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おかぽん先生青春記

 僕が入学したのは1979年だった。大学に入り早々に酒の洗礼に会い、またギター部の美しい先輩方と土曜の練習のあと珈琲タイムがあり、僕の青春はようやく青春らしくなってきたようだった。大学の講義のたぶん半分以上はさぼって部室にいたり喫茶店にいたりしたと思う。僕らはあの頃いったい何を話していたのだろう。慶応大学文学部では、1年生は横浜市港北区日吉の教養課程に、2年次以降は田町駅から10分の三田に通う。

 日吉の商店街には「パンダ」という喫茶店があり、僕らのたまり場になっていた。その後、大学2年になって田町の三田に移ってからは「洗濯船」という喫茶店に集まった。「洗濯船」はピカソやモディリアーニが住んでいたパリ・モンマルトルにあるアパートの名前である。その頃「ラーメン二郎」は創業して10年ほどで、三田の交差点近くにあった「洗濯船」の斜め向かいで営業しており、体育会学生に大量の炭水化物を供給していた。当時の僕は「ラーメン二郎」よりモンマルトルが好きだった。「洗濯船」は、僕が大学2年になって三田に移ってすぐ閉店になった。常連の噂によると店主はほんとうにモンマルトルで絵の修行をしているそうであった。

 日本にパンダが初めて来たのが1972年で、僕が大学に入った頃は「パンダ」という名の飲食店は日本中にあったのだろう。いっぽう三田の「洗濯船」はモンマルトルのアパートから名前をいただいただけあって、芸術的と退廃的の間をさまよう雰囲気があった。文学部1年生として日吉にいた僕たちは、夕食の半分は「パンダ」で食べていたように思う。「パンダ」の店主は岸田今日子似で、岸田今日子本人の短編集にある「うさぎごころ」はぜひ彼女に朗読してもらいたかったがかなわなかった。僕に勇気がなかっただけなのだ。この本はまだ買えるようだ。うさぎを好きになったおおかみは、うさぎを食べないように草食動物になる。するとうさぎはそんなおおかみに愛想をつかす。嵐のような性欲に悩まされていた僕にとって厳しい話であった。

 日吉の「パンダ」では、僕らがあまりに毎日来るので、坂下先輩などは店主の留守に店を任されているほどであった。当時、ピザトーストが500円したので決して安くはない。坂下先輩は「パンダ」のほとんどの料理を作れるようになっていた。これらの喫茶店で、まず夕食を食べる。その後、少しはギター練習の話をするが、すぐに話題は散乱する。女子部員たちは7時頃には帰ってしまう。その後も残っているのは、1、2年生の男子部員ばかりであった。勇気のない僕たちは、女性たちが帰ってしまってから抽象的な恋愛論か高踏的な音楽論、青臭い文学論、聞きかじりの政治論を語り合った。語り足らず、「パンダ」が閉店の時間になると、日吉にアパートを借りている部員のもとに結集した。3名ほどが日吉に住んでおり、なりゆきで誰かの部屋に数人で泊まった。たいへん迷惑だったのだろうと思うが、1980年前後の19、20歳の男子たちはとにかくよく語りあったのである。

 当時は、連合赤軍とは何だったのかが徐々に暴かれてきていた。アメリカの属国となることに抗し、日米安保条約に抗し、搾取のない日本を作ろうとした人々がどう挫折して行ったかがわかり始めていた。永田洋子が『十六の墓標』を出版するのは1982年のことで、僕らが「パンダ」にたむろしていた頃の2年後である。

 学生運動の挫折の後に大学に入ってきたのは統一教会系の原理研究会であった。連合赤軍の失敗から、一部の学生は真逆の方向に光を見つけてしまったのかも知れない。ギター部でも、所属していたある女子学生が原理研究会に勧誘され、その教義を詰め込むための合宿に参加してしまった。この合宿に参加してしまうと、まず抜け出ることができないと言われていた。僕の親友であった野中は、その娘を脱洗脳して家族のもとへ帰すため、政治と宗教の本を徹夜で勉強していた。僕は彼からマックス・ウェーバーを教えてもらった。彼はその女子学生を愛していたのだろうかと僕は思ったが、彼の行為はそれとは独立に、矛盾した存在と搾取する組織を許容することができなかったのだと思う。彼の試みがどうなったのかわからない。わからないということは、結局失敗に終わったのだろう。

 このように、僕が大学生となってからしばらくの間、喫茶店は語り合う場所であった。ほとんどの時間は無為の会話に過ぎていったのであるが、その無為の時間が今の僕を形成するのにとても大切だったのだと感じている。

 三田に移って、「洗濯船」も閉店してしまうと、僕たちには行き場がなくなってしまった。喫茶店にはスペースインベーダーというテーブル型のビデオゲームが置かれるようになった。ほとんどの喫茶店でコーヒーテーブルがインベーダーゲームの台になってしまい、喫茶店は会話の場ではなくなってきた。こうして、学生街の喫茶店は変質していった。いや、先に変質したのは学生たちだったのかも知れない。学生たちは語るべき内容を失ってしまい、空いた時間と空間をインベーダーゲームで埋めるしかなかったのだろう。僕はそれでも、語るべき相手を探し、アパートに押しかけ、夜通し語って講義をさぼるという生活をしていた。はた迷惑な男であったに違いない。語っていた内容はおそらく50%は恋であり、30%は本であり、20%はギターであったろう。社会や政治に危機感を感じてはいなかった。自分が人間として、男性として駄目なのではないかという不安が一番強かった。あの頃アパートで僕の話を聞いてくれた友達と先輩に、とてもとても感謝している。そしてあの時代がそのような無駄を許容したことに感謝している。もちろん、あの時代がこの時代を作ってしまったのではあるが。

 この文章を書くため、先日、日吉に行った。その場所に「パンダ」はなかった。あの店に通っていたのはもう40年も前なのだ。ないのがあたりまえだ。もし「パンダ」があり、そこに岸田今日子似の店主がいたなら、それは「安達ケ原」なのであって、僕はその場で消滅していたかも知れない。代わりにあったのはスマフォを売る店であった。濃密さが均一さに代わってしまっていた。それはもしかしたら民主的なこととも言えるのだろう。濃密さは一部の学生のみが味わえたものなのだから。

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考える人とはとは

 はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
どうして自分が「考える人」なんだろう―。
手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか―手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。

「考える人」編集長
金寿煥

著者プロフィール

岡ノ谷一夫

帝京大学先端総合研究機構教授。1959年生まれ。東京大学大学院教授を経て、2022年より現職。著書に『「つながり」の進化生物学』『さえずり言語起源論』などがある。

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