たかが焼き鳥……
「焼き鳥」は人々にどんなものをもたらしている食べ物だろうか――。
手にとって構え、おもむろに串を横に引き一口目を頬張る。そして今度は、肉を押し上げるように縦に串を下げ残りの肉を口へと運ぶ。そして考える。この行為になんの意味があるのか……。
「ちょっと焼き鳥屋で一杯」
コロナ禍以前はそんな言葉が、巷で飛び交っていたものだ。しかし、何が“ちょっと”なのだろう? その本気じゃない感というか、言い訳っぽい感じが気になる。
最近の焼き鳥屋は、席はカウンターだけ、「おまかせコースのみ」の完全入れ替え制だったり、あるいは会員制だったり、そういうある種の「客の本気度」を問うような店もあるにはあるし、中にはうっかり注文を言おうものなら店主から「調理中にうるさい!」なんて一喝されるような店もあるらしい。
「たかが焼き鳥ぐらいで……」
そう自問する心の声で気づくのだ。私は焼き鳥を軽く見ている。しかし、その「軽さ」に重きをおいているような気がしている。その軽さの正体を私は「エンターテインメントにある空虚さ」だと考えている。
実態の無い怪しさ
一度「最高級コロッケ蕎麦」を創作してみたことがある。本気ではなく、ほんの冗談のつもりで作った。
知り合いの金持ちの道楽者に蕎麦を打ってもらい(蕎麦打ち五段)、上等な男爵芋とメイクイーンを用意、蒸して、マッシュ、それを松阪牛A5ランクのミンチとそれぞれ和えた。さらに、上質なパン粉を粗いのと細かいやつで分け、澱粉価が高くホクホク感が大事な男爵芋は粗いパン粉をまぶしてゆっくり目に揚げ、粘度の高いメイクイーンは細かいパン粉でカリっと揚げる。もちろん油も特上のラード、牛脂、サラダ油をブレンドして使用した。そして、揚げたてサクサクのカラッとした二種類のコロッケを先ほど打ったばかりの蕎麦の上に載せ、鹿児島の枕崎から取り寄せた、モーツァルトを聴かせて燻製化した鰹節で取ったお出汁をかけるのである。揚げたてのコロッケが「ジュッ」と音を立てた瞬間が忘れられない。
食す。確かに美味かった。しかし……
「だからどうした……」
心の声が脳内でこだまする。直後に、爆笑。金持ちの道楽者も笑っていた。これは酔狂すぎると。
斯様に、世間の下流にあり、すでに価値が固まった物を上流化するのは無理がある。言い方はアレだが、「再現VTR役者界のカリスマ」みたいだ。
コロッケ蕎麦は侘しく、ちょっと憂鬱な食べ物ではないだろうか。土嚢のように重ねられた冷めたコロッケを、古本を棚からほじくり出すように取り上げ、熱々のお出汁をぶっかけ、安物の蕎麦とグジャグジャにしていただくのが“上等なマナー”なのである。
つまり、焼き鳥と同様に、「コロッケ蕎麦」も「たかが」と付けたくなるような食べ物であることを手間をかけて再確認した、というわけだ。
「たかが〇〇」というのは、言い草としては宜しくない表現だが、わきまえるべき一分という、言ってみれば、その物が世間と結びついた時からあった存在価値というのがあって、「たかが焼き鳥」というのは、むしろその存在のあやふやさを賞賛してのことと解釈されたいのである。
人が焼き鳥に魅了されるのは、焼き鳥本体の美味さというよりも、その雰囲気を味わっているにすぎない。その実態の無い怪しさが、いかにも虚業のようで私には愛おしく感じられるのだ。
陛下の前で祝辞を述べるビートたけしは「たかが芸人」だから面白いのである。近頃の芸人は、世間から“確かさ”を求められがちでやれやれだが、肝心なのは、「時代に求められたらそのように振る舞う」ということ。つまり実態の無い怪しい存在だということは忘れてはいけない。焼き鳥にまつわるエンターテインメント性にはそのようなものを感じる。
「実存」としての焼き鳥
ところで、ぼんやりとしていると案外焼き鳥はお高い。商売上のコストがどのようなものかは想像するしかないが。消費者として端的にそれがわかるのが、持ち帰った時だ。さっきまであんなに爛々と輝いて見えた物が、単なる肉の塊と化す。鶏肉、否、「鳥」の「肉」。 もっと言うと「ニワトリ」の「筋肉」に見え出す。これはどうしたものか。
焼き鳥の醍醐味は、あの不安定な椅子に腰掛け、もうもうとした煙を浴びながらいただくその「ライブ感」にあると思う。なので、持ち帰りの焼き鳥のやるせなさは、演劇のDVDを見てがっかりするのと似ていると思っている。確かに、それにはそれの楽しみ方もあるだろう。でも、ライブはライブでしかなく、その瞬間に発生した演者(焼き場主)の気分や、客の心持ちが一体化した瞬間に生まれる何かが欲しくて行くのである。本気のメシというものでもなく、といって不味かったら嫌だし、でもそこに行けばある「楽しさ」を買いに行っているのじゃなかろうか。それが「ちょっと焼き鳥」という言い草に現れていると考えるのだ。
働く同僚や、友人、恋人、親子、お一人さま。威勢の良い大将との会話、愚痴、馬鹿話、客同士の触れ合い、あるいは、決して綺麗とは言えないトイレの雰囲気、脂で滑る床……、それら全ての要素が、不規則に混じり合い、不意に生まれる物が“タレ”となって、あの「実存としてのニワトリの筋肉」にかけがえのない魅力を纏わせる。
お店は、各々美味い焼き鳥を目指してもらいたい。トイレも清潔にしておくべきだ。決して「小汚い」に胡座をかいて欲しくない。出来うる限りの精一杯を焼き鳥というメディアを通じて伝えてほしい。そうだ、焼き鳥はエンターテインメントであり、メディアなのである。テレビが一番輝くのが生放送であるように、でも、何も映らないテレビはただの受像機でしかない。
「虚鳥実鶏」――焼き鳥のイディオム
「虚鳥実鶏」という故事成語をご存じか。知っているわけはないだろう。私が作ったそれ風な四字熟語なのだから。
出来事としての「焼き鳥」と、物としての「焼き鳥」というエレメントには“嘘から出た誠”と、“真実ぶった嘘”の両方が潜んでいる。私はその虚実皮膜性にとてもアメイジングさを感じるのだ。私がエンターテインメント人だからだろうか? でも、焼き鳥にまつわるこの議論を後世に伝えられないものかと密かに企んでいる。
コロナ禍で流行った四字熟語で「不要不急」がある。私はエンターテインメント側に属する人間として、この言葉にとてつもない違和感を覚えた一人だ。「何が不要不急だ、エンタメこそ必要至急だろうに」と。
怪しい出所から布マスクを2枚だけ配布されたり、かと思えば、その後、胡散臭い差配で湯水のごとく税金を注ぐオリンピックを一方的に催されたりした我々である。それより、何気ない日常に戻すことを政府に強く願った。確かに「一虚一実」で予測が難しい世の中だった。だからすぐには必要じゃないかもしれない。でも、人間生活を営み続けるためにはエンタメは絶対に必要だし、それが発生する場こそが重要なのである。
美味いんだか不味いんだか、よくよく考えるとわからない焼き鳥という食べ物を、仕事帰りにふらっと食べられるような、そんな生活がしたい。そう思うのは、芸事という価値のはっきりしないものでしか世間様と折り合いがつかない自分の存在と焼き鳥をダブらせていたのかもしれない。その意味で、焼き鳥は「衣食足りて焼き鳥を知る」だし、その逆の「人は焼き鳥のみにて生くる者に非ず」も、また真なりなのである。
最後に。
私の妻は、まだ付き合っていた当時の私を「この人はホンモノだ」と確信したそうである。今から20年以上前の話である。その確信は間違いなかったと、今でも独りごちている。特にライブを見終わった後は「あゝ、この人と結婚してよかった」と。ノロケているわけじゃない。最後まで聞いてほしい。
しかし、家に帰った翌日からはもうため息をつくのだ。「あゝ、なんでこの人なのか……」と。
持ち帰った焼き鳥も大事にして欲しい。それも私なのである。虚鳥実鶏なり。
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マキタスポーツ
1970年生まれ。山梨県出身。芸人、ミュージシャン、俳優、文筆家など、他に類型のないエンターテインメントを追求し、芸人の枠を超えた活動を行う。俳優として、映画『苦役列車』で第55回ブルーリボン賞新人賞、第22回東スポ映画大賞新人賞をダブル受賞。著書に『決定版 一億総ツッコミ時代』(講談社文庫)、『すべてのJ-POPはパクリである』(扶桑社文庫)、『越境芸人』(東京ニュース通信社)など。近刊に自伝的小説『雌伏三十年』(文藝春秋)がある。
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とは
はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
どうして自分が「考える人」なんだろう――。
手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか――手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。
「考える人」編集長
金寿煥
著者プロフィール
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1970年生まれ。山梨県出身。芸人、ミュージシャン、俳優、文筆家など、他に類型のないエンターテインメントを追求し、芸人の枠を超えた活動を行う。俳優として、映画『苦役列車』で第55回ブルーリボン賞新人賞、第22回東スポ映画大賞新人賞をダブル受賞。著書に『決定版 一億総ツッコミ時代』(講談社文庫)、『すべてのJ-POPはパクリである』(扶桑社文庫)、『越境芸人』(東京ニュース通信社)など。近刊に自伝的小説『雌伏三十年』(文藝春秋)がある。
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