受賞作品
『音楽の危機 《第九》が歌えなくなった日』(2020年9月 中央公論新社)
受賞のことば
この本は「生の音楽」が世界中で消えた状況の中で書かれました。あれから一年、「コロナは人間社会を根底から変えるのではないか」という当時の予感は、どんどん現実になりつつあるようです。明るい本ではないかもしれません。しかし希望とは闇の向こうの小さな灯りのようなものです。本書が音楽を通して闇の向こうの灯りを探す一助になればと念じております。
岡田暁生(おかだ・あけお)
1960年、京都市生まれ。大阪大学大学院博士課程単位取得退学。博士(文学)。大阪大学文学部助手、神戸大学発達科学部助教授を経て、京都大学人文科学研究所教授。著書に『オペラの運命』(中公新書、サントリー学芸賞受賞)、『西洋音楽史』(中公新書)、『音楽の聴き方』(中公新書、吉田秀和賞受賞)、『ピアニストになりたい!』(春秋社、芸術選奨文部科学大臣新人賞受賞)、『オペラの終焉』(ちくま学芸文庫)、『リヒャルト・シュトラウス』(音楽之友社)など。
選評
〝異常化バイアス〟の勝利
片山杜秀
2011年3月11日、東日本の鉄路の上で驚いた。椅子から腰が跳ね上がる。大波に揉まれる如し。未曽有の体験。しかし、すぐにもっと驚いた。揺れがいったん収まったので、駅に停車中だった列車から慌てて飛び降り、隣の車両を覗くと、皆がおとなしく乗り続けている。また列車が動くと思っているのか。これぞ〝正常化バイアス〟。どんな例外状況もきっと去る。慌てて騒ぐな、みっともないぞ。お行儀の良い市民道徳と申しますか。けれど、そんな道徳から外れた人がいつの世にも一握りは居る。もう元に戻らないぞと慌てて騒ぐ。ムンクの『叫び』のように鮮烈に驚倒する。岡田さんは絶対にその種の人だ。敏感力と瞬発力が並外れている。疫病禍で、ベートーヴェンの〝第九〟も上演が難しいかもしれない。独唱と合唱と管弦楽が舞台に所狭しとひしめいて、歓喜の大フィナーレ。満場の拍手。そういうことは、しばし無理かもしれない、が、ワクチンが出来れば大丈夫。じきに元に戻るさ。これは市民道徳。岡田さんは違う。この先、人間はもはや〝第九〟を信じられなくなるかもしれない。疫病禍を機に人間の価値観が根底から覆るかもしれない。これぞ音楽の危機! もちろん、そのスリリングな叫びは詩人的予言にとどまらない。岡田さんはあくまで学者。危機意識が亢進しすぎて狼少年と化しているんじゃないの? 市民道徳家が反論として思いつきそうな微温的見解の数々を、鋭利な否定の論理の刃で、荒木又右衛門のようにばっさばっさと斬り捨てる。その爽快さこそ本書の白眉。そもそも〝第九〟に象徴される、大人数が密集し、指揮者の統率のもと、音の縦を厳格に揃えて、愛と信頼を造形する音楽のタイプは、産業革命以降の市民、労働者の個々人とその家族を睦み合わせるためのイデオロギー装置に他ならなかった。その仕掛けは、労働や生活の形態が生身同士の密接な協業からオンラインで接続された距離ある諸個人の関係に移行してゆく現代には、もはや前時代の遺物。にもかかわらず、真実を糊塗して〝第九〟的市民道徳にまだ価値があるかのように延命を図ってきたのだが、そういうごまかしに、ついに引導を渡そうというのが疫病禍なのだ。すると、その先にライヴのアンサンブルの音楽はなおありうるのか。岡田さんは言う。みんなと「同じ空気を吸えない」ことに人間は耐えられない。ソロやオンラインや録音・録画物だけでは音楽は生きられない。密集し統率された音楽が無意味化するとなれば、先に拓けるのは、散開して各人が勝手をやり、緩くコミュニケートする、より自由な音楽ではないか。民族音楽やジャズや現代音楽には、そういうのはすでに一杯あるぞ。音楽の危機はパラダイムのチェインジをもたらす! この本を岡田さんは去年の6月頃にはほぼ書いてしまっていた! 〝異常化バイアス〟が〝正常化バイアス〟を速攻で寄り切った名著です。
《第九》を巡る弁証法的展開
國分功一郎
コロナ禍でコンサートが次々と中止され、人と人がその場の空気振動を共有する音楽という営みが危機に瀕している――これは極めて深刻であると同時に、通俗的にもなりかねないテーマである。喪失を嘆くことはたやすく、そして俗耳に入りやすい。本書の副題は一瞬だけ私にそのことを懸念させた。しかし本を開くや、私はそんな懸念を抱いていたことすら忘れ、その記述に熱中した。
《第九》はこの本を貫く一つの柱である。まず「音で表現された市民集会」としてのその歴史的意義が確認される。だが、すぐにアドルノによる《第九》批判が紹介される。近代市民社会そのものの排他性がそこには表現されているというのである。この近代批判を一つのイントロダクションとして、本書の中盤ではウェーベルン、シュトックハウゼンら20世紀の音楽家たちの試みが一つの確たる視座のもとで魅力的に紹介される。
ハイライトというべき第四章では、「勝利の音楽」としての《第九》の不可能性が確認される。だが、同時に著者は、フルトヴェングラーの《第九》を聴き直し、この音楽は「立ち止まることを知っている」と感動を新たにする。《第九》はこうして新しい相貌のもとに入る。驚いたのはその後であって、終章において著者は、『ヘリコプター弦楽四重奏曲』という途方もない曲を作り出したシュトックハウゼンならば今の状況で《第九》をどう上演するだろうかと問う。
これは否定と肯定を繰り返されてきた《第九》が想像力によって未来へと託された瞬間であり、この箇所を読んだ時、私は本書の全体を一つの弁証法として読みたいという気持ちを抑えることができなくなった。《第九》が対立を経ながら論述の中で運動していき、その相貌を次々と変化させるという意味においてである。本書は新書にありがちな要素の羅列では毛頭なく、全体で一つの有機的なダイナミクスを構成することに成功している。
「シュトックハウゼンならば……」という問いから分かるように、この本は単に嘆いているわけでもなければ、単に希望を語っているのでもない。歴史を経巡った後で、我々の足元には何が残っているのかを冷静に認識させてくれる。私は読後にコロナ禍に向かう自分の態度がどこか変化したようにすら感じた。本書はいわゆる学術書や学術的入門書の域には収まらない、一つの批評であると自信をもって言うことができる。本書が小林秀雄賞に相応しいと考えた所以である。
「盛り上がり」「ふれあい」以後の世界
関川夏央
「最後に向けて盛り上がる」音楽はベートーヴェンに始まったと聞いて、そうなのかと思う。
「クラシック」と呼ばれても、ベートーヴェン以後なら歴史は二百年あまり、落語とおなじくらいだ。その代表的作品「第九」は、ばらばらであった十九世紀前半の群衆に一体感を持たせながら、「友愛と団結で明日を目指せ」と盛り上がらせた。
しかしこの場合、演奏者、合唱者、聴衆はみな「三密」である。「三密」でなければ「第九」にならない。「第九」の日本初演は一九一八年六月、徳島県板東俘虜収容所であった。第一次大戦の初戦、青島で降伏したドイツ人俘虜たちが演奏した。スペイン風邪の流行初期で、収容所でも患者が出たが死者は少なくて済んだ。
ベートーヴェン生誕二百一年の一九七一年に公開された映画『時計じかけのオレンジ』(スタンリー・キューブリック監督)では、人格矯正治療を受けた不良少年が再び「人間性」を回復するシーンで「第九」が鳴り響く。
ただしこの場合の「人間性」とは「暴力と残忍」である。さらに、普段はダメ男の刑事(ブルース・ウィリス)がLAの日系高層ビルでたまたま遭遇したテロリストたちと単身で戦う『ダイ・ハード』(八八年)でも「第九」が鳴った。このとき「第九」がテロリストの一人の主題として使われたのは、キューブリックの影響だろう。
人が集ってこそ「文化を生む」という音楽界のこれまでの信念は、人はウィルスの巣窟だという認識の浸透によって終るのか。音楽はオンラインで十分に可能という考えもあるが、著者のいうように、オンライン空間には「生きたもの」と「空気」や「気配」は持って行けないのである。
これまで私たちは「三密」に「癒し」や「感動」をもとめてきた。「絆」「ふれあい」といった紋切り型の言葉にさえ頼ってきた。それが、「文化より衛生」が重んじられ、「三密」どころか握手や会話も警戒の対象となる今後の世界では、何をもとめればいいのか。
『音楽の危機』について興味深いレクチャーを受けながら、読者は人間とその社会の危機に思いをいたして粛然たらざるを得ない、そんなコワい本を岡田暁生は書いた。
プロセスを共有すること
堀江敏幸
コロナ・ウイルスは、人と人のあいだに距離を設けた。一箇所に集う人数が制限され、現場でも空間を区切って、声を出すこと、空気を震わせることが禁じられた。音楽会はその影響を大きく受けた。文化の徴として芸能と区別されてきた音楽会が、「三密」を生む現場にすぎなかったという構図の転倒に著者は虚を突かれる。
本書の力は、この不意打ちの感覚をはじめから終わりまで失わないところにある。衝撃からの回復を求めて、なにが起きているのかの現状認識を徹底することで、縦に掘り下げる思想にもつながっていくさまは、ひとつのパフォーマンスと呼ぶべきものだ。
場を失った側の当惑と危機感、不安と反省を伝えるには、皮肉なことに新しい場に身を置く相手が必要だ。この本の構想がコロナ禍にともなう大学のオンライン授業という、切羽詰まった状況のなかで用いる資料として着想された経緯は見逃すことができない。ある種の通俗性の旨味と、計算された即興性がそこから抽出される。
そのような密度と濃度の語りを展開する器として、「抱き合え」と歌いあげる《第九》ほどふさわしいものはない。また《第九》ほどコロナ禍において負の構造をあらわにするものもない。しかし著者はそこから正の構造への反転の可能性を考える。「《第九》が歌えなくなった日」という副題は、「再び《第九》が歌えるようになる日」を迎えるための方策を自問することと同義なのだ。
コロナ禍における《第九》をめぐる思考は、「終わり」を求める作品構造の限界にも触れていく。終末が訪れず、開かれたままで「終わり」の余韻をもたらしうる表現があるかどうか。そのひとつの形が「あとがき」にある。終わらない終わりを示すことは、「できあがった作品=ステージよりもはるかに面白いのは、実はステージを作り上げていくプロセス(つまり練習)なのではないか」という一文に呼応している。思考と実践の過程をオープンにすること。本書は、通りがかりの人が個々ばらばらに音楽に触れ、言葉に触れて、時間と距離を置いて無言のうちに抱き合い、たがいを排除しない結ばれ方の、熱い実践例として読み得ると思う。
感染症をめぐる状況は、執筆時と変わってきている。しかるべき時期を見て、あたらしいプロセスを切り取る続篇も期待したい。
優れた時間論と音楽論
養老孟司
迂闊な話だが、本書をチラッと見たとき、コロナのおかげで現場の演奏ができなくなった音楽家の恨み節かと思ってしまった。読み始めたら、とんでもない、たいへん優れた音楽文化論かつ時間論であった。本書を読了したとき、まことに良い演奏を聴かせてもらったという感があった。こうした心地良さを与えてくれる書物はあまりない。選者としては、この点を大いに買った。コロナも悪いことばかりではない。時間が空き、せわしない日常の仕事から離れざるを得ないことも、人生にとって大切なことかもしれない。
音楽は時間の中を直線的に進行するから、音楽家が時間について敏感なのは当然であろう。文字言語は時間を含まないから、時間を表現する手段としては本質的な欠陥を含んでいる。さらに「音楽が終わるとき――時間モデルの諸類型」の章は傑作で、「右肩上がり」の夢から人々が抜けられないのは、普段聴いている音楽からの刷り込みではないかという示唆には、いわば虚を突かれ、自分の頭がいかに堅くなっていたかを思い知らされた感があった。
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とは
はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
どうして自分が「考える人」なんだろう――。
手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか――手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。
「考える人」編集長
金寿煥
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