわかっているのであろうが、僕は歌詞の内容などどうでも良かったのである。宮崎さんとこのような他愛もない話をするのが楽しかったのだ。いいや、それも嘘だ。他愛もない話をしながらも、彼女を感心させようと懸命に印象深い解釈を思いつこうとしたのである。

 ダ・カーポというグループが歌った「結婚するって本当ですか」という歌があった。別れた恋人から「結婚する」という手紙があり、机の写真を見ながら思い出に浸る。歌のラストで「今でもあなたが好きだから」という歌詞が出てくる。これをめぐり、僕と宮崎さんは帰りの電車で(ふたりとも東横線だったのだ)議論したことがある。「今でもあなたが好きだから」って、「とうとう言ってしまった」という感じだね、という僕の意見に彼女は深くうなずき、そしてそのまま黙ってしまった。当時の僕らにとって、そのような言葉はとても大きな覚悟が必要だったのだ。東横線は混んでおり、僕らは電車のドアの戸袋のところに立っていた。僕らはそのまま黙っており、そして彼女の降りる駅について、さようならを言って別れたのだった。ドアの窓ガラスを雨粒が流れていたのを思い出す。

 そう言えばあの頃、大事な人が結婚する歌が多かったな。以下、最初のカッコ内は歌詞で好きなところ、次のカッコ内はその当時の僕の感想。さだまさしの作詞作曲でクラフトが歌った「僕にまかせてください」(集めた落ち葉に火をつけて君はぽつりと「ありがとう」)(ああ、俺にも僕にまかせてください、と言える日は来るんだろうか)。最近亡くなったはしだのりひこのグループの「花嫁」(何もかも捨てた花嫁、夜汽車に乗って)(家族の反対を押し切ったのかな、でもだからこそ燃えるんだよな、ロミオとジュリエット効果)。「嫁ぐ日」(とってもおしゃべりでよく笑うどこにもいるような)(割といないんだよなそういう娘さん、いたら紹介してほしいよ)。かぐや姫の「妹」(あの味噌汁の作り方を書いてゆけ)(兄貴だけじゃ味噌汁作れないだろうな)。風の「22才の別れ」(あなたはあなたのままで変わらずにいてくださいそのままで)(勝手すぎるんじゃないか、この女の子よ)。早川義夫が作り、もとまろが歌った「サルビアの花」(僕の愛のほうが素敵なのに)(こうやって強がらざるを得ないほどの悲しさなんだろうな)。等々。これら全部、歌詞を書いてこの連載1回分にしたいところだが、この辺でやめておく。

 ここまで出てきた曲はすべてYouTubeで聴くことができる。僕と同じ年代の人たちはYouTubeで聴いて懐かしがってくれ。若い人たちは、昔の恋物語を味わってみてくれ。ひとつひとつの歌が、すべて短編小説になっているんだよ、この時代は。でも、YouTubeで聴くだけじゃなく、気に入った曲はCDを買ってくださいね。で、この流れで行くと、次は「そして、あの頃の本たち」になりそうですね。

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考える人とはとは

 はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
どうして自分が「考える人」なんだろう―。
手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか―手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。

「考える人」編集長
金寿煥

著者プロフィール

岡ノ谷一夫

帝京大学先端総合研究機構教授。1959年生まれ。東京大学大学院教授を経て、2022年より現職。著書に『「つながり」の進化生物学』『さえずり言語起源論』などがある。

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