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おかぽん先生青春記

2018年9月4日 おかぽん先生青春記

なのに俺はアメリカへゆくのだ(2)

著者: 岡ノ谷一夫

 日本から米国に向かう飛行機は当時、ソビエト連邦上空を飛ぶことができず、北極圏を経由してアラスカ州のアンカレッジで給油してからアメリカ各地に向かった。燃料タンクも小さく、効率も悪かったのだろう。アンカレッジまで十数時間かかり、それからまた数時間かかったので、一度飛行機を降りてアンカレッジで休憩することは、必要なことでもあった。

 アンカレッジの休憩所には驚いたことに立ち食いそば屋があり、そばを食べるのも今生で最後かと思った俺は、ためらわずかき揚げ月見そばを食べた。すると俺の隣の見知らぬ男が、「向かいでそば食べてる人、日野皓正だよ」と教えてくれたが、日野皓正が誰だか知らなかった俺にはあまり有り難みもなく、「はあ」と気のない返事をするしかなかった。日野皓正はむろん、ジャズトランペッターとして著名な人物である。後に一時帰国の際、俺は日野皓正が何者かを知った。著名な音楽家といっしょに立ち食いそばを食べたという話は、その後しばらく俺の自慢話であった。

 アンカレッジからシカゴに着くと、入国審査と税関のための長蛇の列があった。3時間以上はかかったと思う。乗り継ぎの飛行機に乗れず、パントマイムだけで事情を説明してチケットを取り替えてもらい、俺はボルチモアの空港に着いた。長距離バス乗り場を探し当て、「カレッジパーク、カレッジパーク」と騒いでいると、プロレスラーのような男が「こっちに来い」というのでそれに従った。従うしかないだろう。バスはいろいろなところで停車していたが、停車場の名前が聞き取れず、俺は今世界のどこにいるのか全くわからない状態でバスに乗っていた。あるバス停に至ると、プロレスラーのような運転手が、「ここで降りろ」と言ってくれた。降りてみると目のまえには「ホリデイ・イン カレッジパーク」というモーテルがあった。今でこそ、ホリデイ・インと言えばそれなりのホテルであるが、当時のホリデイ・インはアメリカ映画でよく殺人事件が起こる典型的な場末のモーテルなのであった。少なくともカレッジパークという名前の場所に到達したことで俺は一安心し、運転手に料金とチップを払った。アメリカではチップを払わないと殺されるらしいと教わっていたからだが、同時に俺を世界の無名の場所から行くべき場所へと連れてきてくれた運転手に感謝の気持ちを抱いていたからでもある。

 俺はまたパントマイムを駆使してホリデイ・インに泊まらせてもらう交渉をし、いつ俺の人生が終わってもやむを得ないと思いながら、殺人犯に気をつけて自分の部屋に向かった。あまりに疲れていた俺は、殺人犯に気をつける余裕もなく眠りにつこうとした。だが、米国のベッドは薄いシーツが2枚に重ねられ、その上に薄い毛布のようなものが載せられているのであった。そしてそのすべてが、マットレスの間に挟み込まれていたので、どこに寝てよいのか見当がつかぬ。今では日本のホテルもことごとくこのような状況であるが、当時の俺はそのようなベッドは初めてだった。封筒のように重ねられたシーツの間に挟まるのが正しい寝方であると知るのは後年のことで、まずは毛布を引き離して2枚のシーツと毛布の間に挟まって眠ることにした。

 そして気がつけば昼で、非常におなかがすいていた。渡米前に読んだ本に、米国ではしばしば強盗がでるので、強盗にあっても殺されないように胸ポケットに100ドル紙幣を入れておくとよい、とあった。俺はそのために持参した100ドル紙幣を胸ポケットに入れ、強盗にあったならば手を挙げて胸ポケットを指さす練習をした。

 そして恐る恐る近所を散策し、ピザハットという店を見つけた。店先にはピザの看板があり、そうであるからにはピザ屋であろうと判断し、勇気をもってその店に入った。メニューを研究し、ペパロニピザとペプシコーラを飲むことに決めた俺は、給仕の女性にそのことを伝えた。待つこと20分、俺の目の前には、チーズピザと牛乳が出された。ペパロニピザとコーラと言ったつもりが、チーズピザと牛乳に変わるとは。俺の英語は全く通じない。こんなことなら、アメリカに来る前に、屈辱を忍んで英会話教室に行っておけばよかったと思うも、あとの祭りである。

 俺は涙をこらえてチーズピザを食べ、牛乳を飲んだ。俺が食べたいものを食べられるようになるまで、1年はかかったと思う。メニューを指さして注文をすればよいのだが、それをやってしまうといつまで経っても言葉が通じないであろう。だから俺は、臥薪嘗胆して口頭で注文を述べる努力をしていたのである。とは言え、それ以上に複雑な事柄はパントマイムで伝えるしかすべのない俺であった。

 そういうわけで、アメリカ上陸初の食事をアンカレッジの立ち食いそば屋で済ませ、カレッジパーク初の食事を望まぬチーズピザと牛乳で済ませた俺は、しばらく生きて行けそうな気分になっていた。護身のため胸ポケットに入れた100ドルを確認してみると、ない。ピザが来るのを待っている間に気になって出したりしまったりするうちに落としたのか。ピザ屋に戻り、パントマイムで説明するも通じず、こうして俺は護身用の100ドルを失った状態で、1日目の終わりを迎えるのであった。今で言うと2万5千円くらいのお金だ。泣きたくなったが、泣いてもしょうがない場合は人間は泣かないものであることがわかった。そして後日、100ドルを持っているともっと持っていると思われてむしろ危険であり、20ドルくらいが妥当であると学んだ。しかしこのような疑心暗鬼で生きるのはつらい。いつになったら俺はアメリカに適応できるのであろうか。

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考える人とはとは

 はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
どうして自分が「考える人」なんだろう―。
手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか―手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。

「考える人」編集長
金寿煥

著者プロフィール

岡ノ谷一夫

帝京大学先端総合研究機構教授。1959年生まれ。東京大学大学院教授を経て、2022年より現職。著書に『「つながり」の進化生物学』『さえずり言語起源論』などがある。

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