インジェラと初めて出会ったのは1984年だ。ダラッと皿一杯に広がった薄パン。灰色をしていて、表面にはブツブツ小さな穴が開いている。なんだこれ、まるで雑巾じゃないか、と思ったのを覚えている。
エチオピアの首都アディスアババ。赤十字職員のサロモン君が「エチオピア名物を食べに行こう」と連れて行ってくれたのは、中心部にある古い料理店だった。2階の大広間に座って待っていたら、直径40センチぐらいの大きなジュラルミン皿がどんと出てきた。その上に載っていたのがこれ、インジェラだったのである。
「雑巾色の薄焼きパン」の中央には、とろとろのシチューがかかっている。真っ赤な色をして、見るからに辛そうだ。肉がごろごろ入っていて、クミンなど香辛料のにおいがした。そのシチューが、下に敷かれたインジェラにしみ込んでいる。
サロモン君が「これが名物のインジェラだ。汁がしみているところからちぎって食べるんだ」という。シチューがしみ込んで赤くなった10センチ分ぐらいをちぎり、おそるおそる食べてみた。
辛い! 酸っぱい!
しかし、肉の脂肪分がその辛さ、酸っぱさに溶け合い、なんともいえずうまい。これはくせになる。以後、私はインジェラ依存症になってしまった。
エチオピアではほかにパスタもあるし、ソルガムなどの雑穀のパンもある。しかし人々はインジェラこそが自分たちの主食であると思っている。
インジェラはテフというイネ科の穀物からつくる。紀元前から食べられていたという説があるくらい古い伝統食だ。
テフの粉を水にといて3日ほど放っておくと、乳酸菌で発酵してブツブツ泡の立つ溶液ができる。すでにかなり酸っぱいにおいがする。
その乳酸菌発酵どろどろ溶液を、鉄板の上で直径30センチほどの円形に延ばして焼く。表面の側に気泡のブツブツの穴がいっぱい開いた柔らかい薄パンができる。これがインジェラだ。乳酸菌の酸っぱさが濃厚に残っている。
その上に、肉や野菜をとろとろに煮込んだシチューをかける。シチューは「ワット」と呼ばれ、ヤギ肉、牛肉、トリ肉、卵などいろいろな種類があるが、どれも香辛料いっぱいで真っ赤な色をしており、かなりの辛さだ。
テフは成長しても1メートルにもならない程度の植物で、穀粒の大きさはコメの10分の1にもならない。したがって反当り収量もコメの10分の1以下だ。脱穀するときはムシロに広げて牛に踏ませるのだが、小さくて軽いから風で粒ごと飛んで行ってしまう。テフという言葉は、地元のアムハラ語で「見つからない」という意味なのだそうだ。
1980年代のアフリカの大干ばつで、エチオピアでは100万人以上が死んだという。国連の地域担当者が「テフみたいな生産性の低い主食に頼っていたから、干ばつで一気に飢餓におちいったのだ」と語ったことが報じられた。しかし生産性が高かろうが低かろうが、そこの人々が主食として食べているものに、よその人間があれこれ文句をつける筋合いはない。
「初インジェラ」の2日後、サロモン君とエチオピア北部に向かった。1984年、エチオピア北部は飢餓の真っ最中だった。
バチの赤十字救援センターでは、数10キロを歩いてやっとたどり着いた難民の子どもが、与えられた食物を口に入れる力もなく、目の前で死んでいった。
コレムの救援センターでは、2万人規模の収容キャンプに11万人がひしめいていた。テントに入りきれない者たちは、5度前後まで冷える夜を、地面に穴を掘って風をよけ、身を寄せ合って過ごしていた。
あちこちの救援センターで、どうしようもない光景ばかりを5日間も見続けた。取材を終えてアディスアババに戻るときには、こちらの神経はかなり参っていた。車の中で、口を利く元気もなかった。ランドクルーザーのハンドルを握って、サロモン君も黙りこくっている。
夕方近く、山道のカーブを曲がったとき、道路の端をとぼとぼ歩いている女性の後ろ姿が見えた。子どもの手を引いている。5歳ぐらいだろうか。
「村を捨てた難民の母子ですよ」
サロモン君がいう。食べるものがなにもなくなった村を捨て、遠くの都市に住む身寄りを頼っていく途中なのだろう。裸足の足がほこりまみれだ。
と、こちらを振り返った母親が、よろめくように道路の中央に出てきた。サロモン君があわててブレーキを踏む。母親は子どもを引きずるように、私たちの車に駆け寄ってきた。
「難民のヒッチハイクはごめんです。汚れているし、きりがない」
サロモン君がつぶやく。しかし、そうではなかった。母親は左手首にはめていたブレスレットを外し、車の窓に突っ込んできた。
「シルバー。買ってください」
真剣な目つきだ。母親は背中に水筒がわりのひょうたんを背負っているだけだ。道中の食糧を持っていないようだった。しかし、こちらもくたびれ果てている。ブレスレットに関心を示す余裕はなかった。
しかし母親は車の窓枠をつかんで車から離れようとしない。母親はまだ若い。24、5歳だろうか。耳脇でひっつめにした縮れ髪はほこりをかぶって白くなっている。前の集落から30キロぐらいは離れている。母子はきょう一日、その30キロを裸足で歩いてきたのだろう。
「いくらだい」
サロモン君が尋ねた。女性はしばらくためらったが、思い切ったようにいった。
「シルバー。7ブル」
7ブルは当時の値打ちで約700円だ。ブレスレットを持ってみた。幅は5センチほどある。細かい文様が刻み込まれてあり、きれいな細工だ。周囲の突起はすり減って丸みをおびており、長い時間身につけられていたことが分かる。
「やめときなさい。真鍮かもしれない。アディスアババに戻ればいい土産物屋がありますよ」
サロモン君はそういって車のギヤをいれた。母親は車の窓にしがみつき、右手で首のあたりを探ってペンダントを引きずり出し、力いっぱいひもを引きちぎった。
「これも。20ブル」
汗ばんだ手のひらに乗っていたのは、オーストリアのマリア・テレジア銀貨だった。
マリア・テレジア銀貨は19世紀、エチオピアのコーヒー取引で唯一通用した通貨だった。後にイタリアが鋳造権を譲り受け、1936~41年のイタリア占領時代に大量にエチオピアに持ち込まれている。
銀貨の縁はすり減って刻印の文字も読み取れないほどだ。裏面の紋章も、地金と同じ厚さになってしまっている。もしかしたらイタリア支配以前のものの可能性もある。彼女の母親、いやその母親の母親から大切に受け継がれてきたものかもしれない。彼女の家族の数世紀の歴史が、銀貨のすり減った分だけ刻み込まれているに違いない。それをいま、彼女は手放そうとしている。
サロモン君が値段交渉を始めたのを押しとどめ、ポケットから10ブル札2枚を出して渡した。この銀貨が町の骨董屋でいくらするのか、そんなことはどうでもよかった。母親は20ブルを握りしめ、子どもの方に戻っていった。ランドクルーザーはまた砂煙をあげて走り出した。
20ブルで、あの母子はいく日食べて行けるのだろうか。
ソルガムのパンだけ食べていれば1週間ってところですかね、とサロモン君が答えた。
母子と別れた後も、さまよい歩く難民に多く出会った。エチオピアには熱心なコプト派キリスト教徒が多いが、胸に下げたコプトの十字架まで売ろうとする老女を見た。シャンマという肩衣まで売り払ってしまったのだろうか、上半身はだかで歩いている老人もいた。
しかし彼らが都市にたどり着いたとしても、検問所の兵士に情け容赦なく追い返されるのが関の山だ。飢餓難民という不安定な要素が都市や近郊に入り込むのを、政府は極端に警戒している。
飢餓のエチオピアといわれながら、首都のアディスアババには十分な量の食糧があった。インジェラ料理屋で、客が食べ残したインジェラはどうするのか、ボーイさんにそれとなく尋ねたことがある。彼はいぶかしげな顔で「もちろん捨てますけど……」と答えた。
メンギスツ政権は社会主義の名のもと、地方で獲れた穀物を安い公定価格で強制的に買い上げ、首都に運んでいた。その結果、首都には余るほどの食糧があるのに地方は飢えているという状態が生まれた。首都の市場では、たっぷりの穀物が売られていた。
アフリカのクーデターや反政府暴動は、たいてい首都で起きる。首都の住民と兵士にたっぷり食べさせておけば政権は安定だ。地方などどうなろうと知ったことではない――。それがエチオピアの飢餓の実態だった。
アディスアババに戻りつくはるか手前で日が暮れた。街道筋のコボという町に着いたときは暗くなっており、ここで一泊することにした。
コボの町にも、近くの農村から多くの難民が流入し、よろよろと歩き回っていた。幾日も洗濯していないシャンマは汚れ、煮しめたような灰色をしていた。力尽き、街道筋に座り込んでいる彼らはやせていて、夜の闇の中でまるで幽霊のように見えた。
宿に入って、なにか夕食はできるか尋ねた。主人は「羊肉のインジェラしかない」という。インジェラとはありがたい、それで十分だ。
夜9時すぎ、サロモン君と2人で誰もいない食堂に座り、遅い夕食を始めた。味のしみたインジェラにのどが鳴る。
食べている途中、ふと、誰かに見られているような気がした。顔を上げると、食堂の窓に子どもが大勢しがみつき、窓ガラスに顔をはりつけ、あえぐように口を開けてこちらを見ている。汚れたシャンマ。難民の子どもたちだった。
ワットのにおいにひかれ、宿屋の塀を乗り越えて入ってきたのだろう。主人が気が付き、竹ぼうきを振り回して追い出した。しかし私はもう、食事を続ける気になれなかった。
1991年、反政府勢力の攻勢で政府は倒れた。メンギスツ大統領はジンバブウェに亡命し、新しくできた裁判所はメンギスツ氏に欠席裁判で死刑判決を言い渡した。
共和制に移行したエチオピアはいま、目を見張る勢いで近代化が進んでいる。
鉄道が整備され、アディスアババでは路面電車も走る。中国を中心とした海外からの投資で新しい産業が生まれ、経済成長率は10%にも達している。大型国際ホテルやショッピングモールが次々に建てられている。
都会と地方の格差は相変わらず大きいが、飢餓で100万人が死ぬなどという状況は昔のことになった。私が初めてインジェラを食べたレストランも健在だ。
34年前に、難民の母親から20ブルで買ったブレスレットとマリア・テレジア銀貨は、いまも私の机の引き出しの隅にしまってある。それを目にするたび、あの母子はどうしているだろうかと思う。
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松本仁一
1942年、長野県生まれ。東京大学法学部卒。1968年朝日新聞社入社。ナイロビ支局長、中東アフリカ総局長などを経て編集委員。2007年退社後はフリーで活動。『アフリカを食べる』『カラシニコフ』『アフリカ・レポート』『兵隊先生』等、著書多数。
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とは
はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
どうして自分が「考える人」なんだろう――。
手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか――手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。
「考える人」編集長
金寿煥