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橋本治+浅田彰 日本美術史を読み直す――『ひらがな日本美術史』完結を機に――

2019年4月22日

橋本治+浅田彰 日本美術史を読み直す――『ひらがな日本美術史』完結を機に――

第1回 私の中に「奇」はない

著者: 橋本治 浅田彰

先日亡くなった橋本治さんは、『ひらがな日本美術史』全7巻完結後に、浅田彰さんと「新潮」2007年8月号にて対談をしました。浅田さんが『ひらがな日本美術史』という仕事を高く評価していたことから実現したもので、活字になったの二人の対談はこれ一回のみです。二人の大ファンである私にとって、この対談は夢のような時間でした。今回、浅田彰さん、橋本治さんご遺族のご厚意により、この「新潮」掲載版の対談を復刻掲載いたします。(編集長 松村正樹)

浅田 お久しぶりです。二十五年くらい前に、『広告批評』が紀伊國屋ホールで開いたシンポジウムで、オブザーヴァーと称して隣どうしに座らされて以来ですよね。

橋本 あれは何だったんですかね。僕はオブザーヴァーになってくださいって言われた記憶もないんですよ。客席にいてくださいって言われて、何か最後に言ってくださいって言われて、すごく過激なことを言ったという記憶だけはあるんですけどね。

浅田 ぼくはそのとき、橋本さんのデビュー作「桃尻娘」が雑誌に掲載されたときからのファンだと言ったんですけど、あれ以来、橋本さんは、元祖ひきこもりという感じで部屋にこもりながら、膨大な仕事を積み上げてこられた。ぼくはあちこち出歩きながら仕事らしい仕事もせず、ファンと言いながら橋本さんの仕事をきちんとフォローすることさえできずにいるありさまです。ともあれ、橋本さんは、その仕事の一環として、古事記から源氏物語や平家物語を経て南総里見八犬伝に至るまで、いわば日本というものを自分で改めて書き直すという途方もない企てを実行してこられた。このたび完結した『ひらがな日本美術史 全七巻』(新潮社刊)もその一環で、これまた埴輪から東京オリンピック・ポスターまでの日本美術史を全部自分で書いてしまうという途方もない企てです。「みんな日本について知らなさ過ぎる」と言う人は多いけれど、だからと言って「じゃあ自分が日本を全部やっちゃうよ」という人はまずいない。橋本さんのその気力は一体どこから来るんでしょう。

橋本 「やっちゃうよ」じゃなくて、『ひらがな日本美術史』の場合は、「やっていいんだったら」なんですよ。私が自分からやりたいっていったのは、枕草子(『桃尻語訳枕草子』)と源氏物語(『窯変 源氏物語』)と平家物語(『双調 平家物語』)だけなんです。この仕事はいきなり「芸術新潮」の編集者に「美術史を書いてください」と言われて、「やっちゃうよ」じゃなくて「やらないとわからないだろう」と思って引き受けました。人がどれだけ知らないかは、大体分かるんですよ。じゃあ自分はどれだけ知っているかになると曖昧だから、取り敢えずやってみた、とそんな感じですね。

浅田 橋本さんはやっぱり職人だと思うんです。自分でやってみて分かる、そこで分かったことには絶対的な確信をもつ、と。一方で「漢字日本美術史」というべきものも世の中にはあって、専門家がやたら難しい用語で決まりきった日本美術史のメイン・ストリームを語り続けている。そちらが「源平盛衰記」なら、こちらは「ひらがな盛衰記」なんだ、職人として勝手に逸脱しながらつくっていくんだ、というのが、この本のコンセプトでしょう。ただ、今回通読してみて思ったのは、そういう建前でありながら、実際にはこの本はものすごく正統的に日本美術史のメイン・ストリームを呈示しているな、ということです。
 世の中では、ここ三○~四○年というもの、どの領域でもリヴィジョニズム(歴史修正主義)が広がった。昔は例えば江戸時代の絵画なら土佐派・狩野派・円山派なんかがメイン・ストリームだったのに対し、一九七○年に辻惟雄の『奇想の系譜』が刊行され、伊藤若冲とか、曾我蕭白とか、あるいは歌川国芳とか、それまでの主流から落ちこぼれたところにヘンな人たちを見つけて面白がる風潮が出てきた。西洋美術史で、セザンヌからキュビスムへというメイン・ストリームに対し、高階秀爾なんかが象徴主義やアール・ヌーヴォーなんかをジャポニスムがらみで評価したのも同じ文脈だと思います。最初は、そういう仕事には、メイン・ストリームをひっくり返すという意味で大きなインパクトがあったかもしれない。けれども、それ以来、主流派の「大きな物語」なんていうのはどこにもなくなったにもかかわらず、彼らの弟子たちも同じように路傍の異端の花々を探すようなことばかりやっている。そんな中で、実は『ひらがな日本美術史』が一番真っ当なメイン・ストリームを呈示しているというところが、とても面白いと思うんです。例えば円山応挙はなぜいいのか。松の絵なんかはダメだけれど、子どもの絵はなぜあれほど生き生きしているのか。それは応挙が一八世紀市民社会の画家だったからだ、と。そんな真っ当なことを言っている人はいまやどこにもいない。

橋本 辻惟雄先生の『奇想の系譜』が刊行されたのは私が大学生の頃で、当時はやはりオッと思ったんです。でも、そのすぐ後で、『奇想の系譜』関連の展覧会があって、そこで曾我蕭白の《群仙図屏風》を見て、これ好きじゃない、《商山四皓図屏風》のほうがずっといい、と思ってしまったんですよ。それに私は、歌川国芳を奇想だと思わなかったんですね。これは私にとってはオーソドックスなものであるし、これをオーソドックスだというところからスタートする美術史というのがあってもいいんじゃないか、初めからやればそれが整理できるかな、と思って書いたところもあるんです。だから、もう奇をてらうもへったくれもない。私のなかに「奇」はないのね。「これもいいあれもいい」の、イーブンであるというところから考えはじめて、なんとなく宙に浮いているもの二つを、この同じ宙の浮き方で二つは繋がっているんじゃないの、という風に書いたのがこの美術史なんだと思います。

橋本治氏
浅田彰氏

弥生的なものこそ

浅田 『ひらがな日本美術史』では、前近代が終わったところで一種の仕切りなおしがあり、弥生的なものを改めて日本美術史の枠組みとして設定し、縄文的なものを「奇」として面白がる岡本太郎的なポーズを排除するわけでしょう。ある意味で定番と思われている弥生的なものこそ、ヘンなものを自由に取り込みながら、日本美術史のメイン・ストリームをつくってきた。そっちのほうが主観的な好き嫌いを超えていいんだ、主観的に面白いとかいうんじゃなくたんにいいからいいんだ、という宣言をしている。全面的に賛成するかどうかは別として、潔い態度だと思いました。「俺は反動だ」と言っているのに近いところもあるわけだから(笑)。

橋本 潔い決断をしちゃったから、困っているんですよ。その後、分からなくなったのは、「弥生の器を捨ててしまったあとには何があるの?」ということ。もう一度、弥生の器の中に何か入れるにしたって、壊れているものの中には入らないんじゃないか、という問題がある。例えば、柳宗悦、河井寛次郎、北大路魯山人がしたのは弥生的な器のなかに何かを復活させようという動きなんだけど、それって美術史全部をフォローしようとするようなものじゃないから、ある時代のディレッタントな営みにしかならないんですよね。でもじゃあどうすればいいの、ということになると私分かんないんです。

浅田 例えば丹下健三は日本における近代建築のパイオニアということになっているけれど、広島平和記念資料館なんかはまさに弥生的なんですよ。細い木の柱を、コンクリートの打ち放しでいかに繊細に模倣できるか。当時、そういう弥生的=公家的なものに対し縄文的=民衆的なものの方に向かうべきだという議論があり、世界の建築界でブルータリズムが流行ったこともあって、丹下健三もそちらに傾斜するわけだけれど、全体としてみるとやっぱり弥生的なんですね。だから、弥生的な器が壊れたかに見えても、近代建築のもっとも荒っぽいところまでそれが続いているようにも見える。まあ、それが現在の建築にまで続いているのかどうかといえば、微妙ですけどね。

橋本 『ひらがな日本美術史』で、逃げちゃったことがいくつかあるんですが、近代に関して、建築からは逃げましたね。近代の建築に必然があるんだろうか、ということになるとよく分からないんですよ。建物として、そういうものを造らなければいけない必然はあるだろう、しかし、あれは日本人の美的な必然と合致しているものなのか、ということになると私は大疑問なんです。例えば東京駅をみれば、嫌いじゃないよなと思うけど、嫌いじゃないよなと思うことと、美術史のなかでどう位置づけるかということになるとまったく別なんでね。美術史の流れそのものがまったく違う。横山大観、菱田春草系の近代日本画を『ひらがな日本美術史』から外しちゃったというのも同じなんだけども、そういう流れがやってくるのは分かる、やってきたのをどう処理したのかも分かる、でも何かそれに意味があったんだろうか、ということになると、分かんないんですよ。

浅田 江戸の職人、橋本治としては、ある意味で当然の選択だろうと思います。ただ、たまたま橋本さんの連載中に刊行された、磯崎新の『建築における「日本的なもの」』や、磯崎新と福田和也が日本各地の建物を行脚した『空間の行間』なんかで、興味深いパラダイムが提起されている。日本史においては、外圧があって内乱が起きると、橋本さんの言う弥生的なものが揺らいで、とんでもないものが出現するんだけれど、それがまた和様化されて弥生的なものに戻るというパターンがある、と。具体的に言えば、白村江の戦いと壬申の乱、元寇とその前後の内乱、鉄砲やキリスト教の伝来と戦国の乱、黒船と明治維新ですね。その中でも特権的に取り上げられている建築物が、『ひらがな日本美術史』にも出てくる重源の東大寺南大門で、そこには磯崎新の、近代建築を本気でやるならああいう構造がむき出しになったようなものを屹立させたい、という気持ちが、明らかに透けて見える。だけど実際は、南大門のようなものはなし崩しに和様化されて弥生的になってしまうんですね。

橋本 つまり、弥生化というのは卑小化だということでもあるわけでしょ。

浅田 卑小化というか、外からのインパクトを融通無碍に散らして、やんわり受けいれる、と。それに抗って、インパクトを直接受け止めるようなもの、それ自体もインパクトのあるものが出来るかどうかというのが、磯崎新の問いだと思うんですね。だから、橋本さんの弥生的な構造が本流だという言い方と、磯崎さんのそれにどうやって抗えるか(ただし岡本太郎流の縄文的な「爆発」によってではなく)という問いは、背中合わせになっているとも言えるんじゃないか。

橋本 私にとって、弥生的だというのは、これはいいと思う、これもいいと思う、これもいいと思う、と「いい」が並んでくると、この「いい」の間に何か共通しているんだよな、ということなんですよ。言ってしまえば、縄文的なものっていうのは常にちょろちょろ湧いてくるんだけど、結局それを洗練してしまうのが日本美術であって、その洗練するという行為を弥生的って言ってしまえばいいのかな、というくくりなんですね。そう考えると、近代以前は洗練する時間的な余地があった。でも、近代以後になると洗練する余地がなくなった。だから、年寄りよりも若者がやることのほうがいい、となってしまったんだと思います。

浅田 幼児的な前衛芸術家気取りというのがあって、彼らは「近代では何でも新しいほうがいいんだ」と思い、つねに新奇なショックを生み出そうとする。それに対して、江戸の職人である橋本治は、大人の職人として成熟するということを言い続けている。それはよくわかります。ただ、その上で僕は、一方で新しいものをどんどん使い捨てながら、他方で弥生的なものが支配的なイデオロギーとして今もずっと残っている、という気がするんですね。

橋本 でもそれは、いい弥生的なものが残っているのか、それともこれがいいものだという思い込みが残っているのかってところで、微妙じゃありませんか。

浅田 それはそうです。

橋本 そういう線引きもなんか嫌だって思って、それで『ひらがな日本美術史』の近代篇はあっさり終わらせてしまったんですよ。そういうことを入れていくと、ひらがなじゃなくなって、アルファベットになってしまうんです。

本居宣長的な構造

浅田 たしかに、橋本治日本美術史のいいところは、退屈だけれどもいいものだということを、はっきり言っていることだと思います。狩野派は、唐絵とやまと絵を織りまぜて、いわば和漢混淆文のようなものを作った、それこそが日本画のマトリクスになりえた、と評価されているところや、さっき言ったように、円山応挙を一八世紀の近代日本画の祖として評価するところですね。
 それに対し、「奇想の系譜」だけを追いかけるのはやはり問題がある。だいたい、伊藤若冲が忘れられた画家だとかいうけれど、あえて京都人として言わせて貰えば一回も忘れられたことはないと思うし(笑)、現に夏目漱石の『草枕』にも出てくるぐらいでしょう。曾我蕭白はたしかに忘れられていたかもしれないけれど、あれはやはりゲテモノと言われてもしようがない、その上であえて面白がるかどうかというようなものだと思うんですね。やはり、いかに退屈ではあっても、土佐派があり、狩野派があり、円山派があり、というまともな美術史をわかっていないと、日本美術史の面白さはわからないんじゃないか。そこは橋本さんと同感なんですよ。

橋本 ゲテモノという言葉がなくなったのは問題だと思う。ゲテモノはやはりゲテモノなんですよ。人は時々、ゲテモノが好きになる。基準が二つあるってことがいいんであって、ゲテモノだから全部いいということはない。

浅田 ちなみに、和漢混淆文の話をきっかけとして、先ほどの磯崎新パラダイムをさらに敷衍すると、柄谷行人の『日本精神分析』や石川九楊の一連の漢字論のような議論があるでしょう。まず漢字を受容した上で、そこから仮名を作り出す。ところが、仮名は漢字から派生したものであるにもかかわらず、仮名こそ日本人本来の自然な心情を表現するのに適している、漢意(からごころ)に対するやまとごころの媒体である、というイデオロギーが出来上がる。中国の仏教寺院の様式を導入して法隆寺なんかを建てておきながら、あえてもっと自然発生的な日本建築と称して伊勢神宮なんかを建てるのと同じです。つまり、純日本的なものというのは、漢字に対する仮名のように、外部からのインパクトを受容する過程で捏造された「起源」なのではないか。それが和漢混淆文のように何でもうまく取り入れて和様化するシステムとして根づき、いまも和洋混淆様式として続いているのではないか。そういう風に融通無碍に展開してきたのが美術史を含む日本文化史であるとして、それは橋本さんの言われるように近代化で壊れたようにも見えるけれど、強固に存続しているようにも見えるんですね。

橋本 そういう議論について言うと、ルーツについて、一個わかるとそのキイによって全部がわかるという考えかたは、あまりにも単純すぎないかっていうふうに私は思うんですよ。ある部分ではAというタームを持ち上げ、別のところにくるとAを否定しつつBというタームを持ち上げ、とそれでいいんじゃないか。
 大体、漢意とやまとごころという概念は、それを言い出した本居宣長が、いろんな方面からせっつかれた末、自分のありかたを守るために言い出した防御の言葉なんじゃないか、という感じがしているんです。じゃあ漢意とやまとごころをどう線引きなさるんですかと突っ込まれた時に、宣長はちゃんと答えたのか、答えたとしてもそれが正しいかどうかは分からないじゃないかと思ってしまう。それよりも重要なのはやまとごころと漢意という概念を出してきて、それで本居宣長が守りたがっていたものは何なのか、ということなんですけど。

浅田 本居宣長に対して上田秋成が、オランダわたりの世界地図を見て、日本というこんな極東の島国に太陽神が降臨したなんてありえないとか、子どもみたいにストレートな議論をする。それに対して宣長が、いや、そういう言い方そのものが漢意なので、素直に古事記と向き合うということが君にはわかっていない、などと言う。橋本さんの言われるように、すごく屈折したディフェンスというか……。

橋本 それ以前に、宣長に人に説明しようという気がないんだと思う。だって、あれで分かれというのは無理ですよ。

浅田 小林秀雄と坂口安吾に「伝統と反逆」という有名な対談がある、あれも同じような構図でしょう。安吾は子どもみたいにストレートなことを言う。小林の骨董趣味を批判する一方、小林の評価する梅原龍三郎なんて「奇型児」じゃないか、と。それに対して小林は、「奇型児」と言えば「奇型児」かもしれない、しかし、それは日本で洋画を描くことからくる宿命なので、その意味では「奇型児」でいいじゃないか、と。それで「奇型児だって遂に天道を極める時が来るのかも知れない」なんて強弁するわけです。僕自身は、上田秋成や坂口安吾のように突っ張るべきだと思う。だけど、彼らが相手にしている本居宣長的あるいは小林秀雄的な構造というのがすごく強力なものだし、いまも持続しているということは、きちんと見なければいけないと思うんです。

橋本 多分、私は坂口安吾や上田秋成の言うことのほうがよく分かり、小林秀雄や本居宣長の言うことのほうが分かんないんですよ。ただ、小林や宣長が何を問題にしてたのかは分かる。分かるんだけど、その分かることをこっちに分かるように説明してくれないかなというのがあって、彼らがその言語を持ち合わせていないのか、その必要を持ち合わせていないのか、多分両方だと思うんですけど、結局それはまだそんなにオープンになれない時代のせいなのかなあと思うんです。だって普通に考えれば変じゃないですか。江戸も京都も好きな宣長が、音曲が花盛りの時代に、なぜ和歌だけがいいとしたのか。そういうところで、宣長がたまたま和歌が好きだった、ということではなんで悪いんだろうと考えちゃうんですよ。

浅田 とにかく、和歌や源氏物語のようなものこそ国学の精粋だということになっているわけでしょう。やたらと道徳的な議論をするのは漢意にすぎない、仮名で日本人の心情を綴った源氏物語はどうしようもない乱倫の話ではあるが、それを平然と肯定するのがやまとごころだ、と。ある意味でめちゃくちゃな話ですよ。でも、上田秋成なんかと対応する中で、本居宣長はどうにも硬直した居直り方をしてしまう。小林秀雄も最終的にそういう居直り方を反復しているところがある。あれはちょっといやなんですね。

橋本 小林秀雄が「源氏物語」をどう思っていたのかがさっぱり分かんないんですよね。で、本居宣長を問題にし、「古事記伝」を書く宣長を問題にするが、なんでこの人は「古事記」そのものをまったく問題にしないんだろうって、そこもよく分からない。小林秀雄は別に「古事記」も「源氏物語」もどうでもよかったんじゃないのか。あの人は自分の関心のないものに関してはどうでもいいといって退ける人だったんじゃないだろうか。問題は、その退けたものの中に結構いろんなものがあるんだから、小林秀雄を否定するつもりはないけど、他もありということにしてくれないかな、というだけなんですけど。

浅田 「古事記」自体はさておき、漢意を捨てて「古事記」に素直に向かい合う本居宣長がいるとか、あるいはその「古事記伝」に素直に向かい合う私がいるとか、結局そういう話になっちゃうんですね。

橋本 私、一応、大学時代に国文科の学生だったんで、時々とても不思議な感じに襲われるんですよ。最近若い人から、「国文学というのは本居宣長の国学から始まった」と言われ、別の人からは、「あなたの言うことは定説とは違うけれども」と言われてね。「定説とは違う」と否定されてるわけではなくて、相手はとまどってるんですよ。だから、両方合わせてびっくりしました。本居宣長という人は定説に縛られないで、自分の感性で考える人だったはずなのに、その人をルーツにしていつの間にか定説というものが出来上がっていて、それと違う考えかたをすると変だということになったのは何故? という感じなんです。

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*産業革命後に急速な都市化が進むロンドンで、イギリスの詩人ワーズワースが書き遺した言葉。

 

 

「考える人」編集長
松村 正樹

著者プロフィール

橋本治

はしもと・おさむ 1948年東京生まれ。東京大学文学部国文科卒。小説・戯曲・評論・エッセイ・古典の現代語訳・浄瑠璃などの古典芸能の新作ほか、多彩な執筆活動を行う。2002年『「三島由紀夫」とはなにものだったのか』で小林秀雄賞を、2005年『蝶のゆくえ』で柴田錬三郎賞を、2008年『双調 平家物語』で毎日出版文化賞を受賞。著書に、『窯変 源氏物語』『巡礼』『リア家の人々』『ひらがな日本美術史』『失われた近代を求めて』『浄瑠璃を読もう』『九十八歳になった私』など多数。2019年没。

浅田彰

あさだ・あきら 1957年兵庫県神戸市生まれ。京都造形芸術大学大学院学術研究センター所長。著書に『構造と力』(勁草書房)、『逃走論』『ヘルメスの音楽』(以上、筑摩書房)、『映画の世紀末』(新潮社)など。


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