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ふしぎな中国語――日本語からその謎を解く

餃子は重さで注文する 

 昔、大学の学園祭で中国人留学生会が水餃子を売っていた。「皮から手作り!」と宣伝していたが、よく見ると皮だけそこで作っていて、中身は留学生のバイト先で作ったのを持ってきただけだった。

 水餃子はやはり皮が大事である。日本では焼き餃子がメインで、皮の薄い餃子を食べているが、中国では皮も厚い。

 皮の厚い中国の餃子は主食に分類されるから、餃子を食べるとなると、三つや四つではない。たくさん食べる。北京大学の学食にファストフードのコーナーがあって、ハンバーガーと並んでいたのは、餃子屋であった。

 餃子は個数ではなく「両」、つまり重さで注文するのが普通であった。一両は50グラムであるが、三両ほど頼むと、北京大学の学食では18個から20個ほど出てきた。主食なので、出来上がった餃子の重さではなく、皮を作る粉の重さだと聞いたことがある。

 私は男性にしては小食なので、二十歳のころでも三両以上は食べられなかったが、もっとたくさん食べられる人も多いだろう。男ならもっと食え、と三両注文したのに勝手に四両にされたことがある。頑張って食べたが食べきれなかった。女性だと三両でも食べきれないかもしれない。

”の謎―終結点がないと完了しない

 一口に「餃子を食べる」といっても、どのくらい食べるかは、時と場合による。「食べ終わり」の終結点が決まっているわけではない前回、完了の“”と関係が深いのは、「限界達成」であるという話をした。ある動作などのスタート地点、もしくは終結地点という「限界」に到達することが“”によって表されるのだ。この点を踏まえて、“”の謎をもう少し考えてみよう。

 我吃了饺子,   私は餃子を食べて、

 昨天我买了书,  昨日私は本を買って、

 「餃子を食べた」と言いたい場合、動詞の後に “”をつければいいから、“我吃了饺子”でいいような気がするが、これでは文が終わりにできないと言われる。餃子を食べて、それからどうした、という内容が後続することが期待されるというのである。同様に“昨天我买了书,”も、これだけでは文を終わらせることができない。

 だが、“我吃了三个饺子。(私は三個の餃子を食べた。)”、“昨天我买了很多书。(昨日私はたくさんの本を買った。”のように、目的語の名詞に数量詞などの修飾語がつけば、そこで文を終わらせてよいとされる。いったいこれはなぜなのだろうか。

 「完了」するということは、どこかで何かが終結するということだ。終結する以上は、その終結するポイント、終結点が必要となる。その終結点が決まっていないと、そこまで完了したことが言えなくなってしまう。「三個の餃子」とか、「三両の餃子」といえば、食べ終わるポイントが明示されることになる。餃子は原理的にはいくつでも食べられる(そんなことはないが)。よって、終結点がある程度表されていないと、完了を表す“”がうまくはまらないのである。

 木村英樹「動詞接尾辞“”の意味と表現機能」(『大河内康憲教授退官記念 中国語学論文集』東方書店、1997年)は、次のような例を挙げている(*は非文、つまり文として成り立たないことを示す)。

 *小王找了独木桥。(*王君は丸木橋を探した。)

 小王找了一会儿独木桥。(王君はしばらく丸木橋を探した。)

 小王过了独木桥。(王君は丸木橋を渡った。)

 「丸木橋を探す」行為は、時間的に終結点が決まっていない。原理的には何時間でも、何年でも探し続けることは可能である。夢もあきらめるまでは追い求め続けることができるだろう。どこで終わるかが不明のため、終わることを表す“”を動詞につけても、何が終わったかわからなくなってしまう。

 そこで次の例。“小王找了一会儿独木桥。”は、先ほどの例に“一会儿(しばらく)”という時間の長さを表す修飾語がついている。「しばらく」って何分だよ、あいまいだから終結点なんてないじゃないか、というツッコミはできなくもないが、言語はそこまで厳密ではないらしい。「しばらく」という探す動作を行う時間の幅がいちおう決まっているから、終わりもある。よって、この文は成り立つ。

 一方、「丸木橋を渡った」を表す場合、“过了独木桥”と言える。歩くたびに延びる如意棒みたいな丸木橋は、今のところ存在しない。たいがいはごく短いものであり、すぐに渡りきることができる。常識からして終結点が決まっているので、その終結点まで到達したことが“”によって表すことができるのだという。

「~してしまえ」の“

 “”については、よくわからないことがたくさんある。中国語を学習していたころ、どうにも理屈が理解できなかったものに、次のような例がある。

 杀了他!(彼を殺してしまえ)

 中国の時代劇は物騒なので、毎回殺し合いをしているし、主人公はよく処刑されそうになる。よってこのような“杀了”の例がたくさん出てくるのだが、場面からいってまだ殺していない。どうも「殺せ」と命令しているようなのだ。まだ殺していないのに “”がついているのが謎だった。

 同じような例に、命令文で“喝了它(それを飲んでしまえ)” 、“把饭吃了(ご飯を食べてしまえ)” 、“把他宰了(あいつをぶっ殺してしまえ)”などがある。どれも対象を除去することを命令するときの形式である。このような“”は、「~してしまえ」を表している。日本語の「しまう」も本来は終結させることであるが、こういう場合には“”をつけることによって、その行為を最後までやってしまうことを求めるのだ。

中国語は不思議

2022/11/24発売

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考える人とはとは

 はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
どうして自分が「考える人」なんだろう―。
手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか―手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。

「考える人」編集長
金寿煥

著者プロフィール

橋本陽介

1982年埼玉県生まれ。お茶の水女子大学基幹研究院助教。慶應義塾志木高等学校卒業、慶應義塾大学大学院文学研究科中国文学専攻博士課程単位取得。博士(文学)。専門は中国語を中心とした文体論、テクスト言語学。著書に、『日本語の謎を解く―最新言語学Q&A―』(新潮選書)、『中国語実況講義』(東方書店)、『「文」とは何か 愉しい日本語文法のはなし』(光文社新書)、『中国語における「流水文」の研究 「一つの文」とは何か』(東方書店)など。

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