1950年代アメリカは、ロックンロールが生まれた時期であり、と同時にフラナリー・オコナー、カーソン・マッカラーズ、ウィリアム・スタイロン、トルーマン・カポーティといった南部作家が活躍し、南部文学の巨匠ウィリアム・フォークナーも依然作品を発表していた時期だった。だがその二つの事柄が、どう結びつくのか? コロンビア大学出版局から刊行された、『新奇な音―ロックンロールの時代の南部小説』と題したこの本(新奇な音〔Novel Sounds〕は「小説の音」という意味も掛けているだろう)は、その序文をこう始める

Memphis, Tennessee, 1952: Sam Phillips creates the legendary Sun Studio and records the first-ever rock and roll single, “Rocket 88,” by Ike Turner’s Kings of Rhythm. “Magic,” says the rock writer Peter Guralnick of the new sound, achieved with the aid of a broken guitar amplifier, “alchemy.” Skip the needle forward a couple of years, to 1954. Elvis Presley records “That’s All Right” by African American bluesman Arthur Crudup, also at Sun. In 1957, to advance the needle once more, William Faulkner’s novel The Town emerges in the midst of public acclaim for his earlier novels, only then first being celebrated as the masterpieces they were afterward considered to be. Although some of the characters in The Town do travel from Mississippi to Memphis, following roughly the same geographic route as the road traveled by the Kings of Rhythm, they do not visit Sun Studio while they are there. Nor does Faulkner include any rock in this or any other of his novels. In what follows, I am going to argue that The Town is one of a group of 1950s novels that, without even a single rock and roll song in their high-literary pages, were nevertheless profoundly about rock and roll.
 1952年、テネシー州メンフィス。サム・フィリップスが伝説の「サン・スタジオ」を設立し、史上初のロックンロール・シングル、アイク・ターナーのキングズ・オヴ・リズムによる「ロケット88」を録音する。「それは魔法であり、錬金術だった」とロック評論家ピーター・グラルニックはその新しい、壊れたギターアンプの助けを借りて作られた音について言う。針を二年ばかり先へ動かして、1954年。エルヴィス・プレスリーが、アフリカ系アメリカ人のブルースマン、アーサー・クラダップの作った「ザッツ・オール・ライト」を、やはり「サン」で録音する。もう一度針を進めて1957年、ウィリアム・フォークナーの長篇『町』が刊行される。これより前にフォークナーが書いた一連の作品は長年傑作と讃えられてきたが、実はこの時期初めて、そうした称賛の声が世に生じたのであり、『町』の出版はその只中での出来事であった。登場人物の何人かはミシシッピからメンフィスに旅し、キングズ・オヴ・リズムとほぼ同じルートをたどるが、彼らはメンフィスに行ってもサン・スタジオを訪れはしない。それにフォークナーは、『町』でもほかのどの作品でも、ロックを登場させてはいない。これから本書において、私はこう論じようと思う―『町』はその高度に文学的なページのなかに一曲のロックンロール・ソングも登場させずとも、深いところでロックンロールにつながっている1950年代小説のひとつなのだ、と。

 ひぇー、カッコいい! 僕もこんなふうに自分のアメリカ文学研究書を切り出してみたかった。序文ではこのあとも、“Over the decade during which rock and roll came into being, a group of canonical American authors native to rock’s birthplace began to produce in their fiction stories about the electrification of oral ballads, expressing in the literary realm key cultural changes that also gave rise to the infectious music being generated in their region”(ロックンロールが登場した50年代、ロックの生地で育った主要アメリカ作家たちが、口承バラッドの電気化をめぐる物語を書きはじめ、文学の領域において、その地域で生まれつつあった伝染的な音楽を生みもした重要な文化的変化を表現したのである)とか“More striking still, rock and roll can be detected formally in fiction by these authors, in a new aesthetic they created at the birth of rock”(より注目すべきことに、ロックンロールはこれらの作家の作品のなか、ロックの誕生期に彼らが創成した新しい美学のなかに形として見出される)といったイキのいい宣言が続く。研究書を読んで、こんなに鉛筆で線を引きまくったのは久しぶりである。
 本論に入り、ロバート・ペン・ウォーレンの『洞窟』(The Cave, 1959; 未訳)、フォークナー『町』、フラナリー・オコナーの短篇「善人はなかなかいない」(1953)、カーソン・マッカラーズの『悲しき酒場の唄』(1951)などが詳しい議論の対象となる。で、これは今日のアメリカ文学研究の水準にのっとった、大変緻密で読みごたえある議論なのだが、そのなかで、ロックンロールはどれくらい出てくるかというと…うーん、それを―つまり、直接ロックンロールが語られる話を―期待してはいけないのだということが読み進めるうちにだんだん見えてくる。複雑な論を、僕が自分の興味を中心にして勝手に直線化すると、だいたい次のようになる。

*ロックンロールはさまざまなジャンルの混淆(ブルース、カントリー、ジャズ、スイング、フォーク)であり、また当初から電気(アンプ、レコード、ラジオ)と結びついていた。
*そういうハイブリッド的なもの、大衆メディア的なものは、純粋な言語芸術として文学を捉えようとする当時の文芸批評・文学教育のなかでは忌み嫌われた。
*たとえば、前述のウォーレンが著名な評論家クレアンス・ブルックスと共同で編纂し、大学の教科書として非常に広く読まれたUnderstanding FictionUnderstanding Poetryでも、口承バラッドが取り上げられることはあっても、ロックンロールについてはむろん一言の言及もなかった。
*その背景には、白人が文化の頂点にある、優れた文化的成果は純粋に白人のものであるという暗黙の前提があった(ボールドウィン、エリソンといった重要黒人作家の作品はUnderstanding Fictionの1943年初版にも59年第二版にも入っておらず、1979年の第三版でようやく入った)。
*そこでは現代化・都市化が忌み嫌われ、口承バラッドは(時には黒人のブルースさえも)現代化の波に毒されていないものとして称揚され、ロックンロールは現代化の流れの一典型として蔑まれた。
*そういう風潮のなかで、フォークナーやオコナーは、最重要作家としてもてはやされた。
*にもかかわらず、そうした作家たちが作品内で行なったのは、純粋な言語芸術や口承バラッドを称揚することではなく、それらがラジオなどのメディアによって浸食され、白人至上主義が崩壊し、さまざまな事柄が「純化」ではなく「混淆」に向かう流れを描くことだった。
*つまり、それらの作家を衝き動かしていたのは、ロックを生んだのと同じ混淆的衝動だった
 
―といったことになるだろうか。フォークナーの『町』が発表された1957年といえばリトル・リチャードの「ルシール」やバディ・ホリーの「ザットル・ビー・ザ・デイ」が発表された年、そのあたりがどう結びつくんだろうか…などと期待した身としてはやや肩透かしを食った感があるのだが、そういう直接の、表面的なつながりではなく、より抽象化した次元での深いつながりを論じているゆえに、論としての汎用性は高く、今後いろんなことを考えていく上で糧になってくれそうだ。

 文学と音楽のつながりということで、もう一点。ボブ・ディランはNovel Soundsでも重要な存在だが(著者は最終章で、ディランのノーベル賞受賞を、彼女がそれまでずっと描いていた、文学と音楽の隠れたつながりのひとつの帰結点と見ている)、そのディランから依頼を受けて、アイルランドの劇作家コナー・マクファーソンが脚本を書き、2017年にロンドンで上演され好評を博したミュージカル的な演劇『北国の少女』。
 舞台はディランが生まれたミネソタ州ダルース、時は大恐慌のまっただ中の1934年。うらぶれた下宿屋を必死で維持しようとしている男ニック、認知症になった妻エリザベス、捨て子だったのを二人に育てられたマリアン、ニックと微妙な関係にあるらしいニールセン夫人、無実の罪で投獄されていた黒人ボクサーのスコット、インチキな聖書セールスマンのマーロウ、すべてを見守る医師ウォーカー等々が集う。彼らがくり広げる会話のなかに、ディランの曲が20曲挿入される。たとえば次は、望まない妊娠をしたマリアンを、育ての父ニックが旅立たせようとする場面。

MARIANNE. What could possibly make you think this is something I want? What you want make me go for?!

NICK. We all gotta go. It’s just a question how we do it. When I went back down to Bakersfield for my uncle’s funeral? All along the road? People living in tents. In tents! In the United States of America! Kids with no clothes on. All along the whole street into the town. There ain’t no net to catch us, Marianne. You get it? You get it?

MARIANNE. Why don’t you let me help you?

NICK. When I needed your help was when I needed you to be a good girl. That was when you coulda helped me.

MARIANNE. Daddy, I didn’t...

NICK. Don’t give me that cock-and-bull story. You gotta go carrying on with some goddamn boatman?! Like some little whore?!

 MRS NEILSEN has come through.

 MARIANNE goes up through the kitchen.

 You okay?

 MRS NEILSEN smiles and nods.

 What you wanna waste your life away in here for?

MRS NEILSEN. I gotta waste it somewhere.

 NICK can’t help smiling. He comes to MRS NEILSEN and takes her hand.

 ELIZABETH is singing ...

LIKE A ROLLING STONE
  How does it feel ...

マリアン なんであたしがそんなこと望むって思うわけ? なんであたしを出ていかせたいの?

ニック 俺たちみんな出てくしかないんだよ。どうやるかだけの問題だ。こないだ俺、叔父さんの葬式に行っただろ? そしたらどうだ、道中ずっと! みんなテントで暮らしてるんだ。テントで! アメリカ合衆国で! 何も着てない子供たち。道路沿いにずっと、町まで続いてる。俺たちを受けとめてくれる網なんてないんだよ、マリアン。わかるか? わかるか?

マリアン あたし、父さんの助けになりたい!

ニック お前が助けになれたのは、お前にいい子でいてほしかったときさ。あのときなら、助けになったんだ。

マリアン 父さん、あたしだって

ニック 作り話はよせ。お前、どっかのボート漕ぎなんかとくっつく気か? そこらへんの娼婦みたいに?

    いつの間にかニールセン夫人が来ている。

    マリアンは台所に入っていく。

ニック 大丈夫?

    ニールセン夫人はニッコリ笑ってうなずく。

ニック どうしてこんなところで自分の人生を無駄にしたいんです?

ニールセン夫人 どこかで無駄にするしかないでしょ。

   ニック、思わず苦笑する。ニールセン夫人の方へ行き、彼女の手をとる。

   エリザベスが歌っている

ライク・ア・ローリング・ストーン
      よう、どんな気がする

 大恐慌時代を包んでいた絶望と、?っぽくない希望とが絶妙に釣りあった脚本であり、きっちり作れば素晴らしい舞台になるだろうと思う。終わり近く、認知症だったエリザベスがつかのま明晰になって語り、“Forever Young”(いつまでも若く)が流れるところなど、脚本を読んだだけでもグッと来ました。

 最後に、Novel Soundsから、議論のポイントではないが面白かった話をひとつ。フラナリー・オコナーの小説は会話が見事で、耳がいい人だなあといつも思うのだが、オコナ―は音楽には全然興味がなかったようだ。“I am a complete musical ignoramus, don’t know Mozart from Spike Jones”(私は音楽はまったく無知で、モーツァルトとスパイク・ジョーンズも区別がつかない)〔スパイク・ジョーンズは屁を模した音などを多用した冗談音楽の大家〕/〔友人からレコードを一箱贈られて〕“All I can say about it is that all classical music sounds alike to me and all the rest of it sounds like the Beatles”(クラシックは全部同じに聞こえるし残りは全部ビートルズに聞こえるとしか言えない)。

最新情報

4月13日(土)3時~、神保町の日本出版クラブで「洋書の森 翻訳者のためのウィークエンド・スキルアップ講座 柴田元幸と翻訳を学ぶ・遊ぶ」。4月13日(土)夜11時~、J-WAVEのRadio Switchに出演。4月19日(金)7時半~、吉祥寺キチムでCD『たそがれ』(柴田元幸&ランテルナムジカ)リリースライブ。4月20日(土)3時~、東北大学片平キャンパスで日本アメリカ文学会東北支部講演会「訥弁の雄弁―アメリカ文学を訳す」。4月21日(日)1時半~、盛岡のBook Nerdで翻訳教室。4月21日(日)7時半~、盛岡の岩手銀行赤レンガ館でCD『たそがれ』(柴田元幸&ランテルナムジカ)リリースライブ。4月22日(月)、スチュアート・ダイベックの第一短編集『路地裏の子供たち』訳書が白水社より刊行。4月27日(土)2時半~、デジタルハリウッド大学駿河台ホールで日本翻訳大賞授賞式