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浅田 橋本さんが考える日本美術史のピークは、一つはいまの後白河法皇のあたり、もう一つは安土桃山時代から江戸時代の初期まででしょう。さらに強いて言えば、一番のピークは俵屋宗達あたりですか。

橋本 誰が一番うまいんだって考えると、それは俵屋宗達でしょうね。論理的な根拠じゃなくて、作品がそれを言ってるんだから、それを前提にして話を作っていかざるを得ないんですよ。安土桃山篇だけ私の書きぶりが微妙に変わっているのは、一つの時代を流れで捕まえるんじゃなくて、すでに出来上がった一つの時代を固定して三百六十度いろんな角度から眺めざるを得なかったからです。だから、第三巻は、《日光東照宮》、《能装束》、《変り兜》から始めて、後に狩野探幽の《二条城二の丸御殿障壁画》を出し、第四巻の冒頭が俵屋宗達の《風神雷神図屏風》という構成にしたんです。
 宗達はいろいろと謎の多い人物ですが、それが僕にとっては幸福な感じがするんですよ。宗達が何者なのか、個人のありかたで分析すること程、不毛なことはないんじゃないかという気がしてね。

浅田 日本美術史でもっとも優れた作品が匿名であるという感じですからね。

橋本 俵屋宗達と尾形光琳の関係って興味深くてならないんです。光琳は素性がはっきりしていて知的なのに、作品となると悲しい苦闘をせざるを得ない。宗達は謎めいた存在だが、作品は素晴らしい。そこまで符丁があっちゃうのかなという可笑しさがあります。

浅田 光琳の表現は屈折しているし、内心の葛藤がこのような屈折を生んだとか何とか近代心理小説的に読めなくもないけれど、宗達にはそれがないですからね。

橋本 光琳について雑誌で書いた後、《紅白梅図屏風》について「2003年にMOA美術館が依頼し東京文化財研究所がおこなった研究・調査によって、本作の大部分を占める金地部分は、本来の説であった金箔を貼ったものではなく、金泥を用いて金箔を模し、箔足(金箔が重なり合う部分)を加え描いたものであると結論付けられた」という説を読んで、成る程それで分かったと思ったんです。《紅白梅図屏風》ってあまりにも簡単すぎる絵で、簡単すぎるからこそ、描かなくてもいい下地まで全部描くという面倒くさいことを自らに課して、描くという行為を満足させる。尾形光琳というのは、多分そういう人だったんだと思うんです。

浅田 宗達だったら豪勢に金箔でやっちゃうだろうけれど。

橋本 私は光琳のようにやりかねない人なんです。というか、絵の具を垂らしておいて、ティッシュペーパーをぐじょぐじょに丸めておいて上に押しつけると金箔みたいになるというのはイラストレーターの頃やったことがある(笑)。大したもの描けないけど金もらっているから、そうやってごまかすかっていうのは当時考えたんです。光琳が同じだとは言わないけど、光琳がそれをやりかねない感覚は分かって、光琳って、人が思っているほど自分が絵が上手だとは思ってなかった人だと思います。

浅田 逆にいうと、デザイナーとして自己限定した時はすごいわけですね。

橋本 だって、宗達の絵をいきなり見せられてしまったら、それを真似して描いて自分が絵がうまいと思えるはずないもの。自分が描けるなって思うところに、限定して描いた時だけ、光琳はいいんですよ。

浅田 それは非常によくわかりますね。しかも、実は光琳に近い橋本治が、宗達こそいちばんすごい、いいものはいい、と断言する、そこが『ひらがな日本美術史』のいいところだと思います。

躾けのなくなった日本

橋本 あとがきでも書いたんですけど、『ひらがな日本美術史』はしんどい仕事じゃなかったんですよね。私のなかで、リラックスして出来た仕事の一つです。それでも書き下ろしだったらずっとやんなければいけないけど、これは一月にせいぜい二日だったし、一冊分書いたら三ヵ月は休みをくれたので、いい仕事でした。

浅田 毎月楽しみでした?

橋本 いいものしか見ないというのは幸福なんですよね。ただ、やっていて思ったのは、確かに「日本にいいものがあるのに、なんでみんな知らないんだろう」っていう気持ちはあるんだけど、「日本美術がこんなにいいもんだぞ」と言いすぎて、美術を必要としない人が押しかけてくるという風潮を作ってしまったら、それはかえってくだらないことになるぞと思いましたね。だから、日本美術というのはどこかマイナーで不思議な、「やはり野に置けレンゲ草」みたいなジャンルでいいのかもしれない。いつの間にかふっとというような終り方が出来てよかったな、と思います。

浅田 おっしゃることはよく分かります。そもそもぼくは日本的美意識なるものを無批判に称揚したいとは思わない。ただ一方で、例えば東京オリンピックと長野オリンピックのポスターを比較すると、やはり愕然とするわけですよ。東京オリンピックの亀倉雄策によるポスターは、橋本さんも最終回に取り上げた力作でしょう。ところが、長野オリンピックの絹谷幸二が描いたポスターは、造形的に整理されていない人物像で、しかも口のところから「ファイト、ファイト」とカタカナが出ているんですよ(笑)。

橋本 よくそういうものが採用されましたですね。

浅田 東京オリンピックの時は、みんな本気で頑張った。亀倉雄策だって世界に通用するレヴェルでやろうという意気込みでやっていた。それが長野オリンピックになったら自閉的な冗談でよくなったというのは何なのか。

橋本 東京オリンピックの頃は、まだ官僚が幼児性を認めてなかったですよね。おそらく大阪万博の頃からキャラクターを作ったり、街角の公園の滑り台がキリンやゾウの形になったりだの、幼児的なシンボリックなものを置けばそれが子どもを理解することになるという風潮になったんだろうと思うんです。私は建設省の車に「けんせつしょう」ってひらがなで書いてあり、さらに子ども受けするキャラクターの絵が描いてあるのを見て、国家がみんなに好かれようとして却って国家の体面を損なうようになっているというのをはっきり感じましたね。多分、長野オリンピックもその末路なんでしょう。

浅田 まさにその通りだと思うけれど、そういう意味でいうと、やっぱり大阪万博の岡本太郎の「太陽の塔」が転換点だったのかもしれない。丹下健三・磯崎新組の「お祭り広場」のプランは、弥生的なものを暗黙のベースに、情報化社会にふさわしい「見えない建築」をつくろうというものだった。そこへ岡本太郎が大屋根をぶち抜いて「太陽の塔」を建ててしまった。そちらの方が「キャラ立ち」してしまって、丹下・磯崎組は敗北を喫したわけですよ。幼児化が顕著になるのは最近のことだとしても、源泉はそこにあったのかもしれませんね。とにかく、橋本さん風の大人の職人としての常識をかなぐり捨てて、「女子供」が喜べばいいだろうというポピュリズムの方向にとめどもなくすり寄っていく……。

橋本 そうそう。でもだからといって、「いま大人の職人の復権を」なんて簡単に言っても無理なんですよ。みんな追い詰められていて、どうしたらいいか分からなくなって、もう有明海のムツゴロウのようになっているから、生きていく余地ってそんなにないと思うのね。

浅田 近代まで続いてきた弥生的構造もついに解体され、あとには情報化社会の基盤の上で「女子供」向けの「キャラ」が浮遊しているだけなのかもしれない……。

橋本 いや、解体できるようになったという段階で、すでに日本は解体されてるんですよ。システムがしっかりしている時は生半可なものって絶対に受け入れられないもの。
 七○年代前半に新聞社に写真撮ってもらった時は、当時はみんな口閉じてて表情がないから、あえて笑ったら、口閉じろって怒られたんですよ。ところが今はみんな口開けて写真撮っている。

浅田 ミシェル・フーコーが近代の基盤だと言う「ディシプリン」だけれど、日本語で言えば要するに躾けですね。姿勢をちゃんとしなさいとか、げらげら笑っていちゃいけませんとか(笑)。ぼくらはそういう躾けが嫌いな側だったんだけれど、躾けがなくなってしまうとやはり呆然とするほかない……。

橋本 口開けてちゃいけないっていわれている時代は、「口開けてて馬鹿と言われてもいいんだけど」って言っても、そのあえては許して貰えなかったんです。それが許されちゃうと、許されることの意味がないんだよね。

浅田 そこで橋本治はあえて大人の職人になって『ひらがな日本美術史』を書いた。本当をいうと、ぼくはこれが日本美術史の教科書になればいいと思うんです。

橋本 長すぎません?

浅田 でも、あえてこれぐらいの量は読ませるべきでしょう。

橋本 そうかもしれませんね。ただし、本当に必要なことって教科書で学ばないじゃないですか。それこそ、教科書は躾けだけであって、躾けだけじゃ人間つまらなくなるから、どういう活動するかってところが問題なわけで、その教科書の外側に教科書よりも豊かなものがないといけないんですよね。

浅田 確かにその通りですね。ところで、ずっと日本美術を見てきて、自分でもし何でも貰えるとすると、何がいいですか。

橋本 私、光悦の《白楽茶碗 銘不二山》が欲しいんです。あと本当は桂離宮が欲しいんですけどね(笑)。ただ、美術っていうものは、かつては所有できるだけの大金持ちがいた時代には所有するものであったけれども、もう現代では所有というのはおこりえないわけじゃないですか。そうすると、共有するという方向に美術がいってしまっていると考えざるを得ない。何が欲しいという考え方自体が無意味だし、私は金もないし、そこら辺は金のある人に考えて貰おうという感じですかね。

浅田 もちろん本物を見ることは絶対必要だけれど、きちんとした図版が体系的に収録された本をもっているというのも、インターネット時代には消え去ってしまうかもしれない一種の贅沢かもしれませんね。ちなみに、執筆の時は資料は基本的には画集ですか。

橋本 そうです。ただ、たまたま展覧会をやってる時には行きましたね。現物見た時の違い方ってあるじゃないですか。高橋由一の《鮭》が大きいっていうのは成る程と思いましたし、色も印刷と原画では微妙にちがうんですよ。古い絵は印刷のほうが綺麗で、現物は汚くて何が描いてあるか分からないなんてことも多分にある。

浅田 そうですね。ちなみに、ぼくが同世代で面白いと思って見ているのは福田和也という人で、彼は今の原稿料と印税で川端康成のようなコレクションが欲しい、それで無茶苦茶に書きまくって無茶苦茶に買いまくるわけでしょう。無謀ですよ。ぼくは逆に、できるだけ何も持ちたくないと思う。本物のリアリティが情報に還元できないことはよくわかっているけれど、やっぱりものに縛られたくない。

橋本 収入の限界って大きいじゃないですか。そうすると今の自分の金で買えるものはこの程度というのが、似合う似合わないに結びついてくるんです。四十代の時に、四十代でこれしか買えないんだったら買わないほうがいい、という新しい日本の美意識になってしまいました(笑)。ただ、私、複製でもいいんで、二十代の頃に画集はよくそろえたんですよ。複製でも何でも、美術って自分で持っちゃうと食物のように食えるんです。それで消化してしまえる度合いは強くなったな、と思います。

浅田 同感ですね。実は、雪舟論なんかを見ると、小林秀雄なんかもいろいろ蒐集もしながら結局はそう思っていたんじゃないか。そうやって食べて消化して排泄してしまえばそれでいいんですよ。

(平成19年4月14日)

撮影:新潮社写真部 青木登

ひらがな日本美術史
橋本治/著