震災直後、岩手県陸前高田市内の避難所の掲示板。電波も微弱で、こうした紙の文字情報に頼らざるをえなかった。

 朝から落ち着かず、何が起きているか少しでもつかもうと、スマホやPCの画面に飛び交う情報を追い続けた。大阪北部地震の朝、周辺に住む知人たちからも次々と無事の報告が舞い込む。「私は大丈夫。それよりも言葉が分からない外国の人たちが、路上や駅で立ち往生していたのが気になったよ」。バックパッカーが多く滞在する街に暮らす友人は、海外からやってきた方々の身を絶えず心配していた。
 思えば東日本大震災後も、海外にルーツを持つ多くの人々が情報から取り残されてしまっていた。外国から嫁いできた方々の中でも、パートナーの方が亡くなったり行方不明になったりした女性たちが、貼紙も読めず、避難所の中で飛び交う言葉も分からず、半ばパニック状態に陥ってしまっていたこともあった。私が通っていた岩手の沿岸地域ではフィリピンから来た方々が多く、英語やタガログ語ができる友人たちが手分けして、寝る間も惜しんで情報の翻訳を続けていた。
 こうした非常時だけではない。先日も成田エクスプレスで新宿駅まで戻ってきたとき、駅のアナウンスが日本語のみだということに気が付いた。重い荷物を持って降り立った人々が、右往左往したり、階段とは別の方向に行ってしまう姿が目立った。災害が起きれば、いち早く情報から孤立してしまうのはこうした方々のはずだ。
 オリンピックのための対策を、とこの数年叫ばれ続けてきたが、情報共有の問題は一時的なイベントのためだけではないはずだ。いざとなったときの孤立は混乱を深めてしまう。日頃から、届ける仕組みを作り、届けられる人を育てることが、「おもてなし」の軸なのではないだろうか。

この日は足利に住むムスリムの方々が、カレーの炊き出しのため避難所となっていた公民館を訪れていた。