2019年4月23日
橋本治+浅田彰 日本美術史を読み直す――『ひらがな日本美術史』完結を機に――
第2回 骨董屋の丁稚の手習い
先日亡くなった橋本治さんは、『ひらがな日本美術史』全7巻完結後に、浅田彰さんと「新潮」2007年8月号にて対談をしました。浅田さんが『ひらがな日本美術史』という仕事を高く評価していたことから実現したもので、活字になったの二人の対談はこれ一回のみです。二人の大ファンである私にとって、この対談は夢のような時間でした。今回、浅田彰さん、橋本治さんご遺族のご厚意により、この「新潮」掲載版の対談を復刻掲載いたします。(編集長 松村正樹)
浅田 そういえば橋本さんは大学時代、美術史の山根有三の研究室に居候的に押しかけていたんですって?
橋本 山根先生の美術史のゼミというのがあり、私、国文科で美術史ってなにをやるんだろう、という野次馬気分で顔だしたら、教職課程のカリキュラムのせいで、ほかに生徒がいなかった。美術史の学生も全部よそに行っていた。で、なりゆきで山根先生も美術史専攻じゃない学生の私に美術史を教えるというゼミをなさったんです。
浅田 じゃあ、一対一だったんですか。
橋本 そうです。障壁画の図版を三つ出してきて、「この中に一つ本物があります。それはどれでしょう」とか「この五つのうちに二つだけ本物があります。どれでしょう」とか、幼稚園の入園テストみたいなことやっていました。その時に山根先生に「貴方は目が確かですね」って言われたんですが、私は、学校に入って先生に褒められたのは、おそらくそれが最初です。それで、結局、自分の目でみればいいんだっていうように、体が理解しちゃったから、その後なんの話も聞いてなかったんですけどね(笑)。
浅田 いや、それはすごくいい教育だったんじゃないかな。
橋本 だけど私は教育の原点でしか教育受けてないから、分かんないんですよ、そのさきの複雑な話が。
浅田 知識だけの教育が多い中で、とにかく自分の眼で見ることに自信をもたせるというのは、素晴らしいと思う。ある意味で骨董屋の丁稚の手習いみたいなものですよね。
橋本 でも、職人教育には、ぴしっと手の平をひっぱたかれるというのがあるじゃないですか。ひっぱたかれないところが学問ですよね。
浅田 僕の両親は三島由紀夫と同い年で、敗戦の時に二十歳だった世代なんだけれども、京都大学の学生仲間と、森暢という美術史家を囲む会を作っていたんですよ。森暢というのは「鎌倉リアリズム」を重視する人だった。ちなみに奥さんは、ブレヒトの劇や溝口健二の映画にも出た毛利菊枝という女優で……。
橋本 毛利菊枝って、「新諸国物語 紅孔雀」の黒刀自をやった方ですよね。
浅田 そうそう。僕は子どもの頃から時々その会に付いていって、神護寺の曝涼(虫干し)を見せてもらったり桂離宮を見せてもらったりしたんですよ。最近のリヴィジョニズムから言えば、森暢は古臭いモダニストということになるのかもしれないけれど、実物に触れながら一定のパースペクティヴをもった話をしてくれた、それはとても貴重な体験だったと思う。面白主義でヘンなものばかりつまみ食いさせられるよりいいでしょう。
橋本 古い日本のものを近代以後の日本人が見て、引き出せるのはモダニズムだけだと思うんですよ。『ひらがな日本美術史』でやったのも、結局は古いものの中から今に通じる何かを引き出したい、ヒントをもらいたいってことなんですよね。逆に言えば、温故知新じゃないけど、昔のものの中から何か引き出してくる能力というものを失ってしまうとなんにもなくなってしまうよ、というのが私の今の日本に対する危機感です。
浅田 まったくその通りですね。ともかく、米倉迪夫が『源頼朝像―沈黙の肖像画』で説いた、神護寺の《源頼朝像》は実は頼朝ではなく、足利尊氏の弟の足利直義の肖像だという説は、なかなか説得力があるけれど、個人的にはあれが頼朝像であってほしいなあという気はする(笑)。森暢は、昔、歩いて神護寺に通って、古文書を解読し、あそこに頼朝像や重盛像や光能像があったということを確認するんですね。ちなみに、ある説では、院政期は男色が盛んだったし、後白河法皇はバイセクシュアルだった(という表現もアナクロニスティックだけれど)から、後白河法皇の肖像を囲んで彼の寵愛した男たちの肖像が並ぶようになっていた、それが頼朝像や重盛像や光能像だ、とも言われる。とはいえ、あの《源頼朝像》が古文書にある頼朝像に対応するのかどうかは、確かにわからないわけです。僕らはそう思い込んでいるけれど……。
橋本 そういう刷り込みが出来てしまっていますよね。
浅田 それこそ安田靫彦の《黄瀬川陣》にも、あの《源頼朝像》そのままの頼朝が出てくるから。
高橋由一の可能性
橋本 ただ、本音をいうと、私は安田靫彦の《黄瀬川陣》の中の頼朝はあんまり好きじゃないんです。近代の日本画の最大のネックは、その人のもっている嫌な部分が描けない。なんかみんないい人になるんですよね。「これをいい人と思え」だとか。昔の絵は、いいも悪いもなくて、その人の微妙な、嫌な人かもしれないっていうニュアンスも同時に伝えてくる。それは写実のせいではなくて、対象把握のありかたそのものが違うんだろうと思うんですけどね。
浅田 《黄瀬川陣》について言うと、頼朝と義経の感動の再会を描きながら、しかし兄はこの弟を戦略的に使い捨ててやろうと思っているかもしれないという感じにも見えて、それを一九四○年から四一年という時期に描いたというのは、一種の戦争画として見ても面白いと思うんです。ただ、橋本さんの言われることはよく分かる。あの種の近代日本画は、なんとなく絵本のイラストレーションみたいで、人間の多面性に迫るリアリティがないんですよね。
橋本 リアリズムは、国家が持っているからいいとでも思っていたのかなあ。何かを捨てていますよね。それで、逆にリアリズムにしようとすると極端にえぐい方向にいくのが、近代の悲しさだと思う。勉強の基本では写実写実って言うんだけれど、その写実が作品に結実していくのかとなると微妙です。そこら辺を突っ込むと、私は近代に対する悪口しか言わなくなっちゃうんで、極力悪口を言わざるを得ないようなシチュエーションは捨ててきましたけど。
浅田 いいものはいいというための本ですからね。だけど、何でああなったんでしょう? 最初にアーネスト・フェノロサや岡倉天心の戦略があって、実際に横山大観や菱田春草なんかの作品が出てくる。国際的な視点で日本の伝統を見直しながら、近代日本画というものを作り出たわけです。ところが、安田靫彦や前田青邨となると、だんだん歴史絵本の挿絵みたいになっていく。で、まさに挿絵から出発した東山魁夷を経て、平山郁夫に至るわけですよ。
橋本 あとなんか、日本ってあくの抜けてるもの程いいんじゃないかという、美意識がありません? 食文化もそうでしょう。味を落としてしまうことが料亭の料理だ、みたいになっていたじゃないですか。今までの自分達から逃げることがいいことなんだという考え方があるのかもしれないですね。
浅田 だから、両極化するんでしょうね。無難に洗練されたものがメインになると、今度は逆にたんにえぐいだけのものが出てくる……。
橋本 そこには、自分はそれでいいかもしれないけども、他人がそれをいいと思うかどうかっていうところが抜けているような気がするんですよ。つまり、職人というのは自分はそれでいいと思うけれども、お客さんがそれでいいと思うかどうかはまた別だ、という二律背反の中にいる。近代の画家にはそういうところがない。
そう考えると、近代以前の日本美術というのは根本的に弥生的であるとかいうことよりも、商業美術的なものであるということのほうが大きいのかもしれませんね。近代の画家っていうのは、認めてくれる偉い人達がどこかにいるわけじゃないですか。でも、それ以前の時代の職人にとってみると、認めてくれるいいお客さんというのは、エスタブリッシュメントの中にはいたかもしれないけれども、支配層ではないんですよね。武士の支配層に、美術が本当に分かったのかよという話になるといろいろ疑問な点もあるわけで、目の肥えているいい人のためにいいものを作っても、その人達がしかるべき地位にいなかったら、その人たちの声は通らないということになってしまう、そういう悲しい社会構造の問題というのもあったのかな、という気はします。
浅田 だから浮世絵のような商品の水準が高くなる。その流れが近代になってデザイン(いわゆる応用美術)の水準の高さにつながり、亀倉雄策の東京オリンピックのポスターまでいく。一方、官展系の画家は狭い政治の世界で生き残ったということなのかもしれない。
橋本 ひっくり返してしまえば、「官展系の画家はなぜ偉いんだろうか」じゃなくて、「このキッチュな絵はなんだろう」っていう見方もあるんですよ。近代は、初めそれでやろうかと思ったんですが、虚しい作業だと思ってやめました。
浅田 その点、僕は近代では高橋由一の時点にいちばん可能性があったような気がするんです。
橋本 私も高橋由一はとても好きなんです。だけど、それ以外の近代の日本画は、円山応挙から近代美術がはじまっていると考えると、大したもんじゃないと思います。それなのに、近代日本画の歴史は、円山応挙はとりあえず過去の人ということにして、別のバリエーションでやっていけば何か生まれるんじゃないだろうかという考えかたで作られてしまったんじゃないか、という気がします。
浅田 円山応挙は、おもちゃ屋の丁稚だったから、「眼鏡絵」という覗きからくりの絵も描いていたでしょう。芝居小屋を描いた「浮絵」の画家たちと同じで、西洋の遠近法・透視図法をマスターして、極端にパースペクティヴを強調するような絵を描いているわけですよ。その上で、いわゆる日本的な平面的表現をやってのけるんですね。
橋本 そうですね。
浅田 金刀比羅宮というのはなかなか面白くて、伊藤若冲の《百花図》という植物図鑑のような絵があり、円山応挙の《瀑布及山水図》という巨大な滝が床の間から流れ落ちている絵がある。一八世紀の西洋の美学でいえば典型的な「美」と「崇高」ですよ(応挙は一般に「美」に対応する作品の方が多いわけだけれど、一八世紀的パラダイムの中で「美」も「崇高」もこなせたということでしょう)。さらに金刀比羅宮には、その百年ぐらい後の高橋由一の油絵もある。パリの万国博覧会に対抗して個人の展覧会を開いたギュスタヴ・クールベみたいなもので(まあ高橋は反動的な県令のコミッションで仕事をしたりもしているから右翼のクールベと言うべきだろうけれど)、明治十二年の琴平山博覧会に35点もの油絵を奉納したんですね。そこには「美」でも「崇高」でもない、たんにリアルなものが描かれている。木綿豆腐と焼豆腐と油揚を描いた《豆腐》なんて、ほとんど構造主義かと思うような絵だけれど。
こうしてあえて西洋近代の視点から見ても、一八世紀の若冲や応挙の段階で同時期のヨーロッパの「美」と「崇高」の美学が実践されているし、さらに一九世紀後半の高橋由一はクールベのレアリスムに近づいているとさえ言えるような気がする。ところがそのあと急に黒田清輝とか青木繁とかが出てきて……。
橋本 西洋なんかにいっちゃうからいけないんですよ。
浅田 しかも、ラファエル・コランとか、下らない折衷派のアカデミシャンに師事しちゃったりするものだから。
橋本 高橋由一が可哀相だったのは、彼が生まれた時代のせいで貧乏だったことだと思う。つまり、若冲、応挙らはスポンサーがいるから、やれっていえば何でもやれたんですよ。由一は先生探しから絵の具作りまで自分一人でやらなくてはならなかったからクールベにならざるを得なかったんではないかと思います。彼の中には、貧乏に由来する力業のよさみたいなものがあって、それが洗練されると平板になる。
浅田 高橋由一は横浜にいたイギリス人画家のチャールズ・ワーグマンに絵を習ったわけだけど、絵の具をつくるところから全部自分でやった、それがよほど徹底していたのか、油絵としてきちんとできていて、マチエールが非常に堅牢だというんですね。それが、黒田清輝以降になると、フランスに留学して勉強したはずなのに、絵の具が高くてあまり使えなかったのか、ひどく薄っぺらになってしまう。その辺から日本近代の貧しさが前景化してくる気がするんですけどね。
橋本 高橋由一、その前の渡辺崋山は素描の力がしっかりしているんです。遡っていくと、日本の絵画って狩野探幽ぐらいからずっと素描がしっかりしている。つまり、絵を描こうとする人はきちんと素描をしなければいけないという肚が、根本にあったんですよ。でもそれがいつの間にかなくなっていて、素描が妙に東大寺南大門の金剛力士像のような、過剰に強いものの方にいってしまうへんてこりんさというのは、美術をとりまく環境が不幸だったというのがとても大きいんじゃないかなと思います。
浅田 言い換えれば、素描で漫画が描けないと駄目だということがあったと思うんですね。だから、西洋ではドーミエがあってクールベにいくんだけれど、強引に見ればワーグマンと高橋由一がそれに当たる。「ジャパン・パンチ」で諷刺画を描いていたワーグマンに習った高橋由一が鮭や豆腐を描いているのがまた凄いと思うわけですよ。あそこに日本の近代の可能性があった気はするんだな。
橋本 まあでも、高橋由一は、貧乏でまじめだったから漫画を描くような飛躍は出来なくて、豆腐描いていたっていうところもあるのかなあという気もするんですけどね(笑)。
個人を超えた美術史
浅田 でも、金刀比羅宮の高橋由一の作品の中には、左官が壁土かなんかを捏ねている脇の壁に相合傘の落書きなんかが描いてあるところまで写し取った絵がある。貧乏もあそこまでいけばすごい。他方、貧乏じゃないとどうなるかといえば、岡本太郎になるんじゃないですか。人気漫画家だった岡本一平が、息子を連れ、妻の岡本かの子とその愛人たちまで引き連れてヨーロッパへ行く。で、太郎は、抽象のグループ(アブストラクシオン・クレアシオン)から、シュルレアリスムを経て、シュルレアリスム異端のバタイユのグループまで、あるいは、コジェーヴのヘーゲル哲学講義から、出来たばかりの人類学博物館での民族学講義まで、あらゆるものを横断していく。一九三○年代のパリの前衛の最先端をなで斬りにしたわけで、世界的に見てもあれほど短期間にあれほど横断的に動いた人はほとんどいないでしょう。そして、そこで身に着けた民族学の視線で日本の縄文を再発見することになる(実はその前に雪の科学者として有名な中谷宇吉郎の弟の中谷治宇二郎がフランスで縄文研究をしていたのを発見したようだけれど)。お坊っちゃまのパリ遊学としては世界最高のレヴェルですよ。だけど、戦後「夜の会」で一緒だった花田清輝も言う通り、君は話は面白いのになんで作品はダメなんだ、と。
橋本 近代篇に岡本太郎を入れようかって、はじめは編集者と話していたんですよ。だけど、「今すごく人気があるんですよ」って言われて、「え、じゃ止めよう」となった。つまり、岡本太郎はああいうものを認めない前提にたてば面白い存在なんですが、認められてるという前提にたつと、いいじゃん別にってことになる……。
浅田 当時のヨーロッパでも芸術や思想の最先端をあれだけなで斬りにした人は少ないんだけれど、それが作品に結実したかというと……。
橋本 なで斬りに出来ちゃうということは、通り過ぎられるということでしょ。自分にひっかかるものが何もないというのは、凄いっちゃ凄いんですけどね。
浅田 岡本太郎より前の世代の藤田嗣治だと、岡本太郎より貧乏だったということもあり、キュビスム以降の「秩序回帰」の流れの中で日本的なものをいかにうまく生かした具象画を売り出すかということを、ものすごく職人的に研究すると同時に、自らトリックスターとなって広告したわけでしょう。
橋本 それは、南蛮蒔絵と同じレベルなんでしょうね。むこうの要求にあわせて、日本的な技術を出すということになったら、南蛮蒔絵にしても、イギリスのヴィクトリア&アルバート美術館にある日本の磁器にしても、日本人の作るものは本当に優れていると思うもの。
浅田 乳白色の完璧なマチエールを作るとか、日本の面相筆で狂いのない極細の線を引くとか、あれは相当な修練がいりますよね。日本をいかに売り出すかという戦略を持ち、かつ職人的修練を積んだというのが、藤田嗣治のすごいところでしょう。岡本太郎の場合は、戦略しかない……。
橋本 戦略もあったのかどうか。
浅田 そう、ただ面白がっていただけかもしれませんね。ちなみに、近代篇に藤田嗣治は入れようと思われなかった?
橋本 図版載せるのが面倒くさいらしいという話を聞いていたんで、佐伯祐三入れちゃえば藤田はいいかなあと思ったんです。ただ、佐伯祐三は取り上げようと思っていたけど、梅原龍三郎は入れる気なかったんですよ。ところが、うっかり生家の職業というものをみたら、佐伯祐三がお寺で、梅原龍三郎が呉服屋だってことが分かって、なんだ、絵は生家の職業そのままなんだってことに気づいたんです。佐伯祐三がパリで描いた《広告貼り》は、ポスターの文字をお経のように書くことでレーゾンデートルを確立したし、梅原龍三郎の《雲中天壇》は緞通とか絹のキルトみたいでしょ。で、両方とも入れることにした。
浅田 ともかく、近代篇はそれまでの六巻に比べるとずいぶんコンパクトな印象でしたね。
橋本 近代になると、この人は何年生まれでこの時に何歳で、というのを全部考えなくてはならないじゃないですか。それが面倒くさいんですよ。
浅田 全体としていうと、『ひらがな日本美術史』は個人を超えたところにある日本美術史なんで、近代になると個人が出てきてうっとうしくなるんだろうな、という気はしましたね。
橋本 院政の頃の絵巻物って、作者が誰だかほとんど分からないじゃないですか。だけど作品のすごさのまえで、作者名がどれほど重要だろうかっていう気はするのね。後白河法皇の時代の絵巻物の筆遣いの見事さというものが、その後の日本美術のなかのどこに行ってしまったんだろうか、というのが私には謎なんですよ。ひょっとするとあれは、王朝社会が育てた時間の熟成の結果であって、王朝社会が壊れてしまったら続かなかったということなんではないかな、という気がします。結局、その後日本の美術はあの線描を復活してないですから。
浅田 僕はたまたま自宅が京都の北野天満宮の近くなんだけど、《北野天神縁起絵巻》なんて、誰が描いたかなんて関係なくて、たんにすごいですよね。それはやはり、後白河法皇という目利きのパトロンがやりたい放題やっていた時代の豊かさなんでしょうね。近代の作家はパトロンや観衆を自分たちで発見しなきゃいけなくなる。藤田嗣治でも岡本太郎でも、それでジタバタして深みにはまっていくところに悲しさを感じます。藤田嗣治は、エコール・ド・パリが下火になると、メキシコ流の壁画なんかを試みたあと、戦争画で観衆を獲得するんだけれど、それで後に「戦犯」扱いされることになる。岡本太郎も、前衛を気取りながら、国家の祭典としての万国博覧会のマンガみたいな「太陽の塔」で観衆を獲得するわけで、まああれはあれですごいものには違いないけれど……。
橋本 それなら、川端龍子みたいに「会場芸術」って言っちゃえばいいのに。
浅田 川端龍子が自宅の画室の横に爆弾が落ちたのを描いた《爆弾散華》なんて、戦争画として見てもなかなかのものだと思いますよ。
橋本 川端龍子のすごさというのは、絵だけ見るとこの人は反戦なのか、好戦なのかよく分からないということです。そのアナーキーさというのは、やっぱり日本人が絵を描くときに持たざるを得ない必然なんじゃないですかね。伊藤博文に依頼されて描いたという狩野芳崖の《大鷲》になってしまうと、とうとう権力に買われる職人が出て来てしまったのかな、と悲しくなりますから。
浅田 そういう意味でいうと、パトロンがいた時代というのは、アーティストも楽だった……。
橋本 西洋のルネサンスが花開いたのはメディチ家がいたからなんて言うけれど、日本にはずっとパトロンがいるんですよね。日本美術史で、ある時代にあったものがなくなったり、新しいものが生まれたりするのは、パトロンの質の変化なんだろうと思う。つまり、日本美術史という観点で見ると、パトロンの質の変化が日本の社会の質の変化なんでしょうね。
だから、白河上皇から後白河法皇の院政の時代というのは、私はあれが日本のブルボン王朝だと思っています。そうなると、鎌倉時代の到来がフランス革命なのかもしれない。もちろん、日本の歴史をあまり西洋の歴史に当てはめようとしすぎるのはいいことではないですけど。
浅田 院政期の文化というのは、その前の王朝文化をもう一回屈折させてものすごく洗練させたものですよね。たしかにあれは日本文化の一つのピークだと思います。
橋本 ただ、日本の巻物やなんかで残っているのって、だいたい院政期のものじゃないですか。そうすると藤原道長の時代にどういうものが描かれていたか、というのが想像つかないんですよ。「源氏物語」のなかに、絵合というのがあるぐらいだから絵は描いていたんだろうが、それがどういう絵なのか、想像する手だてがまったくない。だとすると、もしかしたら紫式部は絵のない時代にフィクションで勝手に絵合というものを作っていた、と考えられなくもない。そう思うと摂関政治の時代って、われわれが思っているよりも退屈な時代だったのかもしれないな、という気もするんですよね。
浅田 王朝といっても、今の古びてしまった平等院鳳凰堂なんかから想像するのは難しいですからね。でも、いま鳳凰堂が修復中で、天蓋なんかを間近で見ることができる、これは実に華麗なものですよ。装飾的でありながら、あえて左右対称にならないようにしてあったり……。
橋本 ただ、《信貴山縁起絵巻》を見ると、あの当時のお寺が壮麗で美しいもので、しかし中世のバチカンのようなぐちゃぐちゃした感じがあって、というすごい時代であった気はするんですよね。なにしろ死体がゴロゴロころがっているし、人は道端で平気でお尻だしてウンコするしって、一方でそういう世界だから。
王朝時代は絵よりも文字の時代で、院政の時代になって、はじめて漫画が文化になったというような考え方をすると、よく分かる気はするんですよ。「待賢門院は和歌が読めなくて、だからこそ《源氏物語絵巻》を白河上皇が作らせた」という説があって、待賢門院ってもしかすると字が読めなかったのかもしれない。王朝という一つのシステムが出来上がって、そこに乗っかれば別にたいして教養がなくても生きていけた時代なわけで、後白河法皇だってはじめは馬鹿だと思われていたことを考えると、後白河法皇と、活字の本を読むよりも漫画雑誌読んでるほうがずっと好きだった私というのがダブってくるんですよ(笑)。
浅田 違いは絵巻物を作らせるお金があるかどうか……。
橋本 後白河法皇の作らせた絵巻の多くは字を読まなくても絵でわかる。《伴大納言絵巻》なんか「映画」ですよね。後白河法皇は、今様が大好きでうたうことしかないという身体感覚の権化みたいな人だから、文字で物事を考えるのではなく、絵で見るということが初めてあそこで形になったという考え方も出来なくはない。
浅田 それが「鳥獣戯画」なんかにもつながるんでしょうね。植物は王朝文化の洗練を伝えて繊細きわまりないのに対し、動物は当時の武士や民衆のダイナミックな身体性に溢れている……。
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ひらがな日本美術史
橋本治/著
ひらがな日本美術史
橋本治/著
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橋本治
はしもと・おさむ 1948年東京生まれ。東京大学文学部国文科卒。小説・戯曲・評論・エッセイ・古典の現代語訳・浄瑠璃などの古典芸能の新作ほか、多彩な執筆活動を行う。2002年『「三島由紀夫」とはなにものだったのか』で小林秀雄賞を、2005年『蝶のゆくえ』で柴田錬三郎賞を、2008年『双調 平家物語』で毎日出版文化賞を受賞。著書に、『窯変 源氏物語』『巡礼』『リア家の人々』『ひらがな日本美術史』『失われた近代を求めて』『浄瑠璃を読もう』『九十八歳になった私』など多数。2019年没。
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浅田彰
あさだ・あきら 1957年兵庫県神戸市生まれ。京都造形芸術大学大学院学術研究センター所長。著書に『構造と力』(勁草書房)、『逃走論』『ヘルメスの音楽』(以上、筑摩書房)、『映画の世紀末』(新潮社)など。
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はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
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手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか――手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。
「考える人」編集長
金寿煥
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