つづく〈中期〉は、テーマが身体へと移行した時期の作品である。「1・9・4・7」は四十歳を迎えた石内が、自分と同じ齢の手や足に刻まれていると感じた人生の歳月、「目に見えない記憶や時間、痛み」を撮ったものだ。さらに身体の傷を撮影した「Scars」についても「身体は時の器、傷跡は生きてきた証拠、そこには物語がある」と語っている。淡いイエローの壁に展示されたモノクロプリント。女の身体の傷は個々それぞれに表情を持っていて、そっと触れてみたくなるような愛しいものに思える。傷を受けた時の痛み、それがしだいに癒えていく「時間」により添い、傷とともに生きる「いま」を語りかける。
〈最近のプロジェクト〉は「生と死」がテーマ。淡いピンクの壁の一室に展示された「Mother's」は石内の世界的評価を決定的にしたシリーズだ。二〇〇〇年末に他界した母の遺品を撮ったもので、カラー作品が中心である。下着や靴、ブラシなどから、母の生きた時間、そしてその人がいまはもういないということが胸に迫ってくる。
このシリーズを撮影中の石内に会ったのは二〇〇二年初頭だったと思う。このころ私は台湾で暮らした母の人生を手がかりに台湾と沖縄の時間を描こうと試みた『美麗島まで』(二〇〇二年)を執筆中だった。私は母について何も知らなかったと痛切に感じていた時期であり、どこか通じるものがあったのかもしれない。
石内は母とのコミュニケーションがうまくいかなかったと語っているけれど、彼女が横須賀を撮り始めたころ母が運転する車で米軍基地周辺を走ったことがあり、最晩年の母は身体の傷を撮らせることを承諾するなど、多くは語らないながらも娘を応援し、そして石内は、写真家となった娘にしかできないやり方で亡き母と対話していたのだった。
その時に見せてもらったのが、使いかけの口紅を撮った鮮やかなカラー作品で、目にした瞬間、涙がこぼれるような気持ちになったことをよく憶えている。石内の母と私の母は一歳ちがいで、彼女たちが生きた場所は遠く離れていたけれど、大正期に生まれ、若き日の大半は戦争の影に覆われ、さらには戦後という苦難の時代を色濃く反映した人生だった。石内の母の赤い口紅は、戦後の混乱がおさまって社会がようやく落ち着いた時期に買い求めたものかもしれない、そんなことも想像させるのだ。
ごく普通に生きた日本人の女のひとりの、ごくありふれた品が「遺品」となった時、そこには「歴史」が宿っていることを私は実感したし、また母というもっとも身近なひとりの女を知らなかったという悔いがあふれてくる。ヴェネツィア・ビエンナーレ(二〇〇五年)で大きな反響を呼んだのは、国を超えて「娘」たちひとりひとりの心に響いたからだ。
石内は亡き母に対して「もっといろいろやってあげられたはずだったのに」という後悔の気持ちが今もあるといい、ゲティのピンクの壁に展示された「Mother's」をひとり見た時、悲しみの感情が沸き起こり、涙してしまったとのちに語っている。
ゲティの展示をしめくくるのは「ひろしま」である。「Mother's」を見た編集者から広島の原爆資料館の遺品を撮影しないかと依頼され、それに石内が応えたのは、「母が広島に呼んでいるのかもしれない」と思ったからだった。戦中・戦後の時代を超え、横須賀と広島は一筋の道でつながっているとも感じたという。いわゆる「ヒロシマ写真」に距離を感じていた石内だったが、母の遺品を撮影したことで、「原爆資料」とされてきた品を、その時代に生きたひとりひとりの「遺品」として見つめることができたのだろう。
圧倒的な展示だった。約二週間にわたる展示作業が厳しい論議の積み重ねであったことを知る私は、この空間に石内の思いのすべてがあると感じたし、ゲティ側も彼女の真摯な姿勢によく応えたとも思う。それはこれまでのゲティの展示とはまったく異なるものだった。
淡いブルーの壁に、さまざまなサイズのプリントが動くように展示され、その一点一点がのびやかに呼吸をしているようだった。破れ、傷ついたワンピース、赤いボタンのブラウス、衣服の切れ端、かわいらしい刺繍がほどこされた布のバッグ、時計、石鹸、靴、櫛……。爆音響く日々であっても女性や少女たちは、美しいものを装いたかった。物資も乏しくなるなか、服をつくろい、着物をほどいてブラウスに仕立て、刺繍をほどこした。針を動かす時間だけが、現実の苦しみから逃れることができたのかもしれない。この服を着て広島の街を歩いた人たち、そして原爆の閃光の瞬間を思い浮かべる。
石内はオープニングセレモニーで多数の来場者を前にこう語った。
「私はアメリカで〈ひろしま〉を展示しなければならないとずっと考えていました。〈ひろしま〉は社会的・政治的なテーマだと言われますが、そうではありません。私は原爆被害者十数万人の死ではなく、あの夏の日にワンピースを着ていたたったひとりの女の子を撮ったのです。その瞬間まで、たったひとりの無名の女の子が生きていたのです。私があの日、あの場所にいたら着ていたかもしれないワンピースやブラウスだった、そうしたリアリティで撮ったのです。〈ひろしま〉に込めたメッセージは何かとよく聞かれますが、私からのメッセージはありません。アメリカ人も日本人も原爆を知りません。この写真がそれを知るきっかけになればと思います」
来場者数人に話を聞いてみた。「日本にこれほどのアメリカの影があるということに強い衝撃を受けた」という白人男性。沖縄をテーマに取材しているという女性ジャーナリストは「石内さんが言うように、アメリカ人は広島や長崎で起こったこと、そして沖縄の現在をまったく知らない。石内さんの作品が語りかけていることをアメリカ人はどう受けとめるのか、注目したい」と話す。また老齢の女性は「ひろしま」をじっと見つめ、「アメリカにとって原爆投下の事実が何を意味するのか、さまざまな論議がある。原爆は戦争を終わらせるための手段だったという論調も根強い。けれどこの傷ついた衣服は、原爆が市民にどんな悲劇をもたらしたのか、その悲劇を私たちに静かに伝えていると思うの。〈ひろしま〉の展示は、とてもいきいきとしていて、共感できるし、考えさせられる。今も、世界にはごく普通の人たちが戦争の被害にさらされていることを」と言って深いため息をついた。
石内はオープン四日前、横須賀の米軍基地に最新鋭の原子力空母ロナルド・レーガン号が配備されたニュースを知った。「横須賀の米軍基地は、私が撮影していた七〇年代に比べると、外部から見えにくい構造に改築された。けれど横須賀そして日本は、今も戦後の影の中にあるのよ」。
POSTWAR SHADOWS展の詳細は「ニューヨーク・タイムズ」や「ロサンゼルス・タイムズ」などで大きく報道され、二〇一六年二月二十一日までの来場者は二十六万七三一三人を数えることになる。
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与那原恵
ノンフィクション作家。1958年東京都生まれ。『まれびとたちの沖縄』『美麗島まで 沖縄、台湾 家族をめぐる物語』など著書多数。『首里城への坂道 鎌倉芳太郎と近代沖縄の群像』で河合隼雄学芸賞、石橋湛山記念早稲田ジャーナリズム大賞(文化貢献部門)受賞。
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とは
はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
どうして自分が「考える人」なんだろう――。
手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか――手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。
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