中国語には品詞がない?
最近、英文法の本が売れていると聞く。
ひと昔前は、「文法はわかるのに喋れない日本人」などと言われた。喋れないのは事実であり、喋れるようにするためにはそれなりの訓練が必要なのだが、なぜか「文法」を敵視する風潮が一部にあった。英文法の本が売れるのはその動きに対する揺り戻しかもしれない。大人が外国語を学習するにあたって、文法を学んだ方が効率がいいに決まっている(もちろん、文法だけをひたすらやってもダメで、音声を覚えないといけないのだが)。
伝統的な中国では、現代的な「文法」研究は、ほとんどなされていなかった。現代的な文法書の嚆矢とされるのが、馬建忠の『馬氏文通』(1898年)である。「文通」とは文法のことで、ラテン語文法を基礎にして中国語を分析したものであった。
馬建忠は1845年生まれ。李鴻章(清の建て直しに尽力した政治家)の幕僚で、国際法を学ぶためにパリに留学していた人物。政治家としても、朝鮮半島を巡って活躍したほか、日清戦争後の下関条約の際には、李鴻章と共に来日している。彼は政治と共に言語学も西洋から輸入してきたというわけだ。伝統中国では政治家兼学者は珍しいことではない。
単語には動詞や名詞といった「品詞」があるが、現代的な品詞分類も『馬氏文通』に始まっている。ところが、馬は同時に、「字無定類」、つまり「中国語の単語には定まった品詞はない」と述べているのである。
「品詞がない」だなんて、そんなことはあるのだろうか?
「まじめだ」「まじめに」「まじめさ」は同じ
「品詞が定まっていない」と言っているのであって、「品詞がない」と言っているわけではないのだが、通俗的には「中国語には品詞がない」というような話が聞かれていた。実際、ひと昔前の辞書には品詞が載っていなかったし、「中国語には文法がない」などという人までいた。
文法がないわけがない。でたらめに単語を並べているわけではないのである。
とはいえ、中国語には語形の変化が乏しいのは確かである。西洋で「文法」といえばラテン語であり、語形の変化がその記述の中心だった。日本語の文法も活用の仕方、言い換えれば形の変化がその中心であった。中国語に「文法がない」「品詞がない」などと言われるのは、これと関係している。たしかに、中国語は単語の形がぜんぜん変化しない言語である。
動詞が主語になったり、目的語になったりするとき、英語ならingをつけたり、日本語なら「勉強すること」などと「こと」をつけたりする必要があるが、中国語ではその必要がない。たとえば、
学习很重要。(勉強することは重要だ。)
我喜欢学习。(私は勉強することが好きだ。)
“学习很重要。(勉強することは重要だ。)”の“学习”は主語だから、日本語訳すると「勉強すること」なので、名詞的に使われている。次の“我喜欢学习。”も、“学习”は“喜欢(好き)”の目的語になっているので、「勉強することが好きだ」である。
なら、“学习很重要。(勉強することは重要だ。)” の“学习”の品詞は何なのだろう。動詞なのか、名詞なのか。それとも、動詞だけれども名詞化しているのだろうか。
次の例では、“认真(まじめだ)”が、形容詞的にも、副詞的にも、名詞的にも使われている。
他很认真。/认真学习/认真是一种人生态度。(彼はまじめだ。/まじめに勉強する/まじめさは一種の人生の態度である。)
“他很认真”の“认真”は、「まじめだ」の意味の形容詞だが、“认真学习”では、「まじめに勉強する」であり、“认真”は“学习”(動詞)を修飾している。動詞を修飾するのは副詞だから、副詞的に使われているようである。さらに“认真是一种人生态度。”では、“认真”が主語になっており、日本語に訳すと「まじめさ」になる。ということは名詞かもしれない。
とはいえ、意味から言えば“学习”は動作を表しているのだから、基本的には動詞だろうし、“认真”は形容詞だろう。現在では、中国語の単語にも品詞を認めるのが普通で、その分類基準も考案されている。
語順によって意味が変わる
“学习很重要。”の“学习”は、「名詞」とは考えず、品詞としては動詞のままと考えるのが普通である。なぜなら、かなり多くの動詞はこのように主語になれてしまうので、その場合には「名詞」になっているとすると、ほとんどの動詞が名詞兼動詞になってしまい、分類する意味がなくなるからだ。
ただし、次のようなケースでは、形を変えずにもとの品詞から別の品詞に転用されていると考えられる。
很科学(科学的だ) 很客观(客観的だ) 很革命(革命的だ)
一个典型(一つの典型) 很典型(典型的だ)
“科学”は、「科学」であり、名詞である。しかし、“很科学”といえば、「科学的だ」の意味だ。同様に、“客观”は「客観」のことであるが、“很客观”というと、「客観的だ」の意味になる。“革命”は、本来的には動詞で、「革命する」の意味である。しかしながら、“很革命”のように使うと、「革命的だ」に変化する。これは形容詞としか言いようがない(“很革命”は、「革命」を推進していた1950年代から70年代にかけて、多く使われた)。“典型”も名詞と形容詞の両方を兼ねている。“一个典型”は、「一つの典型」という意味で、「一つの」と数えられるわけだから名詞である。しかし、“很典型”というと、“很”もついているし意味も「典型的だ」に変わる。
形容詞は普通、目的語をつけることができないが、一部の形容詞は目的語をつけることが可能だ。この場合、動詞になっていると思われる。
他红了脸。(彼は顔を赤らめた。)
丰富文化生活。(文化生活を豊富にする。)
完善制度。 (制度を完備する。)
浪费时间。 (時間を浪費する。)
“红”は「赤い」であるが、「顔を赤らめる」では“红了脸”とすることができる。“脸红了”だと、「顔が赤くなった」であるが、目的語に“脸”を持ってくると、動的な感じがする。“丰富”は「豊富だ」という意味であるが、「豊富にする」の意味に転換することが可能であるし、“完善(完備している)”も「完備する」の意味の他動詞に転換可能である。“浪费”は“很浪费”などと言えるように、形容詞として「浪費だ」の意味で使えるが、“浪费时间”だと、「浪費する」という動詞的な意味になる。
語形変化が少ない中国語では、品詞そのものよりも、語を並べる順番のほうが重要になってくる。 次回はそのあたりについて、いろいろ考えてみよう。
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橋本陽介
1982年埼玉県生まれ。お茶の水女子大学基幹研究院助教。慶應義塾志木高等学校卒業、慶應義塾大学大学院文学研究科中国文学専攻博士課程単位取得。博士(文学)。専門は中国語を中心とした文体論、テクスト言語学。著書に、『日本語の謎を解く―最新言語学Q&A―』(新潮選書)、『中国語実況講義』(東方書店)、『「文」とは何か 愉しい日本語文法のはなし』(光文社新書)、『中国語における「流水文」の研究 「一つの文」とは何か』(東方書店)など。
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とは
はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
どうして自分が「考える人」なんだろう――。
手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか――手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。
「考える人」編集長
金寿煥
著者プロフィール
- 橋本陽介
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1982年埼玉県生まれ。お茶の水女子大学基幹研究院助教。慶應義塾志木高等学校卒業、慶應義塾大学大学院文学研究科中国文学専攻博士課程単位取得。博士(文学)。専門は中国語を中心とした文体論、テクスト言語学。著書に、『日本語の謎を解く―最新言語学Q&A―』(新潮選書)、『中国語実況講義』(東方書店)、『「文」とは何か 愉しい日本語文法のはなし』(光文社新書)、『中国語における「流水文」の研究 「一つの文」とは何か』(東方書店)など。
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